源豊作,日本美術史論究3,京都:思文閣,1980
宝相華は、日本の仏教美術において、最も愛好された装飾的文様である。ことに藤原時代においては、圧倒的にこの宝相華意匠が行なわれている。中尊寺金色堂はまさにその典型である。柱・桁・枓拱・蟇股、いずれも漆地に螺鈿の宝相華文様である。又須弥壇の格狭間には、地生えの宝相華が鳳凰とともに金銅浮彫で表わされている。須弥壇の前に置かれた卓も、もと在った燭台も、宝蔵に収蔵されている例からみても、何れも課鈿象嵌の宝相華文様でかざられていたことが知られる。さらにはその内陣に懸けられている金銅透彫の華鬘も、美しい宝相華唐草地文に迦陵頻伽が表わされている。 宇治の鳳凰堂も、また宝相華の殿堂である。ここは五彩の色花やかな網の宝相華である。今は十世紀に近い風霜が、褪色と剥落とを加えてはいるが、近年修理の際に施こした復原が、当初の美しさを充分に偲ばせてくれる。しかし鳳凰堂で驚嘆されるのは、本尊の上に吊 るされている二重の天蓋である。方形の屋蓋様の天蓋の内部に、更に花形のややくぼみのある平らな天蓋が収められている。この花形の天蓋と、方形の天蓋の裾に幕のように垂れた囲いとは、金色にかがやく木造透彫の宝相華唐草である。その精緻な彫技もすばらしいが、宝相華唐草の意匠の麗さは驚くべきものがある。
藤原時代は仏像の光背や冠の如きも、好んで宝相華文様を駆使している。久寿元年(一一五四)造立の京都峰定寺の十一面観音像は、その適例である。金銅透彫の宝相華光背を負い、同じく金銅透彫の宝相華の宝冠を頂いたこの小柄の観音像は、世にも可憐な美しさを感じさせるが、その宝相華文様の優雅さは、まさに藤原時代の感覚を代表するものである。大和柳生の円成寺阿弥陀像の光背も、宝相華透彫光背の精巧さにおいて傑作というべきである。
ところで宝相華とは何か。それは意外に複雑多様なヴァライニティをもっていて、簡明な概念を得ることは実は容易でない。しかし一往、藤原時代に行なわれていた宝相華について語ることが、或いは早道かもしれない。宝相華文様は大別して三つの形式をもつ。
(一)唐草形式=展開する状の枝に葉と花とが連綴
(二)団花形式=独立した一団をなす花文
(三)花枝形式=葉と花とをもつ枝状
その宝相華の個々の花形も、必ずしも一様でないが、金剛峰寺沢千鳥蒔絵唐櫃懸子の宝相華文にみられるそれは、最も典型的な宝相華である。それは次ぎのような特徴を数えることができる。
(イ)花冠を斜上から視たような形状。真上から見たローゼット形は、むしろ例外的といってよい。しかし初期 にはこの正面形が、殊に花枝形式に多い。発展の道程からいえばこの正面形が起源である。この正面 形は後まで廃れなかった。
(ロ)その花の形は低平、したがって横長。
(ハ)左右の花弁は先が尖り、婉曲に下垂している。
(ニ)各花弁の基部に舌状の突起(もしくは輪郭)をもつ。
(ホ)花弁は凸頭形。
(ヘ)花冠は基本的には四弁の十字形方式(宝相華はその花弁の数は必ずしも一定していないが、基本的には四弁であったと見てよい。 永青文庫蔵の三彩の宝相華形の皿も四弁の重複形式である)であるが、上方の花弁の左右に、更に二弁が加わり、六弁形をとることがむしろ普通である。
以上の特徴は、時としてその一、二の変則 を見ることはあるが、それらはおおむね藤原 時代の、いわば定著した宝相華に共通して見 出し得る所である。
