千葉慶

はじめに

本稿は、中央官展(文展・帝展・新文展)の出品作に見る〈満州〉表象の政治的意味を分析する。つまり、満州はいかに視覚化(visualize)されたか。また、この〈満州〉表象はどのようなメッセージを有していたのか(人びとに〈満州〉をどのように欲望させたのか)。そして、国家による権威の場に、〈満州〉が展示されるとき、何が相応しくないとして、排除/検閲されたのかを明らかにすることが本稿の主題である。なお、今回考察の対象にした官展における〈満州〉表象に関しては、巻末に一覧表を掲載した。

ところで、官展に出品された〈アジア〉表象に関する包括的分析は、すでに西原大輔「近代日本絵画のアジア表象」(『日本研究』第26集、2003)でなされている。しかしながら、西原の議論では、近代日本絵画一般を研究対象としているために、官展という場の政治性に関する留意がなされていない。

〈満州〉のイメージは、もちろん美術作品によってのみ形成されたものではない。政策論あるいは地政学的な言説や旅行記、文学、グラビア記事、映画などの複数メディアによるイメージ連鎖こそが、人びとの間に、〈満州〉を認識し解釈する参照軸として蓄積されていったのである。では、このイメージ連鎖において美術の役割と はどういったものであったのか。この問い自体は、興味深いものであるが、回答するためには限定性が必要になるだろう。ひとくちに「美術」といっても、その作品が展示された場の差異で、おのずとメディアとしての意味が異なってくるからである。

したがって、今回の議論では、官展出品作を分析の対象にする。この限定によって、わたしたちは、次のようなさらなる問いを追加することができる。つまり、官展という国家による権威の場に、〈満州〉が表象されるとき、何が相応しくないとし て排除/検閲されたのかという問いである。

この排除/検閲が意識的なものであったかどうかは、容易に確認できるものではない。そもそも官展においては、政治プロパガンダほどの合目的性をもって諸作品のテーマを統制するだけの運営はついに実行されなかったように思われる。しかし、本当にそれは政治と完全に無縁だったのだろうか。美術作品の意味生成が歴史的社会的コンテクスト抜きに作用しないことが明らかである以上、私たちはもはや官展作家を、「自由」に主題を取捨選択し、「自由」に表現した無垢な存在として捉えることなどできないであろう。ましてや、帝国日本がアジアへの橋頭堡として建設していった満州という場を描くにあたって、政治言説が〈満州〉に対して行なってきたイメージ管理のあり方と無縁であることは難しいだろう。そこで、本稿では、適宜、官展の〈満州〉表象と同時代の〈満州〉言説と政治的プロパガンダ(満州国・満鉄PR)との比較を行ない、満州を描く際に作家が直面せざるを得なかった「政治的無意識」のありかをあぶりだすことを試みたい。

官展において、満州の何が視覚化されたのか、そして何が繰り返し視覚化され、何が二度と視覚化されなかったのかを注視することによって、作家および官展の鑑 賞者が〈満州〉をいかに認識したのか、いかに認識したかったのか(いかなるものとして〈満州〉を欲望したのか)を議論することが可能になると思われる。

 

1. 「帝国意識」と官展ネットワーク

まずは、官展という場の政治性について考えておきたい。周知のように、官展の歴史は、1907年における文部省美術展覧会(文展)設立に始まる。文展においては、国家が主催し、(実質的には各会派の美術家たちが主導するにせよ)国家の名のもとに鑑査が行われた上で、作品の展示が容認され、その内の優秀作品について褒賞が与えられた。しかも、褒賞に関してはそれを拒否することができなかった。ここに、国家によって強制的に「美術」と(ある種の)「ものの見方」の価値が決定され(従って、それ以外のものは排除される)、それが公衆のもとに展示される啓蒙の場という、官展の基本性格を見出すことができるであろう。つまり、この官展の 表象空間において生産/消費される絵画は、国家公認の「傑作」あるいは「正典」としての性格を付与されているのである。

なお、こうした公認制度は、美術作品の経済的価値を高め、作家の社会的地位を上げる。中村義一が指摘するように、以後官展という場に「立身出世」という世俗的欲望を求めて応募者が殺到することになる。官展は美術の権威を作り出し、その権威に食らいつこうとする美術家たちの欲望が官展の権威をさらに高めていくことになるのである。

1919年に文展は、帝国美術院展覧会に改組する。政府主導の権威主義的な鑑審査のあり方への不満に対処して、第三者機関としての帝国美術院が運営する形式になったわけだが、美術院会員が官によって任命される以上、状況はほとんど変わらな かった。

この改組された新官展の名称が「帝国」を冠していたことは象徴的である。なぜならば、日本は1895年に台湾、1906年に南満州鉄道、1910年に朝鮮と、海外植民地を領有することで帝国主義的段階に達していたからである。また、1922年の朝鮮美術展覧会(鮮展)、1927年の台湾美術展覧会(台展、1938年には台湾総督府直営の府展に改組)の発足に際しては、帝展の常連作家が審査員として派遣されている。つまり、帝展はこれらの植民地美術展をサテライトとして持つことで、日本の「帝国」的編制と符合した構造を持つことになったのである(その構造は1937年以降の新文展にも引き継がれた)。

