第一章 光復前的臺灣山水畫傳統明鄭治臺(一六四三~一六八三),臺灣地區閩粵移民大舉入墾,中原文化隨之傳播全省,唯先民蓽路藍縷,保衛為重,先求溫飽,草萊甫闢,未遑文事,是可以理解的。到了乾隆年間,繪畫活動已普遍行於文人雅士及鄉土民間。從方志上探索,記載的繪畫人才,不可謂不多,唯以本文所論「山水畫」為範圍,乾隆時期有盧周臣、莊敬夫、陳必琛、徐恢纘,道光以後有蔡催慶、王獻琛,這些都是籍款當時的臺灣縣人。遺憾的是,目前遺存的作品裏,實在無法看到屬於這一批畫家的山水作品。
美術史的重要依據是美術作品本身,這一時期的繪畫,除了文獻以外,更重要的是從遺存的作品來追尋。臺灣地區的繪畫,當不以畫家的籍貫來區分,尤其早期的移民社會,閩(粵)台一家,從事精緻文化活動如繪畫的人才,除了來自福建廣東,仕宦來臺的流寓人士,也是重要的角色,這些人所留下的作品足資見證。連橫嘗謂:「夫以臺灣山川 之奇秀,波濤之壯麗,飛潛動植之變化,可以拓眼界,擴襟胸,寫游蹤,供天然之詩境也。」對於新山川之奇秀,早在康熙三十三年(一六九四),高拱所編纂的《臺灣府志》,就已出現了文人品題的「臺灣八景」,更有趣的是臺灣人士相當偏好「八景」,每個地方縣志裏,都各自選定了「八景」。日據時期,一九二七年,由《台灣日日新聞》主辦,以票選方式,重新圈定臺灣八景,並增加了「別格」和「十二勝」的地點。這些名勝本該是山水畫取材的好藍本,可惜至今尚未見到有清一代關於這方面題材的描繪。康熙至同治年間,臺灣各地刊行的方志,依例刊載了各地美景的版畫,倒依稀可見當時對臺灣山水的描繪。茲舉二例如下:
〈雞籠積雪〉出自《臺灣府志》乾隆十二年刊本。因雕版只利於線條表現,加以雪景是以畫幅大量留白,銳利的線條及小斧劈皴法,使此畫看來像是一幅十足的芥子園畫譜。
〈香山觀海〉出自《淡水廳志》,同治十年刊行。畫二人登山峰,遠指飛帆,山峰腰際,白雲飄橫,山下小橋流水人家。
簡單的兩個取樣,〈雞籠積雪〉布局平凡,〈香山觀海〉則充滿著插圖式的畫法,並有一份夢幻式的想山水,說來都是整個明清時代的版畫潮流之一格而已。針對臺灣本土山水畫的題材實在非常稀少。
乾隆八年(一八〇〇),滿人六十七巡視臺灣回北京後委請畫工作有〈采風圖〉(臺灣省立博物館收藏),顧名思義,畫的是當時的風土人情,尤以原住民的生活為主,惟畫中背景,出現了臺灣特色的屋宇、樹木、人物,至於山川樹木的畫法, 並沒有因地域的不同,使用的仍然是當時較保守一系的作風。以冊中〈布床〉為例,畫中 山石流露出簡逸的筆調,與當時宮庭畫師如金廷標等類似。
相同的例子,見於臺灣省立博物館收藏的徐澍〈臺灣風俗圖〉,徐澍也是乾隆年間進士,畫中地域性的人物、建築物,也是中原作風。
甲申法國兵艦犯臺灣福建路提督孫公開華奉命鎭守〈淡水港戰勝圖〉完成於光緒十年(一八八四)以後,畫戰圖,但以淡水港為主題,視為山水畫亦無不可。畫法以小青綠,規矩工整,大有一般院體畫風。
有清一代,臺灣的繪畫風格,源於閩者多於粵,花鳥畫如此,山水畫也如此。有所謂「閩習」一詞,也就是大筆塗抹,筆法放肆。短暫的時間,完成大體形象,墨氣濃濁,十足野味,一點也不含蓄。這種趣味尤其是見之於民間職業畫師的作品裏,其代表人物為道光年間的林覺,作品〈山水四屏〉,簡速的筆調,淋漓的墨趣,說明了這一位職業畫師圓熟的技法。從師承淵源來說,可說自乾隆年間福建的黃慎一系傳來,越趨簡逸,越是奔放。鄉裡的野趣,喜好類如特技的指畫,道光時的陳邦選擅此道,以指墨作山水,難得細膩,且必施於不吸水的熟紙,筆觸堅硬,墨色淋漓,從立意和布局來說,仍屬文人一系。
官宦與游幕教讀人士,通常是帶著文人風格,代表者如嘉慶時的周凱,畫〈青燈課子圖〉,依循王翬的格法。嘉道時朱承、王霖、葉化成,也是四王一系。
