ローゼット(rosette)というのは、要するに全開した花文の意である。本来の意味からは、ぱら(単弁の)の花の 形をさすのであるが、一般用語としては必ずしも、ばらという品種には関係なく、凡て花弁の放射的に全開した花の形をいう。弁の数は問わない。インドのような、蓮華に特殊な信仰的意味を有している国でも、明らかな華の他に、蓮華とは似ても似つかない四弁や五弁のローゼットが、ガンダーラにはすでにあらわれている。そこには西方文化の影響を考えることができる。
現実の蓮華を知らぬ中央アジアの砂漠地帯では、この蓮とローゼットが混乱している。和闐ダーンダーン・ウイリュック寺院出土のイラン様菩薩像(或いは守護神か)台座には、四弁花のローゼットをあらわしている。当然それは蓮華を意味する筈である。同じく西域のミランの寺址から発見された三〇〇年前後と思われるスツッコの基壇の浮彫には、それは当然蓮華を意味するのであるが、銭葵を思わせるような──それは唐に至って盛んに行なわれた宝相華文の一形式である。そしてそれはまさに宝相華であるが──植物文様である。多分この様な蓮華とローゼットとの混乱を帯びたまま、中国に運ばれてきたものと思われる。年代的にたしかなのは、新羅人で中国にあって顕要な地位を得て残した泉男生(則天武后の調露元年〔六七九〕)の墓誌銘の石蓋に刻まれている宝 相華唐草である。
方形のこの石蓋の周縁を二重に区割し、そのおのおのに宝相華を刻している。何れも唐草は両端より中央に向 かってS字状に進み、内側のは中央で相接してイラン風に結束されるが、外側のは中央で間隙ができ、そこに二本の葡萄の樹を画き、また唐草に交じわって四頭の獅子が、フライング・ギャロップの形であらわされている。これは海獣葡萄文の名残である。その内側の唐草についていえば、花は左右両側の唐草では、中央の二顆は真上から見た正開四片の花弁が、中央の小花弁の塊を覆うようにやや反りを呈し、その花弁の間から尖った萼が四枚放射している。それは現実の何の花とも意識しない空想的なローゼットである。また両端の二顆は、花弁状の萼へ付した葡萄房である。さらに上下両辺の花は何れも花の側面形で、発達した萼が左右に反転している。これが後の宝相華の左右花弁の垂下形の根源となるのである。
この頃から、中国では宝相華文が盛んになってきた。かくて、最近の発掘調査によって知られた唐の神竜二年(七〇六)築造の、章懐太子や懿徳太子の墓の石槨に線刻されている豪華な宝相華唐草、更には西安碑林に在る開元二十四年(七三六)の大智禅師碑のような絢爛な宝相華唐草が発達してきたのである。それはまた日本の正倉院 に、荘麗な実例を豊富に遺すこととなったのである。
宝相華文は、葡萄唐草がそうであったように、一種の瑞祥的意義をもっていた。鏡鑑の文様に好んでそれが用いられるのも、その理由である。後世のように蓮華を仏事との連想において、非瑞祥的なものとしては全く考え なかった時代にあっては、蓮華はエジプト的観念そのままに、永遠の生命の象徴としてめでたきものであった。現実の植物としての蓮を見なれ、仏教の思想の深かった唐においては、西方から伝えられた宝相華に、現実の蓮を意識した蓮華文が結合したのは自然であった。かくて双鸞鏡のように、明らかな葡萄の葉の唐草に蓮の花や葉が加えられたのである。薬師寺三重塔の支輪板の文様も葡萄と蓮との混合唐草である。

しかし唐においては、この宝相華唐草の花は、いつしか牡丹の姿をとってきた。少なくともそれが牡丹唐草の主流となって行った。前にふれた大智禅師碑の宝相華唐草の花の如きは、牡丹花への志向をひそめているといっても過言ではない。牡丹は、則天武后がその郷里の西河から、長安の宮苑に移して愛賞したことから、天下の士庶の家にひろがったと伝えられ、この花の咲いている二十日ばかりの間は、一城之人皆如狂と白楽天がいう程に、牡丹の愛好が盛んであった。八世紀後半の花鳥画家として、中国における最初の人ともいうべき辺鷲も牡丹を画いている。このような風潮が、牡丹的宝相華の出現を促したのであった。今はその所在を失ったが、中唐を下らないと思われた小金銅仏の光背に、まさに牡丹花といって不可なき透彫の宝相華のあったのを、かつて私は拓本にとっておいた。これも、花弁は凸頭、左右の花弁は柔らかく垂下していることが注意される。