5.「観光楽土」としての〈満州〉
辻が「満州」を描き、田中が「開拓地の家族」を描くまでのおよそ30年間、〈満州〉表象をリードしたのは、「観光楽土」としてのイメージである。飯野正仁「〈満洲美術〉画家名索引」のデータによれば、日本人画家の満州渡航は、1920年代までわずかであったが、30年代から急激に増加している。また、本論文の巻末に掲載した一覧表に示したとおり、官展における〈満州〉表象は、1934年以降急激に増加している。ここには、満州国建国が深く関わっていると見るべきだろう。
すでに見たように、満州へ画題を求めよという意見は、1910年代より存在する。それでも渡航者が伸びなかった理由は、治安問題にあるだろう。『康徳四年 満州年鑑』(1936年)は、「満州国は治安第一主義を標榜してこれが確立を計」っていると前置きし、関東軍を中心とする治安部隊が、満州事変後30万人存在していた「匪賊」を2万人前後まで減少させたと高らかに宣言している。つまり、軍による「治安」行動によって始めて安全な旅が可能になったのである。「観光楽土」としての〈満州〉表象は、日本の満州侵略に抵抗する現地の人びとを暴力的に排除することで成立していたことをまずは確認しておきたい。
なお、満州に旅行した美術家たちは、作品だけではなく、美術雑誌に寄稿した旅行記によって、〈満州〉を表象しているが、旅行記のいくつかには、官展の作品群には決して登場しない、満州における「暴力の予感」を垣間見ることができる。
奉天には日本人も可成入り込んでゐるが、歯医者薬屋などが主なもので、格別土地に対して、有力と云ふ訳でもなく、只兵隊の力だけで治まつてゐると云へると思ふ。奉天に着いた頃は、日支の交渉が危殆に瀕してゐる時分で一日城外で写生を初めた所が支那兵に捕まつて、種々の尋問を受けて、漸く助かつたは、助かつたが、心持が悪いので早々、帰途に着いた様な次第である(三宅克己「鮮満美術行脚」『美術週報』78号、1915.7.25)
一ヶ年位もゐて、様子が分つて来ると、落ちついて戸外で写生も出来るさうであるが、不馴れな時分等は、どうも不安で、そしてあの大きな支那人がたくさんゐるので、不気味な気がして、三脚を据へ、一心に絵を描くなどいふ気持にはなれず、描きたいと思いながら戸外のスケツチはとうとうあまりやらないでしまつた(吉村芳松「満州雑記」『美術新論』第3巻第2号、1928.2)
今二時間程前に銃殺があつたのださうで石に腰を下ろした男が、この石の上に立て頭と胸をやられたんで、と笑ひ乍らタバコをスパスパ吐いて居た成る程その石はまだ少し赤味のある血が干からびて真昼の太陽に光つて居た、そしてそこの砂の上で斑々血のあとが黒ずんで見へるその砂を子供等が二三人で頭からかけ合ツこをして遊んで居る。そんな事からみて支那人は私等が考へる程銃殺と言ふ事の重苦しさを感じないらしい(野長瀬晩花「奉天所見」『美術新論』第5巻第7号、1930.7)
以上に挙げた3つの旅行記の抜粋は、いずれも満州国建国以前のものだが、ここには軍や憲兵の暴力が日常化した社会像、「観光楽土」とは無縁の、不安と恐怖に満ちた〈満州〉が描き出されている。もちろん、こうした言表は、〈満州〉を「野蛮」として対象化/馴致しようとする試みでもあるが、不快感の表明は彼らが〈満州〉を馴致しきれていない証左でもある。このように〈満州〉に亀裂を入れるような言表は、満州国建国以後、美術家の旅行記から徐々に消えていった。その一方で、1910年代以降、美術家の旅行記の大部分を占め続けたのは、「写生地」としての満州の見どころをレポートする言説の数々であり、「美」のまなざしの中に〈満州〉を飼い馴らそうとするピクチャレスク言説である。彼(女)らは、旅行記と作品を通して、湯浅一郎のいう「亜細亜趣味東洋趣味の新らしい殖民地」の開拓に努めた。