對臺灣清代晚期繪畫最有影響力的謝琯樵(一八一一~一八六四),間有山水畫的創作,從得見的作品裏,謝氏的山水,受明代唐寅的影響頗重。所作〈仿唐寅山水扇〉自題:墨香館夜坐,偶閱唐六如山水,喜其用筆堅勁,蓋沉潛於宋元諸家法者,因彷其大意。」此畫未見,惟陳天錫氏所藏〈山水扇面〉,應是秋山觀瀑,畫楓林外,坡地上但見兩人閒坐,雙峰夾幾道細瀑,布局及細勁的皴法,溫潤的色調,充滿著唐寅的風格。另外〈仿高房山夏山煙雨圖〉曲折方的松幹,又是學自唐寅,至於近於方體的山石及斧劈皴法,唐寅雖也慣於運用,但這四屏山水的筆調急切、刻露,應是浙派山水的作風。本幅取名「仿高房山」(克恭),只能說借用高氏一向以「米氏雲山」來畫夏日煙雨吧!單從筆墨的習慣,與高房山一點也不相關連。另一方面,謝琯樵也頗推崇王翬的畫法。
乙未割台,日據殖民統治,漢文化受到摧殘。臺灣繪畫的發展,洋畫、日本畫固為一時之盛,畢竟,島上的居民,漢人還是絕對多數,往昔堅厚的傳統,五十年間,依然以隱流的狀況流行民間。日人據臺,對漢人的態度,由安撫、同化、至皇民化運動,意欲將臺灣居民的民族意識消滅,這是殖民統治者慣用的步驟,無足為奇。領臺初期的安撫手法,及本身政令、經濟、社會上的各種作為,並不能使整個臺灣藝術的發展,於一夕之間改變。日人的統治,一方面引進日本的繪畫,一面透過新式的學校教育,引進了西洋繪畫。第一代在臺灣揚名的洋畫家、東洋畫家,均是日據以後的出生者,換句話說,臺灣近代美術的萌芽,已是日據的後半期了,在整個日據的前期,臺灣的傳統繪畫仍然可以說是清代的延續。
日據五十年間,臺灣的美術發展,可以第一屆臺展之舉行為區分。日據前半期,揚名於臺灣的傳統畫家,如昭和五年(一九二八),未具名的評論者於《臺灣日日新聞報》上,作一評述:
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王耀庭,〈四十年來台灣地區山水畫之發展研究〉,《國畫山水畫研究研究報告展覽專輯彙編》,台中:台灣省立美術館,1993前言繪畫藝術是我國傳統文化的精粹之一,在美術領域中尤享有優越高超的地位,其風格的發展歷經 數千年,既一脈相承,而歷代歷朝,更有所獨創。臺灣處我國東南海島地區,雖早有國人活動的足跡但就整個悠久的中國歷史來說,一直到明末鄭成功,以此地為反清復明的基地,才見大規模的開發。隨著從閩粵而來的移民,中華文化逐漸在臺茁壯 、生根,繪畫藝術也隨先人對新地區的拓展,由滋生而繁衍。從明末迄今,約略分為三個階段:從明末至清朝割讓臺灣(一六六一~一八九五)為滋長綿延期;日人據臺五十年(一八九五~一九四五)為新舊並容期;自臺灣光復迄今(一九四五~)為傳統到創新期。壹、滋長綿延清代歷康熙、雍正至乾隆、嘉慶時期,臺灣地區日漸繁榮。當時來臺游宦之士,固多博於藝文,在臺人士亦不乏騷人墨客,兼之經濟的條件足以支持藝術活動,知識份子當藉書畫交往,一般民眾也因宗教信仰、生活習俗等因素,喜愛以書畫裝飾日 常生活的空間,民間畫師遂因應社會風尚而產生了。
傳統書畫藝術的發展,一如臺灣的開拓,由南而北,早期集中臺南,道咸以後,逐漸遍及中北部,臺北則後來居上。
臺灣地區的繪畫風格與中原地區是血脈相連,明清時代大陸仍舊承襲文人書畫之風,臺灣也步趨這個大傳統,又由於和福建特別接近,更濃烈的顯示出這類的地域風格。舉例而言之,文人飄逸的作風,如林朝英可比之徐渭;林覺的人物筆法以及款書字體,和列入揚州八怪的福建寧化籍黃慎,如出一系,更代表了閩地特有的畫風,追隨者尚有許龍謝彬等人;謝琯樵對臺灣地區的書畫藝術影響更深,他個人的成就,被推為詩書畫三絕,是中國文人畫的典型形象。
這一時期約二百餘年,整個地區的繪畫藝術成就,雖不是蔚然大成,但花果璀燦,正是我華夏文化在此地的孕育滋長時期。