宝相華文様は我が国では、天平時代に出現した。興福寺金堂の基壇から発見された数々の鎮壇具の中に、花形式の宝相華を線刻し銀鋺がある。興福寺は和銅三年(七一〇)平城奠都と同時に、その建立が企てられたのであるが、いよいよその工事が始まったのは、恐らくそれより数年以上の後としても、奈良時代に入って相当早い時期に、宝相華文様が行なわれはじめたことが知られる。これに次ぐものとしては、天平二年(七三〇)に建立された薬師寺東塔の輪に、花形式の宝相華が画かれており、天井の間には団花形式のそれが描かれている。正倉院の宝物の中には、宝相華文のおびただしい作例を認められるが、その多くは中国からの舶載であるとしても、天平における宝相華文の花々しい盛行を物語っている。法隆寺弥勒菩薩像、聖林寺十一面観音像等の光背も宝相華の意匠である。仏像著衣の文様にも、たとえば天平六年(七三四)造立と推定される興福寺の八部衆の著衣の如き、盛んにこの宝相華が様々な意匠において装飾されている。
この天平以前にはパルメットが、仏教美術における装飾文様として、専ら行なわれていた。しかし白鳳時代の 終りに近づくと、その先端の尖鋭なパルメットは、次第に和らげられてきたのと同時に、宝相華文様が輸入せられ、派手なその様式に、パルメットは姿を消して行くのである。この宝相華の輸入と前後して、葡萄唐草が輸入せられている。恐らく葡萄の方が先に伝えられたかと思われる。持統天皇の御代と推定される法隆寺金堂の天蓋の吹返しには、すでに葡萄唐草が行なわれている。海獣葡萄鏡の将来も、その頃であったであろう。かくて葡萄文様は、岡寺の軒平瓦や薬師寺金堂本尊台座の框に、その姿を現わしてくる。しかし意外に葡萄唐草は永くは続かなかった。これに代って宝相華唐草が、天平の中頃になると、仏教美術文様の支配者となってしまったのである。しかしこのような事情は実は唐における現象でもあった。
何故に葡萄が宝相華に屈服したか、必ずしも明らかではない。私は、宝相華の花を基本的要素とする花やかさが、地味な葡萄の房を追放したものと解する。イランの西方的官能主義の文化を受容して、中国史の前後を通じ最も官能的な花やかなクラシズムの風潮の濃厚であった唐時代にあっては、葡萄文よりも宝相華文に惹かれることが大きかったのである。日本民族は本来クラシズム的性格をもっている。その日本において、宝相華全盛に傾いて行ったのは自然である。
この宝相華は如何にして成立したか。先ず宝相華とは何であるかを究明しなくてはならない。この宝相華というものは、決して現実のある植物を意味しているのではなく、全く空想的な植物に過ぎない。日本では藤原時代の文献には唐花という名を用いている。しかし宝相華には、蓮華がその要素として一役をになっていることはたしかである。双鸞鏡には、葡萄の葉の唐草に蓮の花が開いていて、その花に鴛鴦の一つがいが乗っている。あとで述べるように、中国では葡萄唐草の、葡萄の房が退化して宝 相華にかわって行くのであるが、ここでは明らかに蓮の花が現わされている。新薬師寺の本尊薬師像は、まだ天平の余韻を残している貞観初頭の作であるが、その光背は葡萄の葉の形をもつ宝相華唐草で、その花の上には、それぞれ七体の化仏が坐している。そこには明らかに蓮華意識が認められる。
エジプトに起源をもつ蓮華の聖花思想は、インドでは吠陀時代に伝わっているが、仏教にもとり入れられ、そしてそれは紀元前二世紀には、バルフートのスツーパにおいて蓮華唐草を成立させている。この蓮華唐草は中国には六朝の時代に伝わり、日本では法隆寺の釈迦三尊の光背に、それが行なわれている。しかし唐における宝相華は、この蓮華唐草がそのまま発展したものでない。