満州の樹木は朝鮮ほどの浅緑ではないが、内地の夏末秋初の樹葉に比しては其緑遥かに鈍且浅のである。此の一個風景は、之を単色にし、且文人画風の筆勢を添 へれば、宛として、典型的の漢画である。而もまた主観の伝習感を少し他へ外らせれば、ルウドウイヒ・フオン・ホフマン氏あたりの情趣にもなるのである。是は樺皮荘附近の所見であつた。/この線は満鉄線に比すれば其停車場の様子が更 に支那らしい。二三の青年支那人が揃つてゐる所などは、パラレリズム好みの油 絵には、極めて好適な材料で、其男子服装は日本の着物に比して遥かにピットオレスクである(木下杢太郎「吉林」『美術新報』第16巻第3号、1917.1.9)
去年の十一月のこと、私は機会があつて、一ヶ月余り、大連及びあの附近に遊んだ。あの辺は、空気が乾燥してゐる為め、景色に距離が見え、調子がよくついて見える、(もつとも、その代り喉が張れて、唇が梅干の様にひゞわれて来るが)カンバスに向つて描く時、スツカリ制作の段取りがきまつて、一筆一筆が進行する。日本の風景は、一体に平面に見え、描きながら色々と表現の段取を極める様な事が多いが、こゝはそんな事は無く、建築も立体であり、山も松や杉などなく、明るくて、何処を描いても面白さうで西洋画には持つて来いの風景だと思つた〔…〕。写生地としては、奉天の郊外だとか、金州、老虎灘、小兵塔、大連ではロシヤ町、桃源台、など素敵だと思ふが、その他何処へ画架を据えても其まゝ絵になる処ばかりである。折を見てまた行きたいと思つてゐる(吉村芳松「満州雑記」『美術新論』第3巻第2号、1928.2)
離宮の城壁に登つて四方を見渡すと、まるでお伽噺の世界に来たやうな気がした。これは彫刻家よりも建築家とか洋画家などに見せたいものだと思つた(長谷川栄 作「満州に於ける古美術」『美之国』第9巻第8号、1933.8)
美術家たちの多くは、作品の主題を求めて満州に渡り、絵画や彫刻といった「美術作品」のかたちで〈満州〉を作り上げ持ち帰ってきた。その一方で、以上の旅行記の抜粋には、奇妙なレトリックが見られる。木下杢太郎によれば、満州の風景は「之を単色にし、且文人画風の筆勢を添へれば、宛として、典型的の漢画」になってしまう。吉村芳松によれば、満州は「何処へ画架を据えても其まゝ絵になる処ばかり」である。長谷川栄作にいたっては、承徳の離宮に「まるでお伽噺の世界」を見出している。あたかも、彼ら日本人美術家の介在以前に「美術」として馴致された〈満州〉がほぼ完全なかたちで存在していたといわんばかりのレトリックである。そうではなく、彼らは日本がこの地に勢力を伸ばしたことを背景として、この地に乗り込み、この地の風物を「美術」として馴致したのである。こうしたレトリックは、生の満州から表象としての〈満州〉が生み出される暴力的プロセスを無化し、すでに馴致された〈満州〉表象を自然化してしまう。
もっとも、旅行記のレトリックは、これだけ見れば単にエキゾチックな風景の美しさを賛美したものに過ぎないかのように見える。実際、美術史家・田中日佐夫も回想して同様の意見を述べている。
「満洲」の風土の性格は、一口に言ってはなはだ非日本的であり、同時にそれだけヨーロッパ的な要素が多く、洋画家によろこばれるものであったように思うのである。〔…〕私の体験感覚から推して、日本人洋画家にとっての「満洲」は、ゴッホにとってのアルルのようなところではなかったか、と思うのである