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三、戰後台灣水墨畫發展的面貌(一) 傳統水墨畫的推陳出新 一九四九隨國民政府遷台的國畫家,大多數是具有文人繪畫傳統,只有少數受國畫革新風氣的薰染,並投身新國畫之創作研究。他們將中國大陸水墨帶到台灣作實際的紮根工作,播下火種。他們是戰後台灣水墨發展的啟蒙者,由他們播下的幼苗,隨著時間,慢慢茁壯,終成枝葉繁茂的大樹。我們可以說他們是台灣水墨畫的源頭,他們是第一代,然後衍生第二代、第三代。現在,我先闡明這源頭的共同特色,然後再將源頭及其發展變化分為五種類型討論之。1. 共同特色:傳統水墨是包含「院體畫」與「文人畫」,院體畫的題材多以花鳥、山水、宮庭生活及宗教內容為主,其特點為作畫講求法度,重視形神兼備與色彩表現,風格華麗細膩。文人畫多取材於山水、花鳥、梅蘭、竹菊、和木石等。藉以發抒性靈,崇尚品藻,講求筆墨情趣,不求形似,強調神韻,重視文學,書法修養和畫中意境的塑造。2.五種類型:(1) 古典型:這類型是兼有「院體畫與文人畫」的特色,但較傾向於院體畫以線為主,勾勒成形,以劈砍分面,填彩染色,輪廓清晰,結構嚴謹。代表畫家如:溥心畬等(詳見附表六)。
(2) 浪漫型:這類型兼有「院體畫與文人畫」特色,但較傾向於文人畫。以墨為主,大塊墨色渲染。氣氛迷濛。潑墨則水墨淋漓,潑彩則墨彩交乳。代 表畫家如:張大千等(詳見附表六)
(3) 寫實型:以文人畫或院體畫為基礎,面對實景寫生,其寫生的方法是一方面沿用傳統水墨的「寫生」,一方面則應用西方的「素描」。雖然寫生,但是客觀呈現少,主觀表現多,其主要架構是以中國筆墨形式來詮釋。代表畫家如:黃君璧、林玉山、傅狷夫等(詳見附表六)
(4) 造境型:用文人畫或院體畫的涵養,將所見,所知所想表現出來,那是一種生命的積淀,經過深刻的內省,再創造出來的情境或意境。這是建構在現實,但又是現實昇華的境界。代表畫家如:何懷碩等(詳見附表六)
(5) 原生型:未曾受過教育學習專研中國水墨畫,但心嚮往之忠實於自己的感 覺,「原味」的呈現出來。所用形式技法雖不合中國筆墨,然而是「本我」、「原生」,是「原創」的。代表畫家如:洪通、余承堯、趙二呆等(詳見附表六)
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《現代美術雙月刊》第82期,台北市立美術館袁金塔一、前言20世紀即將結束,來回顧戰後50年來台灣水墨畫的發展,是有意義的,一則反省過去可知得失,二則策畫未來。過去我們曾經走過「傳統與現代」的種種爭議。在傳統與現代截然二分的狀況下,我們拼命向中國的過去尋找「傳統」,向西方的發展中求說「現代」,卻忘記要用更客觀、更冷靜、更平實的態度來認真理解當下此刻所處的社會,簡而言之,就是回歸現實。認清我們真正最能夠掌握的其實不是抽象的中國「傳統」或西方「現代」,而是我們自己,我們的社會,我們的台灣,我們的時代。
讓我們回到當代,回到現實,回到台灣本身,當代現實、台灣,是「自我」存活的基礎,也是我們的透視鏡,透過它,我們才能向外觀照其他時間、空間裡的視景,本文試著以當代的角度、台灣的觀點,從台灣島嶼地理、台灣人的個性、政治、經濟、社會環境、大學美術教育,來探索台灣水墨畫的發展,內在因素,進而 呈現其多樣的風貌。二、戰後台灣水墨畫發展的內在因素(一) 島嶼地理(島國文化、海洋文化)
