源豊作,日本美術史論究3,京都:思文閣,1980。

葡萄は、その原産地はカスピ海の沿岸地域と考えられているが、小アジア・メソポタミア・エジプトを含むオリエントには、遙かなる古代──エジプトでは紀元前二五世紀頃すでに「死者の書」に画かれている──にすでに伝播し、食用として、殊に酒の原料として貴重な植物であった。紀元前七世紀のアッシリア時代のニネヴェー(テグリス河上流)宮殿址から出土した石壁浮彫には、明らかに聖樹の意識において葡萄が表現されている。

古代人の装飾文様は、エジプトの睡蓮、メソポタミアの椰子がそうであったように、常に生命保全の信仰と結合していた。この葡萄もそのような信仰のもとに、その蔓性の形態から葡萄唐草文を発生したのである。その発生したのは何処であったか、興味ある問題であるが、私の見るところではそれはギリシァであった。

唐草とは、波状的かつ流動的に展開する曲線を軸として、その波のうねり毎に、互生的に、概ね主線の進行と逆方向に旋回する支線を派生する連続波状展開性の文様形式である。それ故に同じく連続的でも原始文様に共通して見られるジグザグ線文様は、波状的展開でない故に、またエジプトやアッシリアによく見られるS字つなぎ文様は流動的でない故に、いずれも純正な唐草とはいえない。唐草とよぶに足る文様の最も早い例は、紀元前十六世紀のミケーネ時代の壺に描かれたたぶん木蔦(ivy 常春藤)と思われる葉が相互に派生した波状文であろう。

紀元前一二世紀頃南下して来たギリシァ人によって壊滅されたミケーネ文化のその荒土から萌芽したギリシャ文化の中に、その木蔦唐草は蘇生して紀元前五二〇頃の壺(エトルリア出土、ヴィラ・ジュリア美術館蔵)の肩に、二筋の木蔦がからみつつ、その葉と実とを交互に派生した未熟ながら一種の唐草の形式となって出現している。それから間もなく七弁前後の扇状パルメットを互生する流暢な豊麗な波状曲線の唐草がアンフォラに見出される。そこにはやがて開花するヘレニズムの典雅な感覚がすでに予約されている。

かくしてギリシァ的感覚に育てられて唐草は発展したのであるが、それが葡萄と結合したのは紀元前四世紀に入ってからである。(註1)ロンドン大英博物館のディオニュソスとアリアドネを画いたカップに、その縁に描かれたまことに流麗な、かついかにもヘレニスチックな写実性をおびた金彩の葡萄唐草を見ることができる。同じく大英博物館のパンとニフムとの踊を描いた赤絵のにも、その頸に美しい葡萄唐草がめぐらされている。かくしてギリシャに更にローマに引きつづいて葡萄唐草が非常に愛好せられ、ローマのテルメ美術館のモザイク床に見られるように、小鳥を交えた典雅なデリケートな葡萄唐草が現われている。ローマ郊外のハドリアヌス帝離宮址の陳列場にある 葡萄唐草を浮彫りした大理石の角柱は、その絵画的ともいえる写実的な表現が注意され るが、それには小鳥や昆虫、とかげ、かたつむりなどまでがあらわされている。このように葡萄に小動物をあしらうのは、葡萄唐草に特有な現像で、鳥や獅子、時にはとんぼや蝶のいる中国の海獣葡萄鏡のはるかな源流がそこに見出される。

ヨーロッパでは、葡萄はキリスト教において旧約聖書にも非常に重んじられていたので、ビザンチン時代以来 のキリスト教芸術に花やかな展開を続けた。ラヴェンナのサンビターレのアプスには、モザイクの華麗な葡萄唐草が見られ、ことに同地の大司教館博物館にあるマキシミリアン大司教の象牙の椅子の前後左右に刻まれた精緻 を極めた葡萄唐草文は、孔雀や山羊、鹿、それにさまざまな小鳥を配し、その絵画性の豊かな意匠は、世界にお ける葡萄唐草中の白眉といってよい。

