《昭和の文化遺産 第一巻 日本画I》,東京:ぎょうせい,1991

 

細野正信

帝展の写実と装飾

昭和初期の日本画壇は、大正個性主義のあとを受けて最も充実した面白い時期で、名作ラッシュの時代ともいわれている。世界金融恐慌による暗い時代であり、やがて戦時体制に入ってゆくわけであるが、もともと社会性に薄い日本画は、生々しい現実を如実に反映することはなかった。かの大正大震災すら、三、四の画家を除いては誰も手掛けることはなく、大方は温雅中庸の画風で官野ともに筆を揃えていた。

かつて東京の寺崎広業、京都の竹内栖鳳に代表された文展は、大正八年(一九一九)、帝国美術院(のち帝国芸術院)が創設されて、その運営による帝展に改組され、山元春挙・川合玉堂が頭角を現すようになる。他に東京方帝国美術院会員に小堀鞆音・松本楓湖・荒木十畝・小室翠雲・結城素明が、昭和に入って鏑木清方・松岡映丘・平福百穂・松林桂月があり、次いで同展審査員に、吉川霊華・島田墨仙・山内多聞・野田九浦・飛田周山・勝田蕉琴・蔦谷龍岬・矢沢弦月・吉田秋光・川崎小虎・山口蓬春・伊東深水・児玉希望・西沢笛・松本姿水・服部有恒・吉村忠夫・小泉勝爾があった。

同じく京都方帝国美術院会員には大正八年以来、前述の栖鳳・春挙の他、富岡鉄斎・今尾景年・都路華香・菊池契月が、昭和に入って西山翠嶂・川村曼舟・西村五雲・土田麦僊・橋本関雪・上村松園があり、次いで同展審査員に石崎光瑤・福田平八郎・堂本印象・金島桂華・中村大三郎・宇田荻邨・案本一洋・登内微笑・堀井香坡・福田恵一があった。これらの人々は戦後へその活躍期を継続する者も多く、中には名を忘れ去られてしまった人もあるものの、それぞれの立場から一風を打ち立てた人々であった。

濃い色で塗りたくる文展調は、その装飾性過多を排され、また審査員の老齢化もあって、文展は大正七年、第十二回展をもって閉幕となるが、その間、大正三年には日本美術院の再興、また同七年には国画創作協会の分派があって活気を失っており、一気に改革の止むなきに至る。大正八年の第一回帝展審査委員では主任小室翠雲の他、結城素明・松岡映丘・菊池契月・橋本関雪・西山翠嶂・川村曼舟・鏑木清方・松林桂月の九名で、うち再任は翠雲・契月の二名にすぎず、他は新任で若返りを果たした。と同時に厳選をもって臨み、文展調の払拭がはかられた。第十二回文展が総出品数一七四点に対し、今回は一〇一点と減じ、入選中の三分の一が新入選であった。したがって、かつての文展常連の型にはまった作は排除され、様変わりの陳列となった。竹内栖鳳も言っているように、努力だけの技巧画、非個性的で概念的な作、大きいだけで無内容な絵が減った。この芸術至上的な方向に対し、落とされた者は不満から、東京では如水会、京都では自由画壇に結束した。しかし、前者は内紛から運動にもならず、後者は山元春挙が、栖鳳門下による国画創作協会に対抗して始めたといわれ、それを知った栖鳳は同会に属した門下を破門した。同会は毎年展覧会を持ったが、春挙没後は忘れ去られた。