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《昭和の日本美術遺産 第二巻 日本画II》,東京:ぎょうせい,1991塩川京子パンリアル結成へ戦後、京都美術界が動き出したのは、昭和二十三年(一 九四八)頃だろうか。パンリアルが結成されたのもこの年である。パンリアル結成の端緒は、山崎隆と三上誠との出会いからであったという(不動茂弥『彼者誰時の肖像』)。山崎隆は、すでに昭和九年、東京の吉岡堅二、福田豊四郎が中心になって結成された新日本画研究会に参加し、のちに歴程美術協会に加わるなどして、早くから日本画における前衛運動に携わっていた。だが彼も当時の若者の例にもれず、昭和十二年徴兵され中国へ駆り出された。翌年負傷のため帰国、十七年再び召集された。帰国中の四年間は、束の間の青春を傾けて新しい日本画に取り組んだ。だが、燃焼もせぬまま戦地へ駆り出された無念さはあとを引いたことだろう。二十一年復員。復員して間もない秋頃、大阪へ行く電車の中か(山崎隆・第三十回パンリアル展パンフレット)、二条城見学会の際か(三上の回想)、彼は三上誠と再会した。そして「何かをやろう」という話になった(不動茂弥前掲書)。
山崎の「何かをやろう」との気持ちの中にはすでに「歴程」を再興しようとする案があった。戦争のために自ら不完全燃焼に終わった青春を再び取り戻そうとの思いもあったろう。同時に「日本画及び日本画壇の退嬰的なアナクロニズム」(山崎隆・前掲展パンフレット)に一石を投じようとしたのである。それに同意した三上は親しい星野真吾を通じ仲間を募っていった。
しかし「歴程」再興は東京側作家との折り合いがつかず不首尾に終わった。再興の話し合い過程の中でも、早い時期から京都側の作家たちの間から東京側に対して懸念があった。次第に京都で独自のグループを作ろうという動きに変わっていった。たびたび会合がもたれた。昭和二十三年一月から三月頃、三上がパンリアルの名称を考えた。「パン=汎、狭義のリアリズムではなく、現代を表現する限りにおいてはアブストラクトをも含む広義な内容を期待しての命名である」と三上は説明している(不動茂弥前掲書)。
三上誠は、昭和十九年京都市立絵画専門学校を卒業後、副手として母校に残った。彼は敗戦後間もなく日記に、日本画壇の旧弊さを攻撃している。そして彼は日本画の題材そのものに対しても疑問を抱いていた。花鳥風月を画題として、鳥や花ばかりを描いているだけの精神でさえ、感傷性、抒情性に陥っていると。加えて無批判に東洋古典に偏重し過ぎているではないか。これでは日本画はいつまでたっても国際的に通用しないではないか。しかも日本画には社会性がない、社会生活と密着したものがない。それれだけではない、現実生活とも繋がりがない、そんなこんなで日本画壇のあらゆる面においての封建的な体質が常に新生の芽を枯らしているのではないか。それでもなお三上は日本画絵具、すなわち膠彩(こうさい)の可能性を信じていた。
昭和二十三年三月、パンリアルが結成された。メンバーは山崎隆、三上誠、青山政吉、八木一夫、鈴木治、星野真吾、田中竜児(進)、不動茂弥の八名であった。このうち青山政吉は絵専では日本画科に籍を置いていたが、洋画を描いていた。八木、鈴木は陶芸家である。パンリアルの段階ではまだ膠彩(日本画)に限定していなかったのである。五月二十一日から二十五日まで、京都丸喜画廊でパンリアル展が開催された。この時星野、不動、田中が不出品であった。
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《昭和の日本美術遺産 第二巻 日本画II》,東京:ぎょうせい,1991大須賀潔新しい日本画を目指して日本画の公募団体創画会の秋の本展、創画展は、平成二年で第十七回展を迎えた。出品目録も今では、出品作品全部をカラー図版で収める分厚い図録になった。創画会が、その前身には、洋画や彫刻の美術団体である新制作協会の日本画部としての長い年月をもっていたことは、今はもう格別に意識する必要がなている。さらに溯れば、それが創造美術という、三年ほどの誕生の歴史をていることなどは、遠い昔語りのように思える。