宝相華は、その前程に葡萄唐草があったのである。葡萄唐草は紀元前四世紀に、ギリシァの古典主義的文化の中で、古くから行われていた木蔦唐草が、葡萄と結合して成立したものであるが、それがオリエントで非常に愛好せられ、東の方イラン・インドにも伝播してきた。インドでは西紀二世紀のガンダーラにそれが見られる。葡萄は生命の根源として、オリエントでは早くから聖果として貴ばれていた。葡萄唐草の伝播には、そのような信が伴っていたのである。すでに中国にも北魏時代に入っているが、それは極めて稀に行なわれたに過ぎなかった。しかし当時は文様としては、パルメットが支配的であった。それが唐の時代に至って、俄に葡萄文が新しい様式において、写実的かつ官能的表現において、仏教美術とは世界を異にする鏡の文様に先ず現われてきた。いわゆる海獣葡萄鏡がそれである。これは唐の支配が遠く西域に及び、イランの成熟した古典主義的文化が、盛んに流入してきた結果である。イランから少なくともその意匠の伝えられたことの明らかな織物の文様に、この唐代盛行の葡萄文の様式の源流をうかがうことができる。
しかるに、唐においては間もなくその葡萄文の流行が衰えて、それに代って現われてきたのがこの宝相華文であった。そして恐らくこの宝相華文も、イランの影響であったと思われる。葡萄文から宝相華文への移行は、まず葡萄の房の退化として現われた。葡萄の実としての意味は無視せられて、別の花の蓋のような形式をとるのも その一つである。さらに葡萄の実に代わって花が現われてきた。図は、白鶴美術館所蔵の八稜鏡であるが、そこには葡萄の実は全く消え、盛り上ったような六弁の花形──斜上からの側面形である──に代わっている。その紐は、典型的な十字形の宝相華文をあらわしている。そしてこの鏡の八稜形は、まさしくイランの最も愛好した形式であることも注意したい。(註1)イランにおいては現代に至るまで、たとえば絨毯の意匠の如きも、八稜文が盛んに行なわれている。さらにこの鏡にあらわされている鹿は、その角が巨大で、イランの聖獣としてのであり、その前脚に翼を有するのもメソポタミア文化の特徴であり、この鏡の意匠が遠くイラン様式を伝えていることは興味が深い。
しかし葡萄文が花の文様と結合したのはすでにローマ時代に、その先例が認められる。ローマの国立美術館にある「プレネスチナ街道出土の踊る女達」は、記念碑的なものの基台かと思われるが、踊る女を一人ずつ浮彫にした幅一米程の大理石板を組み合わせた、直径一・五米位の円筒形の上部の縁に、葡萄の実と交って、四弁のローゼットのある唐草が見られる。それは紀元一世紀頃と思われる。この美術館にはなお、何かの框に用いてあったと見える大理石に、葡萄の房と、四弁或いは六弁のローゼットを交互にあらわした、美しい唐草の浮彫がある。これも二世紀を下らないであろう。このような葡萄とローゼットの混合形式の唐草は、オリエントにも伝わり、昔のフェニキアのシドン出土の建築断片(ルーブル)に、葡萄の実は全く冷遇されてローゼットが大きく表わされているのがある。これに似たものは、中央アジアの楼蘭出土の三世紀前後の建築断片に、パルメット唐草にローゼットの加わっているものが見られる。それは花やかなローゼット女の魅力によるのである。イランにおいても、葡萄唐草から展開したローゼット唐草、即ち宝相華唐草が行なわれている。豊饒の女神アナーヒタをあらわした、五、六世紀の作と推定される銀製の皿(レニングラード、エルミタージュ美術館)の周縁に、葡萄唐草特有の鳥獣とともに、八弁のローゼットが加わっているのを見ることができる。
註1 八稜形のイラン的性格は、正倉院の調度品に数多く見られる八稜形、聖林寺十一面観音の台座の八稜形もそれである。天平文化に濃厚なイラン的要素が注意される。

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