そして第二回帝展においては、かつてない新傾向が注目された。東京の結城素明「薄光」(審査員出品)、蔦谷龍岬「霜の大原」(特選)や、京都の池田遙邨 「湖畔残春」(入選)等に見られる洋風表現がそれで、かつて小野竹喬のセザンヌ風の「郷土風景」(大正六年)鑑別した文展は、ここへ来て、「白樺」の美術運動に由来する後期印象派風──それは国画創作協会に最も端的に表現されていた──の影響を容認し始めたのである。しかし契月のように彼らを「幾分の浪漫的分子を含む写生派の一団」と呼んで、 日本画は「写生が終局の目的でない」(『東京朝日新聞』大正八年十月二十六日)という者もあった。この傾向には、今村紫紅以後、「白樺」や、岸田劉生を土壌に萌芽した院展の速水御舟の徹底写実「比叡山」「京の舞妓」(大正九年)が、若い画家達を大いに刺激したことも論をまたない。横山大観はこれらの傾向を「西洋かぶれ」と笑ったが、素明はそれに反撥して、「構図の上で洋画じみたものができるのでしょう。又光や空気等多少考えられては居ますが、全体絵具の性質が違っているのですから到底洋画のようなものの出来るはずがないのです」(『みづゑ』大正九年十一月)と言っている。

この写実的傾向にショックを受けたのが、松岡映丘門下の大和絵系の若手画家であった。映丘は大正三年、第八回文展に「夏たつ浦」(震災で焼失)を発表、写生的風景に一境地を拓いて、矢野龍渓に「構図、色彩共に洋画家はだし、然も描法真を得て、後期印象派の精神を捕へたかと思はしむ」(『東京日日新聞』 大正三年十月二日)等と評されていたが、この方向を起点として無名の新人が新興大和絵会を大正十年春に結成した。岩田正巳・穴山勝堂・狩野光雅・遠藤教三の四人でいまだ帝展に入選もしていない人々であった。師映丘と評論家の川路柳虹を顧問として発足、大和絵的手法による写生的風景画を発表した。この造形・色彩両面から明快に割り切った大和絵モダニズムは、以後、帝展の一特色となってゆく。

この時点で、鏑木清方とともに線描を尊んできた平福百穂は、(一)百花妍を競うていの装飾的画面──文展以来の傾向に大観の琳派への傾斜が影響、(二)院展内流行の片ぼかし──小杉未醒が持ち込んだマティスのそれを大観が変形して大正四年から始めた、(三)群青塗沫による写実主義──御舟の「洛北修学院村」(大正七年)以後の傾向を排して自分の手法を見い出せとしながらも、生動ある写実的傾向は認めるようになる(『現代』大正十一年十月)。つまり、清方も「自覚なしに知らず知らずそうなった」(『アトリエ』昭和十二年二月)と自認しているとおり、写実主義による合理的描法が時代の常識となってきたのである。

大正十五年の第七回帝展の傾向に触れ、栖鳳は、装飾的と写実的とに大別出来るとし、「前者に新しい萌芽のみえるものと復古的なもの、後者に自己の意想を盛り込もうとするものと、ただ写実に走っているものとがある」(『美之国』大正十五年十一月)と指摘している。例えば栖鳳の「斑猫」(大正十三年)は、用筆の抜群の技巧に支えられた写 実画であるが、物音にふと頭をもたげてこちらを警戒している銀眼、そこにこそ意想があって、画面外に動きを暗示する。すなわち写形に徹して写意を表すのが彼の言う意想であった。

面白いのは、洋画家の岡田三郎助が、第五回帝展で裸婦「水辺」を岩絵具で仕上げてみせたことである。前述の素明の発言に対して、やれば出来ると証明してみせたようなもので、多少ざらつきはあるものの見事な写実画となっている。これをさらに突き詰めたのが後の杉山寧といえよう。以後、帝展は写実と装飾の二方向を並行させながら次第に両者の渾化をはかってゆく。