第二次世界大戦の終戦から半世紀近くが過ぎて、戦後 の日本美術を新しい評価の視点から回顧する美術展が相次ぎ、昭和二十三年(一九四八)一月に結成された小さな日本画団体創造美術のことも、それなりに美術史的な視座に納まるようになった。創造美術は、それが存続した三年間の動向だけではなく、昭和初期からの日本画の動勢を伏線にはらみ、現代日本画を戦前から戦後へと展開させた一つの舞台として重要であり、そのまま今日の創画会にまで歴史を重ねいることに意味がある。それは単に一つの日本画団体の発展史を超えて、昭和日本画史の現代に至る影響の大きな流れと相呼応しているから、いっそう興味深い。他の日本画団体、例えば、日展や院展にそれがまったくないというのではないが、創造美術の誕生を発端として、そこから新しい日本画創造に影響力の強い作家たちが画壇に登場してきたというのも事実だ。明治から続いている日展や院展の戦後は、日本画壇の中枢を形成する大家たちを健在に擁していたから、変革の動きは着実ではあが緩慢た。そこへ日本画の前衛として、同じ頃に結成されたパンリアル美術協会による日本画の否定や破壊の方向からでなく、日本画表現の地平を現代的なものへと広げていく刺激を与え続けたのが、創造美術の作家たちであったといって思う。何もないところから出発した創造美術が、四十数年後の今日の創画会にまで、時代を語り伝える新鮮な表現の担い手たちを数多く輩出させる源になった。創造美術の三年間だけの評価はさしたることではないかれない。しかし、結成に集まった作家たちは、それから現代日本画に名を残すだけの作品を発表してきた。創造美術にまつわる話は、歴史が語る彼らの青春の、というには遅いくらいだが、ややほろ苦い記念碑的物語になる。創造美術結成まで創造美術は、この数年でやっと創造美術協会と誤記されることがなくなった。しかし、未だに、それが戦前の新美術人協会を母体として直接誕生したかのように記述されているのは、誤りではないにしても正確ではなく、当時の画壇の状況やその重要な歴史的意味、今日に伝えてほしい存立基盤である精神的な結び付きが色褪せてしまう。
この結成に参加したのは、東京から、高橋周桑(明治三十三年生)、山本丘人(同)、橋本明治(明治三十七年生)、 福田豊四郎(同)、加藤栄三(明治三十九年生)、吉岡堅二(同)の六人、京都から、上村松篁(明治三十五年生)、奥村厚一(明治三十七年生)、広田多津(同)、沢宏靱(明治三十八年生)、秋野不矩(明治四十一年生)、向井久万(同)、菊池隆志(明治四十四年生)の七人、計十三人であった。彼らは、京都の作家たちはやや若いが、いずれも四十歳前後から四十代半ばの日展審査員経験の作家や特選受賞歴のある有望な実力作家であった。高橋周桑だけが院展、他は、日展を離れて、つまりそれまで画壇に築いてきた実績を捨てて、「在野精神に立脚し官展に関与せず」と宣言して、新たなゼロからの出発に踏み切った。
ほぼ一年掛かりの結成は、正式な発表前に毎日新聞にスクープされたりして、世間に話題を呼んだ。記事を書いたのは、小説家の井上靖で、当時は記者をしていた。他に事前から察知していた記者もいた、スクープされて支局の上層部が責任を取らされるということもたほどに、画壇の事件として騒がれた。創造美術という日本画家集団の出発が、当時の日本の社会では、戦後民主主義の新しい風潮を象徴する紛れもない一つの社会的な事件となるところに、日本の戦後の出発との二重映しを見てとることができる。