このギリシャで発達した葡萄唐草は、むしろ葡萄信仰の本場であったオリエントに、いわば魅力的な姿において帰って来たのであった。 シドン(今日のレバノン、古代フェニキアの地中海へ臨んだ都市)出土の伝アレキサンドロ ス大王の石棺及びこれと殆んど同じ形式の別の二個の石棺が、イスタンブールの古代博物館に陳列されているが、それらの石棺には何れもそのフリーズに葡萄唐草が浮彫されている。アレキサンドロスがその東方遠征からの帰途バビロンで残したのは紀元前三三であるが、これらの石棺も様式的には同時代と考えられている。それらの葡萄唐草はそれぞれ意匠に多少の変化を見せているが、そこに見出されるのは、ギリシァの典雅な感覚とはやや異質的なものがあり、オリエント独特の規格性の様式をもつ、情緒的なものの乏しい形式的な感覚である。アレキサンドロスの棺と称せられるそれに施された大王戦闘の浮彫の如きはヘレニズムの様式を認むべきであるが、恐らくこの唐草は、フェニキアの工人達による芸術ではなかったかと思われる。ともかくギリシァで葡萄唐草が成立して程もなく、オリエントにそれが行われたことは、元来聖果としての葡萄に対する親近感が格別であったからであろう。そしてオリエント様式の濃厚に参加しているビザンチン美術に見出される──葡萄唐草たとえばラヴェンナのサンタポリナーレ・ヌオーヴォの内陣隔壁のそれの如き──の性格には、むしろオリエント的なるものが、その根底に横たわっているのを覚えるのである。

オリエントにおける紀元前に属する葡萄唐草は遺品としては、伝アレキサンドロス石棺の一群の外には非常に乏しいが、それが相当盛んに行われていた事は疑を容れない。紀元二世紀と推定される葡萄唐草を刻んだ墓石(大英博物館蔵)が南アラビアのアギアスから発見されている。オリエント文化の中心から遠く離れたこの南アラビアに、葡萄唐草文化が波及していたということは、中央におけるそれの隆盛を物語るものといってよい。同じ意味で、インドのガンダーラの紀元二、三世紀の仏像の台座などの、葡萄唐草も、そしてその文様の様式からみても、後で触れるようにオリエントの影響を示すのであるが、この唐草がオリエントの民族の間に特殊愛好を呼んだのは、前述のように生命の木であると共に、豊饒多産を象徴する聖果として宗教性をおびていたからである。それ故に宗教的建築や調度に、儀軌的性格をもって行われているのである。このことを雄弁に物語るのはエジプトのコプト芸術である。

コプトとは、紀元三世紀頃から、ヨーロッパに伝えられたキリスト教と教義を異にする別個のキリスト教が行 われ、やがてイスラム教に圧倒される八世紀頃までのエジプトを意味する。コプトとはエジプトを訛った発音に外ならない。コプトのキリスト教の隆盛期は四・五・六世紀の頃であるが、その当時の遺物は比較的多い。そこには意外に葡萄唐草が豊富に見出される。それはオリエントの風習の波及によるものと見なければならない。尤もエジプトのアレキサンドリアは、当時ギリシャ文化の飛地の如き観を呈していたので、コプト文化にもその影 響も認められるが、オリエント的な粗荒性或は規格性──コプト自体もそうではあるが──がその大きな特徴をなしている。米国クリーブランド美術館所蔵の、海の女神ネレイドを表現した小さなタピズリの縁に織り出した葡萄唐草はその典型的な作例である。古典的な感覚とは異ったオリエント芸術の魅力をおびている。五、六世紀の作と推定されている、ロンドンのヴィクトリヤ・アルバート美術館のコプトのタピズリも、その色彩の華麗な葡萄唐草が眼を惹く。これはやや早く四世紀頃の作と考えられている。この両者ともに小鳥が配されているのが注目される。

葡萄唐草が織物に行われることは、オリエントに風に始っていたと思われる。後に述べるようにイランのササン様式の葡萄唐草文の染織品は、正倉院の御物にも見出されるのであるが、その源流はすでに二・三世紀のオリエントに端を発している。シリアのパルミュラから発見された浮彫人物像(ルーブル)の着衣には、葡萄文が表わされている。それは刺繍か、或は織成の文様かわからないが、これにも小鳥がいる。恐らくギリシア、もしくはローマからの影響であろう。さきにも述べたローマのハドリアヌス帝離宮址出土の石柱意匠のように、ローマ時代の葡萄唐草には、必ずといってもよい程、小鳥の様な動物があしらってある。恐らくその伝統には、ギリシャの紀元前五世紀の名画家ゼウクシスの画いた葡萄が余りに真に迫っているので、小鳥が来て豚ばもうとしたという有名な逸話と関係があると思われる。ローマ時代にはそのような動物の外に、キューピッドのような 子供達が、葡萄を摘んでいたり、葡萄を踏みつぶして酒造りにいそしんでいる場面を好んで表わしている。コプトの建築装飾の一部と思われる石板の浮彫にもそれが見られる。

フィレンツェのバルゲロ館にメソポタミア出土の小箱の破片かと思われる象牙の板に、中央の壺から伸びて左右に展開する葡萄唐草が、かなり便化した形で表現せられ、その左右に有翼の獅子に近い霊獣──有翼獣はアッシリアに起源をもつオリエント的表現である──が相称的に向いあっている。その出土の地域からいってもまた 様式的にも、恐らくササン文化の遺産と思われる。この葡萄に霊獣を加える意匠は、ササンの聖樹を中心として霊獣が相対する意匠からくるのであるが、前述の葡萄と鳥獣とを配合するローマ的モティフの伝統と無関係ではない。ササン時代の芸術的遺品は必ずしも豊富ではないが、我が国の正倉院は、その点でササン時代文化の宝庫であるといってよい。