昭和初期は名作ラッシュと先に触れたが、かくして、その第一号ともいうべき作が清方の第八回帝展出品作「築 地明石町」(昭和二年)である。この作は画壇の最高賞ともいうべき帝国美術院賞を受賞した。「刺青の女」(大正八年)「妖魚」(大正九年)「水汲」(大正十年)「朝涼」(大正十四年)と、清方画が写実的に知らず知らず推移したうえに成ったところに意義がある。白描の夢を大事にする彼が「裡に蔵して筆勢を外にあらわさない」筆力(『美術評論』昭和十年五月)によってスキッとポーズを決めている。舞台は外人専用の居留地であった明石町。少年の頃憧れた異国情緒漂う一角。白ペンキの柵に遅咲きの朝顔が淡く弱々しく、遠く帆船のマストが白描で浮かぶ。モデルは幽艶な幻想世界を筆にのせた泉鏡花紹介の女弟子で上流夫人の江木ませ子。夜会結びの痩形の深川辰巳の芸者が、襦袢も着けず、素肌にガウンのように小紋縮緬の単衣に黒縮緬の羽織を着て、素足に錆朱の鼻緒の畳つき東下駄をそそくさとつっかけ、旦那を見送って足を翻した瞬間をとらえている。晩夏の朝まだき、忍び寄る秋の思わぬ冷気にふと懐手して胸元を繕う。薄くれないに頬は染まり、紅絹裏がちらりとこぼれる。余情纏綿として、なんと嫋々たる一コマであろう。彼が主張する形に伴った豊かな内容がここにはあり、瑣末主義に陥らない写実と、華麗さに走らない装飾との見事な一致が見られる。清方によれば男性の描く美人画は愛欲の芸術化されたもので、竹久夢二のように愛人をモデルにした場合がしばしばであるという。しかし、清方自身は、浮世絵に例えれば鈴木春信のように夢があって清潔であり、ほとんどが回想の中の夢とうつつの境目の幻の美女である。夢二は確かたまき・彦乃・お葉という愛人兼モデルの遍歴の中で描いたにしても、究極は彼自身も言うように、「理智の影のささない、訴えるような憧れるような、久遠の純心を持った眼」と「蕨の新芽のような足」と「桜の花弁のような踵」の「羊のような柔軟性(フレクシビリテ)」(『中央公論』大正九年八月)を持った女体を求めたのであり、「五月の朝」(昭和七年)もそんなイメージを如実に語っていよう。一方、女性の描く美人画となれば上村松園に代表される。「序の舞」(昭和十一年)は女性の象徴的理想像ともいうべく、「優美なうちにも毅然として犯しがたい女性の気品」(『青眉抄』)を描いたという。

四条派から出た竹内栖鳳は抜群の技巧の持ち主であった。前にも触れたが、その自在な用筆は処を得て的を外すことがない。「実物を知悉して、その大要を摘撮する」(『西洋美術巡遊見聞談』)と彼は言うが、自然の裏側までうかがい知ることによって、筆が雰囲気を伴って空間を獲得する。写意と写形の一致である。「城外風薫」(昭和五年)の颯々たる空気の香りはそこから生まれる。栖鳳門下で、動物描写においてしばしば師を抜きん出たといわれたのが西村五雲である。「日照雨」(昭和六年)は、ポツンと来た意外な雨に、軍鶏たちの驚きを人間以上に鋭く示している。橋本関雪の器用さも栖鳳から出て、昭和初年からは人気作家となった。文人であった彼は、自由奔放さの中に古典的味わいを含み、急速に新風を追う傾向の中で、一種郷愁をそそるところがあった。

春挙が昭和八年(一九三三)に没してのち、急速に画名を挙げて、巨匠の列に並んだのが川合玉堂である。もともと四条派出身で、途中から雅邦に就き南宋画に範をとった彼が、京都風を脱するのは六十歳過ぎてからと自ら語っているほどで、春挙の写真を土台にした写実的自然主義は、玉堂の抒情あふれる主知的自然主義にとって代わった。近代風景画の典型といえよう。彼の傑作が「峰の夕」(昭和十年)等、昭和十年代に集中しているのも故なしとしない。線描に愛着を示しながら、玉堂に近い歌人・文人に平福百穂がいる。昭和七年、東京美術学校教授となるが、模写をしない教育に失望する。その柔和な水墨調のタッチは毛筆のデリカシーを伝える。