もちろん、画家としての体験から語られた田中日佐夫の見解は、貴重なものである。そこには真実が含まれているだろう。ほとんどの美術家たちは、満州を馴致しようと意気込んで、この地に向かったわけではない。ただ単に彼(女)らなりに新しい「美」を追求したのである。しかし、このような見解が見過ごしているのは、彼(女)らも私たちもまた、〈満州〉を巡る言説枠組みから自由ではないということである。誰も彼も無垢ではあり得ない。言表であれ、作品であれ、〈満州〉を表象す る者は、現実の空間としての満州及び表象としての〈満州〉の統治/コントロール を巡る政治学に関わらざるを得ない。そして、そこに「観光楽土」を見出す美術家や批評家・研究者の言表/作品は、軍や憲兵の暴力を背景とした日本の満州支配を前提としつつ、そのプロセスを隠蔽し、あるいは自然化することに貢献してもいる のである。
さらに、画家が自由自在に満州の風景を「自由自在」に画題として取り込み、官展に展示したと考えるのは間違いである。タイトルから描いた場所が明らかな風景画に関していえば、初期の平井楳仙「遼河の夏」(1914年)、今中素友「鴨緑江」(1920年)、戦中期のノモンハンを描いた数点を除くほとんどの作品が、大連(3作品)・熱河承徳(10作品)・ハルピン(9作品)の3箇所に集中する。観光地を積極的に描いた官展の〈満州〉風景画は、すでに認知された〈満州〉イメージを意識的になぞることによって、〈中国〉とは異なる〈満州〉を官展の中に馴致することに成功した のである。
中でも特に好まれたのは、喇嘛廟を始めとする寺院が多く存在する熱河承徳である。「観光楽土」を謳う満鉄のPRは、1938年から 40 年にかけて、6度『写真週報』に掲載されているが、いずれも熱河承徳を素材としている。そのうち、2度は女性と喇嘛廟の組み合わせが採用されている。PRでは、らくだに乗った現地の女性がこちらに微笑みかけている。この広告は、「観光楽土」の安全性と適度なエキゾチシズム、女性の民族性と観光客に与えられるであろう「歓待」を仄めかす。つまり、「満州の地は君たちを招く」というのが、このPRのメッセージであろう。なお、1930年代末以降になると、らくだが目で鑑賞者を満州の大地へといざなう小早 川秋声「大地は招く」(1940年)のような、あからさまに大陸宣伝政策を後押しする画題が登場することになる。
もちろん、官展に展示されたすべての〈満州〉風景画が、プロパガンダ目的のPRと同じ意味内容を持っていたわけではない。しかし、少なくとも、PRのメッセージを阻害するような風景を画家たちが描くことはほとんどなかった。現在の視点からすれば、武藤完一「苦力の家大連」(1941年)は、不穏な雰囲気を漂わせる作品として注目されるかもしれない。ただし、1937年に運航開始された大連観光バスにおいて、「苦力」は「観賞に耐える観光資源」として扱われていた。事実、武藤は「苦力の家」を、「ホワンチウ」のような至近距離で描くことはなく、安全圏から遠巻きに捉えており、鑑賞者は観光客と同じような視線を追体験することになる。観光の視線が、〈満州〉を無害なものとして対象化し、馴致するのである。
満州を「研究」した美術家たちが観光名所と同程度に期待したものは、満州女性である。1910年代から40年代までの美術雑誌に掲載された満州旅行記には、満州女性に関する記述がしばしば見られる。池田忍が指摘するように、「帝国」のエリート男性たちにとって、「土地の女」を描くことは自明なことであった。なぜならば、彼らは「官能性、性的な期待、生殖の可能性を示唆する女性表象」をして、「比喩的に女に置き換えられる「未開」の土地を自らの掌中に収めたいという男性的な支配幻想をかきたて」たからである。
例えば、美術批評家・木下杢太郎が1917年の『美術新報』に簡単なスケッチを添えて寄稿した満州旅行記は、この類の文章としては最初期に位置するものだが、満州女性の印象を次のように述べている。
筱禿紅と云ふのは美少女であつた。それよりも栄筱芬といふ方が一層美しく且愛嬌があつた。銀色にきらきらしたる頭冠を頂き、袖の寛い文様のわづらはしい衣を着た全形は却つて絵画的に愉快ではなかつたが、容貌は天津人形的に支那的に美であつた。〔…〕予は「子孩」の入智恵で、七時比茶園附近の一旗亭に至り件の歌女を聘して、まの当りで其容貌を観察した。(金一元半を以て茶を喫し女を見る ことが出来るのであつた)