けれども、その頃を思えば、どのような経過があって東西の作家がこのような顔ぶれで集まり、結成にまで漕ぎ着けたのか、不思議でもある。新幹線で往復できるよ ックスさえもある現代のように情報手段の簡便な時代ではない。まして、今日でさえ閉鎖的な特殊性をいわれる日本画の世界で、所属している団体を離れてやっていこうというのは、まだ一人立ちしきれていない作家にとっては、先行きの不安な大問題である。例えば、京都の七人は、日展の大御所として勢いのある西山翠嶂の画塾青甲社に籍があった。他にも日展には、小野竹喬、堂本印象、福田平八郎といった京都の大家が顔を揃えている。日展は、まさに京都画壇そのものであったといってもいい。そこを離脱して出発しようというのは、それなりの覚悟と人間的な強い結び付きがなければ、到底果たしえない難事であった。同じ事情は、東京の作家にもあった。東京美術学校を昭和六年に卒業した日展作家で構成された六窓会で、東山魁夷らと一緒に歩んできた加藤栄三と橋本明治の二人は、後年になって、不本意なが参加したと訂正しているが、創造美術の三年だけで日展に復帰したのも無理からぬところがあった。その点では、戦前から、新日本画研究会、新美術人協会というふうに、独自の新日本画運動を率いてきた福田豊四郎と吉岡堅二の二人が、最も自由であり、終始グループを先導する役割を果たしたとみることができる。そのまとめ役 が山本丘人であり、京都は上村松篁が中心になっていた。
そのように、東京と京都、それぞれ事情の違う十三人が、戦後の落ち着かない世情の中から、結成に参加していった経過というのは、かなりドラマなハラハラさせる展開があって感銘深いものがあるが、ここでは割愛せざるをえない。ただ、その具体的なきっかけだけを、山本丘人の回想録に依って紹介しておこう。
「今思うと、一種の革命期であったろう。世の中全体が新しい動きでむんむんしている。......とにかく、時代の空気がなんとなく伝わって、血が騒いでいた。そのころ、終戦翌年か翌々年かだ 私のところに、山崎斌という人がよく現私ばかりではない、東京では前から私と付き合いのある吉岡堅二さんや面識のある福田豊四郎さん、京都では上村松篁さんや秋野不矩さんといった人たちなどを、この人は訪れた。......事は、この人との付き合いから起った。」(山本丘人「私の履歴書」昭和五十三年十月十三日付日本経済新聞)
山崎斌は、初めは小説家としての道を歩み、のちに、草木染を復興して、雑誌を主宰するなど、文学活動の傍ら、自らが命名した「草木染月明織」の普及に努めた見識高い文化人であったから、その頃の日本画の在り方に、率直な意見を説いて回り、新しい団体結成に参加してくれそうな人材を捜し歩いたのだった。
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3. 珍しい田の神の数々数多くの田の神の中で、目を疑うような大変珍しい石像がある。それなりに製作された理由があると思われる が、不明なことが多く今後検討していきたい。(1)家族と河童も祀られる田の神曽於市大隅町の岩川弥五郎伝説の里には、平成8年に川崎工業から寄贈された興味深い田の神石像群がある。左端の石像が本家の田の神で、次に長男、女の子、右端に河童が祀られている。頭に皿水、右手に日傘、左手には酒入のフクベを持ち、背中には甲羅がある。これは山の神として創設されており、春には山から下りて田の神になるという言い伝えからとのことである。田の神と山の神との関連が思い出される。(2)十字架を持った唯一の田の神薩摩川内市入来町の郷土館に、十字架を持った田の神が展示してあるが、所有者と薩摩川内市教育委員会の許可を得て撮影ができている。以前、地元新聞にもとりあげられているが、その起源や十字架についての理由は分からない。