6. 満州国建国と戦争の影響

すでに述べたように、1932年の満州国建国は、画家たちを満州に引き寄せる契機となった。満州国が帝政となった1934年には、大木豊平が「新興国満州」を出品し、この国家の前途を言祝いでいる。ただし、大木は、男性である皇帝溥儀ではなく、二名の童子を引き連れた匿名的な女性像という三尊像形式をもって、〈満州国〉を象徴させた。これだけを見れば、単純に女性をもって国家擬人像を作成する西洋の作法にならった操作、あるいは溥儀に敬意を表するためにあえて直接描かなかったと解釈することも可能かもしれない。しかし、この絵画は明白な〈満州〉の女性化であり、官展という場においては、馴致された安全な対象として〈満州〉を観賞させるものであっただろう。そして、宗教画の形式は、武力による統治ではなく、徳による「王道」の実践を連想させる。

満州国は、建国宣言において、「王道主義を実行し、必す境内一切の民族をして熙熙皥皥として春台に登るか如くならしめ、東亜永久の光栄を保ちて世界政治の模型と為さむ」ことを謳っている。こうした理想主義を象徴するスローガンが「民族協和」であり、「王道楽土」であった。前者のタイトルの絵画は、岡田三郎助が満州国国務院大ホール壁画として制作している(1936 年)。河田明久によれば、この壁画に描かれた民族衣装を着た人の女性は、「その衣服から満州・朝鮮・中国・モンゴル・日本の擬人像であると思われ」、同じく描かれた3人の男性が持ち物から「漁業・農業・牧畜業を表」していることがわかる。この総和が文字通りの「民 族協和」を視覚化しているのである。建国宣言に「凡そ新国家領土内に在りて居住 する者は皆種族の岐視尊卑の分別なし」と謳われた「民族協和」の原則は、同じ背丈の女性が横並びになる姿で視覚化されている。同じような表現は、日本・中国・ 朝鮮の民族衣装を着た女性が合唱する、北村西望「合唱」(奉天満鉄教育塔、1938 年)にも見られ、定型的表現だったことがわかる。ただし、岡田も北村も、日本女性を中心において日本の優位性を示してしまっており、結果的に「種族の岐視尊卑の分別なし」という原則を遵守することができていない。

昭和11年文展招待展に出品された鶴田吾郎「康民収徳」もまた、「民族協和」を主題とする絵画である。前景には、左から承徳のラマ僧、モンゴルの羊飼いの少年と老人、農作物の籠を持った母と娘、都市に住む中国服の若い女性、クーリーの男性が描かれ、左方に満州国政府第二庁舎が描かれた後景には、首都新京の建設風景が配されている。タイトルの「康民収徳」は、満州国の年号「康徳」を指しており、画面の正面性からすれば、建設途上である若い国家・満州国をモニュメンタルに顕彰したものであると結論することが可能であろう。また、さまざまな宗教・民族・職業・性別の人物を横並びに描くことで、「民族協和」を表している。興味深いことは、ここに日本人と思しき人物が描かれていないことである。日本人が自らの「帝国意識」を捨て去れない以上、「民族協和」という建前は日本人抜きにしなければ、表象することができなかったのである。また、帝展の作家/鑑賞者にとって、「楽土」としての〈満州〉は、外から眺める対象であって、自らがその内部に没入することは幻想の崩壊を予感させる。事実、先述したように、これ以後に登場する満州開拓民の姿は、「楽土」を謳歌する姿から程遠いものであった。

「王道楽土」は、野田九浦が同タイトルの絵画を1939年の新文展に出品している。瓜を満載した籠を背負ったロバとその傍らに座る老人が描かれている。こちらを見ている老人の面貌は、まなじりが下がっており、困っているようにも、こちらにこびているようにも見え、曖昧模糊としているが、大量の瓜は豊作を表し、「約束の土地」としての〈満州〉を明確に表象している。

かつて「約束の土地」を視覚化した辻永は、満州の大地の上に虹をかけてみせた。同様の虹は、ロシア人街にかかる虹を描いた、野村守夫「虹構道河子(ホンダウホツ)」(1940年)や大陸の彼方に向かうらくだの視線の先に虹をかける、柴田儀蔵「曙の光り刺繍壁掛」(1940年)として再登場する。 