歌手の女性を「天津人形的に支那的に美であった」と評した木下のまなざしは、相手を血の通った人間的として捉えるよりは、モノとして形態的に捉えることに終始している。しかも、金銭を払って、近づいて長時間凝視する姿は、女性に対する 彼の支配志向と窃視症的な欲望がむきだしにされている。男性画家と女性モデルとの間に存在する支配/被支配関係は、満州にかぎった話ではないが、そこに植民する側とされる側の関係性が上書きされることで、両者の関係性は、まさに「土地」の領有をめぐるアレゴリーとなる。つまり、木下は女性像という形式で〈満州〉を馴致し領有した、彼の「研究」成果を中央の美術雑誌に報告したのである。
官展に登場した〈満州〉女性像の大半は、民族服を着ている(もちろん、田中実一「ハルピンの娘」[1940]のように洋服を着た女性像もわずかであるが存在する)。大木豊平「満州郊野の梨花」(1925年)など伝統的な満服を着た女性像が 3 点、一木隩二郎「ロシヤの女」(1929年)などロシアの民族衣装を着た女性像が2点、現代的な中国服の女性像が2点(前出の「満州娘」及び前田青邨「観画」。ただし、中国服の女性像は数多くあり、その中に〈満州〉表象が少なからず含まれている可能性は否定できない)、鶴田吾郎「蒙古の女」(1937年)などモンゴルの民族衣装を着た女性像が2点である。
田口信行が岩淵芳華「蒙古の女」(1942年)を評した言葉に、「民族性に根ざした原始性の表出」(『美術と趣味』1942.12)とあることからも明らかなように、画家および鑑賞者の関心事は、いかに「民族性」を視覚化するかにあった。民族衣装は「土地」の象徴であり、それを女性に着せて描き官展に展示することで、帝国日本による「土地」の馴致/領有が視覚化されるのである。女性支配=土地支配という論理をあからさまに表している作品は、先述した彫刻・堀進二「大陸」(1943年)であろう。大地に横たわる裸体の女性は、まさに、〈満州〉を「こちらに対して無防備に身をさらす女の身体」として馴致した表象であり、(女=満州に対する)男性的な支配欲望をかきたてようとする意思が明白に表されている。
他方、男性像を見ると、官展に展示された〈満州〉女性像のほぼすべてが若年層(性愛の対象としての女性)を対象にしていたのに対し、男性像のほとんどは老人を描いたものであった。男性単独像で見るならば、山本曉邦「初夏満州所見」(1916年)は、うつむいてキセルをふかす老人、高野真美「ハルピンの花売」(1939年)は頬杖をついてうなだれる老人を描いている。伊藤応九「辻の盲人ハルピンにて」(1939年)は老人ではないが、目の見えない街頭のアコーディオン弾きを主題にしている。もちろん、劉栄楓「満州」(1915年)には畑を耕す壮年が描かれ、家族群像である福井芳郎「満州所見」(1934年)にも微笑む家父長が描かれており、活力に乏しいように描かれた老人・盲人だけが〈満州〉の男性を代表するわけではない。ただ、流行歌「馬賊の歌」のヒット(1925年には映画化)からすれば、巷間に流布する「馬賊の跋扈する危険な荒野」だが「恋とロマンと冒険が待ち受けている大地」としての〈満州〉が描かれてもおかしくはなかったはずである。にもかかわらず、「ホワンチウ」のような危険性は、官展から徹底的に排除され続けた。つまり、概して、官展の〈満州〉男性表象は、日本が支配しやすいように、適度に飼い馴らされたのである(もちろん、それは実態であるよりは願望である)。

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