大和絵では西の菊池契月、東の松岡映丘が双璧であった。イタリアのプロト・ルネサンスや、フレスコ壁画に 感動した契月は、日本古典との調和をはかって気品高い画格を獲得している。一方、映丘は寺崎広業や梶田半古から写生を重んずる広い教育を受け、明治四十一年、小堀鞆音教授の下で東京美術学校助教授となり、多くの優れた後進を育てた。早くから「大和絵も一つの自然からあの形式を生み出した」としていた彼の信念は、やがて新興大和絵会を生むことになり、帝展の一角を代表する。この新興大和絵調は、昭和九年からの瑠爽画社(杉山寧・浦田正夫・河辺貞夫・岡田昇・山本丘人)に発展、映丘没後は、同十六年から一朶社(浦田正夫・岡田昇・高山辰雄・野島青茲)へ展開、戦後日展の大きな支柱となった。

大正七年、国画創作協会を興した土田麦僊・村上華岳・小野竹喬・榊原紫峰・野長瀬晚花は、最も鮮烈に大正個性主義を彩ったが、昭和三年、同会日本画部が解散して後は、麦僊・竹喬は、帰り新参として帝展に復帰した。前者の、特にヨーロッパ巡遊後の「大原女」(昭和二年)「罌粟」(昭和四年)「明粧」(昭和五年)と続く洗練された造形性は、平塗りに適した日本絵具の特質を鮮明に生かした色彩を伴って明快な画面を提示した。竹喬はまた大胆な洋風から出発して、時に南画的、時に大和絵風に描線を駆使し、自然の鼓動を伝える多彩な空間を表した。そのめくるめく色彩は内燃する感性をじかに伝えて来る。華岳は、国画創作協会仲間の榊原紫峰とともに、昭和四年帝展永久無鑑査の推薦に挙げられ、松田改組で指定に推されたにもかかわらず、二人ともどこ吹く風と受け流し、ついに帝展に一度も出品することはなかった。華岳にとって、制作は密室の祈りであり、人に観せることなどはどうでもよかったのである。生来、瞑想的性格で求道者のような生活を送り、晩年好んで神秘的な水墨風景画を描いた。一方、紫峰は生態に注目した写実的花鳥画に近代味を発揮した。

山口蓬春と福田平八郎は東西を代表して感覚的モダニズムともいうべき画境にある。蓬春は、初め東京美術学校西洋画科に学び、一年在学中から二科会に入選、翌年にも入選して早熟の天才ぶりを発揮した。しかし、二科会であみれば、官展系の美校に弓を引いたようなもので、教授の長原孝太郎に「山口君の絵は大和絵巻と似ている」と半分からかわれ、突如日本画科へ転科して始めからやり直した。卒後、映丘主宰の新興大和絵会に入り、二年目に「三熊野の那智の御山」が特選、かつ帝国美術院賞という抜群の成績を上げた。この鮮やかな進出ぶりが、この後の新興大和絵調流行の契機となったのは言を俟たない。大正十五年のことである。映丘門下筆頭となった蓬春は、昭和十年の松田改組で会員に準ずる参与に挙げられた。ところで映丘は何故か大観とだけ馬が合わず、一門を挙げて国画院を結成し、大観の帝展乗っ取りと言われた改組帝展に対峙した。蓬春は体制との板挟みに遭って、参与を辞し、国画院にも加わらなかったが、この勉強家は、常に内外の画集を渉猟し、洋画の感覚で日本画を描くようになる。

一方、平八郎は、栖鳳・菊池芳文春挙らの自然主義的写実傾向から脱皮して、知的な視覚中心の観察に基づく、新写実主義といった立場にある。蓬春・中村岳陵とともに昭和五年結成された六潮会に属し、自由に描いて画壇の注目を集めた。その視覚的喜びは写生に徹して対象そのものを表し、具体的でありながら、時間とか空間とかの観念象徴ともいうべきかつてない世界を現出した。

かくして昭和戦前期は、東京派も京都派もなく、狩野派も四条派も遠くなり、個性に立脚して一人一人が独自の歩みを始めている。

 

文章標籤
全站熱搜
創作者介紹
創作者 生之 的頭像
生之

Ahura

生之 發表在 痞客邦 留言(4) 人氣(4)