矢崎千代二「建国忠霊廟」(1941年)は、いわゆる皇紀二千六百年を記念して、アマテラスを祀った建国神廟とともに建設された忠霊廟の上に、虹がかかる様子を描いている。手前にロバが一頭描かれているのは、野田の「王道楽土」との連続性を想起させるが、それ以上に、辻の「満州」と同じ位置にかかった虹が際立つ。しかし、農地を描き、血の臭いを感じさせなかった辻の絵画とは異なり、忠霊廟の存在は「二十億の国帑、十万の英霊」をあからさまに想起させる。日中戦争のドロ沼化によって総力戦体制が確立してゆくにつれ、「約束の土地」「楽土」として の〈満州〉は、徐々に血によって贖われた「聖地」「兵站基地」としての〈満州〉に 上塗りされてゆくことになる。

事実、1943年の新文展には、菊池精二「ノモンハン高原」と同時に三雲祥之助「北満の都」、本儀信「哈爾浜の裏街」が出品されていたが、翌年の戦時特別展では、長坂春雄「ソ満国境守備」、伊藤慶之助「休息(蒙疆前線)」、香月泰男「ホロンバイル(陣中作品)」、山鹿清華「手織錦驀進図壁掛」と時局主題が〈満州〉表象のほとん どを占める。また、満鉄の広告においても、1943年にはこちらに微笑みかける女性像が採用されたが、翌年には「兵站基地満州」というスローガンを配した殺風景な満州開拓団村の朝礼風景の写真に取って代わられている。

表象文化に限定していうならば、「王道楽土」の〈満州〉という理想は、1945年8月のソ連軍侵攻で崩壊したのではなく、日本人移民が盛んに入り込んできた1930年代後半には崩壊が始まり、1944年には崩壊が決定的なものとなっていたのである。

 

結論:不安と幻想の〈満州〉

最後に、本稿で明らかになったことを纏めておきたい。官展に〈満州〉を展示することは、まさに満州という地を、帝国日本が権威付けする表象空間の中に馴致することに他ならなかった。注意すべきは、こうした馴致が決して「偶発的」な成り 行きではなかったということである。

本稿で見てきたように、官展における〈満州〉表象は、辻永「満州」をはじめとする「約束の土地」としてのそれ、ハルピンや承徳や「土地の女」を描いた「観光楽土」としてのそれ、鶴田吾郎「康民収徳」をはじめとする「王道楽土」「民族協和」の満州国として描かれた。こうした理想郷の幻想は、満鉄・満州国のプロパガンダと全く同じではない(例えば、官展の女性像は、プロパガンダのそれのように常に 微笑んでいるわけではない)が、多くの部分を共有する。ただし、注意すべきは、これらの表象が青山熊治「ホワンチウ」のような恐怖に結びつくイメージの再生産を許すことがなかった環境で成立したということである。つまり、私たちはこうした幻想を成立させた官展という場に、恐怖の対象の徹底的な排除という「政治的無意識」の存在を垣間見ることができる。

そして、この幻想は一見、〈満州〉の馴致の成功のようであるが、恐怖の対象の隠蔽はかえって、具体的な対象が見えないゆえに不安を際限なく増幅させる。とすれば、官展における「ホワンチウ」の不在が、〈満州〉を理想郷という幻想に馴致するとともに、それがいつ崩壊するかわからないという不安を育ててもいたともいえよう。隠しきれない「帝国意識」は、こうした不安の裏返しでもある。満州開拓民を描いた絵画の一部には、この不安があふれ出す様が予感されていた。

果して、満州は崩壊し、戦後の日展からは〈満州〉主題が消えた。その代わりに残存したのは、〈中国服の女〉という主題である(1946年から78年にかけて 49 点)。この中には、綿引弘「追憶」(1949年)、佐藤義信「支那服の女(大陸の思い出)」(1955年)という作品が存在する。これらが〈満州〉を指しているかどうかは、曖昧である。しかし、かつて自らが支配した「土地の女」の「思い出」をロマンティックに「追憶」しようとする視点には 、敗戦によって失われたはずの「帝国」へのあくなき欲望を指摘することができるだろう。

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