いうまでもなくササンの盛時においては、イランは世界的にも最も強大な文化国家であった。その文化的発展 力は、中央アジアから次第に中国に及び、更には日本にも及んできたのである。ササン朝は六五一年にイスラム軍によって滅びたが、少くとも文化的勢力は、中国に対してはなお亡びなかった。七世紀、八世紀の長安の都は、西方的な官能的イラン文化が爛漫として咲き誇っていた。正倉院の幾種類かの葡萄唐草の絢爛な染織品は、中国よりもたらされたイラン文化の花に外ならない。

正倉院の狩猟文錦は、上下にそれぞれ聖樹をはさんで相称的に配した騎馬狩猟人物を連珠文の円圏が 囲み、その外側を更に葡萄唐草で囲んでいる。この聚合的な団円性の文様形式、いわゆる団文は、後世までつづイラン的文様形式の大きな特色であるが、ここに見られる葡萄唐草文は、ササン時代の典型的な秀麗な意匠といってよい。優雅な形の葉と房とが交互に内巻きに湾部を充たし、夏枝の分かれる節には托葉が添えられ、その分かれ目の隙間は小さな葉でかざっている。またその主軸や枝にも随所に、その波線の進行と反対に向いた小さな葉が加えられ、唐草の流動感に豊かさと美しさを与えている。むろんササン時代にも単純な形式もあった。イラン出土のササン時代の銀製長曲杯や水瓶に、しばしば見られる豊饒多産の女神アナーヒタを囲む葡萄唐草の如きは、比較的便化した葉と房とが交互に湾部を埋めているだけである。また動物を配する葡萄唐草としては、テヘラン博物館に蔵するスツッコの建築装飾の断片は、僅かに唐草の波の二部分をしか残さないが、その一湾には二房の実を、他の湾には一羽の鷲のような鳥──あるいはイランの霊鳥センムルブか──が浮彫であらわされている。大英博物館所蔵のササンの銀製の壺にも、葡萄唐草の旁に実を啄ばむ鳥達がいる。インドのガンダーラ時代の石材の楣に、雌の孔雀、鹿、猿などをあしらった写実性の濃やかな葡萄唐草がある。ガンダーラの美術はグレコ・ロマンの様式が基盤となっているが、それはガンダーラ地方がアレキサンドロスの遠征以後、ギリシア系民族の血統が濃厚であったことにもよる。このガンダーラの仏伝を描写した石彫に、ギリシャ風の木蔦の唐草 が使われているのがある。明らかにグレコ・ロマン美術の伝統を示すものである。しかしインド美術は、民族的にも地理的にも、古くからイランの影響が強大であったことは、牡牛像を載せた阿育王柱がスーサ出土の牛の柱頭の伝統を引くことにも知られる。それ故、パリのチェルニスキ美術館のガンダーラ出土仏像台座の葡萄唐草の如きは、むしろイランの系譜に属するものと考えられる。その唐草の湾部を飾るには、比較的小形の房と、それを覆わんばかりに大きな葉の半片形とが並んでいる。それは薬師寺金堂の台座の葡萄唐草の形式を想起させるが、同時に、イランのマザンダラム出土の銀製鉢の角笛や籍などの楽器を奏している女神像を囲む葡萄の蔓の先端が、葉の上に房を重ねている──そのため葉は半片形となる──ものとの関連を無視できない。この半片形の葡萄の葉のモティフは半パルメット(扇状パルメットの半蔵型)からきている。テヘラン美術館にあるアーチ形の空間を埋める葡萄唐草には半パルメット型の葉が見られ、またガンダ ーラの、多分台座の一部だったらしい葡萄唐草にも半パルメットが行われている。この唐草の部の一 つに裸の子供、即ちキューピッドが葡萄の房をつかんで立っているが、これもグレコ・ロマンの血を引く。葡萄唐草が発展解消して宝相華となっても、鳳凰堂の柱にえがかれた宝相華唐草に童子が交っているように、遠く余韻を残しているのが注意される。

 

註1 ギリシャの酒の神であり、葡萄栽培の神であるディオニュソスは、紀元前五〇〇前後から働く葡萄の冠をつけ葡萄の枝を持物として表現されたが、それまではただ木蔦の冠、木の枝であった。ギリシャにおいて木蔦が何故特に愛好されたかは明らかではない。葡萄と木蔦が形の上で似ているからではない。

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