それはやがて宋時代の磁器の文様に発展して行き、さらに南宋における金襴の牡丹唐草に展開してゆくのである。しかこの牡丹唐草は畢竟、宝相華唐草のヴァリエーションに他ならないのである。明の永楽帝が、日本足利義満に与えた贈物の記載には、当然牡丹唐草であったこの織物の文様を、やはり宝相華と称している。尤も牡丹唐草の名は、すでに早く日本で行なわれていた。『山槐記』の治承四年(一一八〇)四月二十一日の条に、賀茂祭の近衛使に立った少将藤原顕家の車の物見が、牡丹唐草文であったと記されている。西本願寺三十六人家集の料紙の唐紙にも牡丹唐草が見出される。古瀬戸の子にはしばしば、この牡丹唐草の沈線文が行なわれている。
しかし天平時代には、むしろ単純な花弁の宝相華が行なわれた。前記の法隆寺弥勒菩薩の光背のそれもそうであった。日本民族の平明性が、それをより多く好んだともいえる。天平以後、仏教美術においては、装飾文様としてはもっぱらこの宝相華が行なわれた。貞観時代の仏像の板光背や蓮弁には、繧繝彩色で団花形式の宝相華が 最も好まれている。宝生寺金堂の中尊の光背、観心寺如意輪観音像の蓮弁がそれである。宝相華唐草としても最も豪華なのは、醍醐天皇の延喜十九年(九一九)仁和寺の三十帖冊子箱の蒔絵である。仁和寺は同じく、如意宝珠を納めたという方形のかぶせ蓋造りの乾漆の箱に、銀の沃懸地に画いた宝相華蒔絵がある。三十帖冊子箱の宝相華は、それに比してより古調をおびている。そこにはまだ葡萄の房が退化した形をそのまま遣している。宝珠箱になるとその花文が、藤原的形式に接近してきている。寛弘四年(一〇〇七)藤原道長が吉野の金峰山に詣でて、自筆の写経を埋めたその金銅の経籍も、毛彫の宝相華唐草が一面にえがかれている。
かくして、はじめに述べたように、宝相華全盛の藤原時代がくるのである。そして宝相華の優美な意匠がこの時代の貴族趣味とマッチして、ただに仏教的な装飾文様としてのみならず、様々な形式において藤原貴族の生活の中に浸透して行ったのである。その最も著しいのは服飾のいわゆる有職文様である。主上の御引直衣に用いられた小葵は四弁宝相華を囲んで、菊葉形に便化した細長い葉が萎状に連なっている。又若年の公達が著用した指貫の文様は、臥蝶(浮線綾)の団花文であるが、円孤を形づくる四個の蝶形は、本来は四弁の宝相華を孤線的に取扱ったものに他ならない。東寺十二天像の内、長久元年(一〇四〇)の分と思われる梵天像の著衣には、浮線綾の古い形を見ることができる。その他、木・鳥襷・八藤という如き文様もその基本は宝相華である。
しかしわが国では、この文様が中国では早くから行なわれていた宝相華という名においてはよばれていなかった。今日でも、むしろ有職家の間で行なわれている唐花という名称が、かえって古い歴史をもっているようである。藤原俊成の女の建御前の日記『たまきはる』に、承安三年(一一七三)十月、建春門院御願の、最勝光院御堂供の日の女房達の装束のことをしるして、「......青地の唐衣にやいと覚えず。から花の枝五寸ばかりあるをかねにてつまそでにつけられたり」とあるのは、いわゆる唐草風の連続ではないが、宝相華の枝を、即ち花形式の造花を、衣に金もしくは銀の糸でぬいつけたものと思われるが、ここでそれを唐花とよんでいるのである。
この宝相華文は、しかしその本来の性格が瑞祥的であり、同時に信仰的観念が結びついていただけに、日本に おいては、宝相華は単なる世俗的日常の用に供せられなかった。宝相華意識から遊離していたと思われる有職文様も、それは何らか荘重性をともなう儀式的性格をおびていたが、宝相華そのものは主に仏教的調度の文様として行なわれた。そして日本の上代的な古典的優美主義の精神が、細々ながらもその伝統を保っていた室町時代までは、この宝相華はなお時あって行なわれていた。京都要法寺の経箱は、金銅の宝相華唐草透し彫で全体が形成されている。そこには典型的な宝相華文とともに蓮華文を交えているが、明らかに伝統的宝相華唐草である。銘文によれば天文二十四年(一五五五)の寄進にかかるのであるが、そこには古い宝相華意匠の余韻がのこっている。恐らくは宝相華文様の最後の花というべきであろう。(昭和四十八年七月『日本美術工芸』第四一八号)
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