この二つの展覧会の設置は、1919年以降の日本の植民地統治政策の「武断統治」から「文化政治」への変化に伴う文化的政策措置の一環として行なわれたものである。すなわち、被植民者たちに主体的に文化を表現させることで、彼(女)らの「ガス抜き」と撫育を図ったのである。また、それらの植民地美術展は、日本における官設美術展と同様に国家公認の美術を提示する啓蒙の場であった。しかも、その「啓蒙」は、出品する被植民者の美術家・知識人から被植民者の大衆への啓蒙、そして美術展の審査員である宗主国の帝展常連作家から被植民者知識人・大衆への啓蒙という二重性を有していた。さらに、鮮展や台展において優秀な成績を修めることは宗主国の中央帝展に進出する良いきっかけとなった。帝展で優秀な成績を修めた植民地出身作家は、故郷において名誉日本人たる啓蒙者の資格を獲得した。植民地出身の作家たちは、中央の権威を求め、この道筋を辿って自己実現を望めば望むほどに、日本人から好意的に認知される、日本人に従属する自己(自民族)像をより自発的に内面化せざるを得なくなった。そして、その道を逆に辿った宗主国の人間は、中央の権威を笠に着た啓蒙の主体として、被植民者を教導し、文化的に従属させる自己(自民族)像を強く内在化し、「帝国意識」を高めることになったのである。

 

2. 官展という場に〈アジア〉を展示するということ

では、以上のような性格をもつ中央官展という場に、アジアを描いた美術作品が展示されるということは、何を意味していただろうか。

年に一度の官展は、必ず「帝都」東京で開催された(その後京都に巡回)。そのことは、官展における求心性を象徴する(そして、前節で述べた官展ネットワークは遠心性を象徴する)。すなわち、美術家たちが日本の各地方から収集したさまざまな主題──土地の風景・風物・女など──(時には参考出品として〈西洋〉の主題が 彩りをそえる)を「美術作品」に加工した上で「中央」(帝都)に持ちより、一堂に展示し品評にかけるという構造がここにはある。

われわれはこれによく似たものを知っている。それは博覧会である。そもそも日本における美術館制度が博覧会から派生したことを忘れてはならない。北澤憲昭によれば、内国勧業博覧会とは、「日本各地から集められた事物が、国家が創出した 博覧会の秩序のもとで一堂に展覧される」場であり、空間そのものが「明治日本の縮図の提示」であった。博覧会は、視覚的啓蒙装置・国民統合装置であり、鑑賞者たちは博覧会の空間において、日本各地の選りすぐられた名産物を一望する「まなざし」を共有することで、〈日本〉そのものの地理的観照を身体的な体験として感じることができるのである。

美術館もまた「視ることによる啓蒙機関」であることは偶然の符合ではない。美術館は、博覧会の雛型なのである。つまり、日本各地に取材した絵画群(それも鑑審査によって選りすぐられたもの)が陳列されることにおいて、官展開催期間中の美術館は、恐らく出展者の誰もが意図しなかったような形で、「美術作品」によって構成された〈日本〉の縮図をその展示空間の内に展開していたとはいえないだろうか。しかも、その範囲が拡大するにつれて、博覧会においては植民地パビリオンを設置したように 18 、官展においても、同様に植民地(と半植民地)の主題に取材した「美術作品」が陳列されるようになったのである。

日本国内の植民地パビリオンは、第 5 回内国勧業博覧会(1903年)における台湾館と学術人類館の登場を嚆矢とする。吉見俊哉によれば、その社会的背景に、「〔日清戦争後獲得した〕強国意識が、いわばその反作用として、自分たち「文明」の支配下にある、すなわち自分たちよりも「未開」な文化に対する関心を呼び覚ましていった」ことを挙げることができる。そして、「日本の博覧会は、次第に「帝国」としての地位を植民地の「未開」との距離において確認する装置となっていった」。鑑賞者は、植民地パビリオンのまなざしを内在化することで、「強国〔帝国〕意識」を持った「帝国臣民」として主体化されるのである。

なお、こうした事情は、美術界も無縁ではない。実際、洋画家の中には、植民地パビリオンの展示に関わる者もいた。例えば、拓殖博覧会台湾館壁画(1912年)は、東京美術学校の久米桂一郎、和田英作の監督のもと小代為重が中心となって、萬鉄五郎、近藤浩一路、田中良などが関わって制作された。美術家もまた、「帝国意識」のまなざしを共有していたのである。ここから、官展の表象空間が、博覧会のまなざしとともに植民地パビリオンに内在する「帝国意識」のまなざしをも密輸入したと類推できるのではないか 。

さらに、アジアにおける新領地を次々と「美術」として作品化し、官展という中央に送り続ける美術家の営為は、同時代における植民地学の研究行為とよく似ている。植民地学は、植民地を研究し、報告書としてまとめることで、統治の材料とする官製学問である。他方、美術には政治的な要請があるわけではない。しかし、池田忍が指摘するように、帝国主義時代の美術は、新領地に住まう他者を自己のまな ざしの中に捉え、「自由にコントロール」することを通して、「土地を支配することの正統性」を確認する機能を有している。つまり、官展という場に〈アジア〉を展示するということは、アジアを「美術作品」の中に(統治可能な形態に)無害化した上で馴致し、そのイメージを国家によって公認する手続きである。そして、官展の鑑賞者は、公認された〈アジア〉を追認することで、アジアと共通性を持ちつ つも、アジアとは違って文明化された「帝国臣民」(アジアの支配者)としての自己 像を再認することができるのである。

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