江戸時代の作とされているが、地名の栗下がなまって「クルス(十字架)」になったとか、西南戦争の頃に西郷隆盛がクリスチャンをかくまったことに由来するのではないかと言われている。 いずれも推測の域をでないが、十字架を持つ石像は他に類をみない。(3)シラス崖にある2体の田の神霧島市横川町下ノ大出水の、よくぞこんなところにと思われるシラス崖中腹に、2体の神像型座像の田の神がある。向かって左側は烏帽子を被り衣冠束帯の姿で、風化が強く顔の表情などは不明である。右側は冠を被り衣冠束帯で、両手を膝上で組んでいる。 作製年代や作製の経緯など非常に興味が惹かれるが、残念ながら風化が 強く詳細は不明である。(4)日本最古の水田跡に祀られる自然石文字彫の田の神霧島市霧島田口の日本最古の水田跡狭名田の長田公園敷地にある。天保14年(1843年)、島津斉興の頃に造立された。安山岩で彩色などはなく石碑などと並んでいる。旧霧島町には霧島神宮にまつわる「天孫降臨の神話」など数多くの伝承が語り継がれている。
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八木幸夫,《田の神サァガイドブック》,南方新社,2022多くの田の神石像をみていると、「田の神」かどうかの判断に迷うことがある。例えば、石像は元禄時代のものであるが、田の神ではなく明らかに墓石である。しかし、その集落の古老や公民館長などの話では、その墓石をかなり昔から、みんなで田の神として崇めてきたというのである。また庚申塔や水神として作られたものが、後に田の神として祀られている石像も珍しくない。このような場合判断に迷うが、著者はやはり年代不 詳の田の神としている。そして個人宅や田の片隅に、自然石や祠、場合によっては屋内で掛け軸や厨子などを田の神として祀ってある。これらは立派な田の神と考えられる。要するに、石像であれ何であっ ても、地域住民が「田の神」として祀ってきたものであれば田の神と定義したい。1. 田の神石像の保管・保存方法田の神石像には、大きく分けて(1)設置型、(2)家宝そして(3)持ち回り型の三種類がある。(1)設置型石像の多くを占めており、例えば霧島市国分上之段の田の神のように、道路沿いや田を見渡せるような高い場所に置かれていることが多い。稲の成長を見守っているかのように佇んでいる。この石像の作製年代は不詳で あるが、外界の自然の風雨にさらされる石像の寿命は百年くらいといわれている。しかし、中には木製やコンクリート製の屋根つきの祠に祀られているものもあり、これらの寿命はさらに長くなる。(2)家宝型曽於郡大崎町新越家の田の神のように、先祖代々家宝として引き継がれてきたもの。この田の神石像は、昭和51年7月に町の有形民俗文化財に指定されている。
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臺灣遊記持地東嶺前提予の官途に在りて臺灣に在職したるは明治三十三年より明治四十三年まで朝鮮に勤務したるも亦殆んど十年及べり、今や筆を載せて臺灣に再遊するは實に二十二年目に屬せり想ふに此間臺灣經營の變遷消長果たして如何。吾人は北門の鎖鑰を確實に把持すると共に南門の關鍵も亦之を忽諸に附す可から賈誼曹錯たらざるも邊疆治安の利害得失は審思熟計を要す吾人の常に最も力を致さんとするは實に日本邊治の比較研究に在るなり。阿里山登遊十二月午前五時廿分阿里山森林鐵道に搭乘、嘉義北門を出發す同行者は牛塚部長一行及鐵道協會員數名にして製材場長永山技師案內せらる、凡て十二名也、二呎六吋の狹軌鐵道にして嘉義驛より阿里山頂沼の平までを幹線とし其延長四十四哩弱、七千五百餘呎を上るものとす。特別裝置の機關車に特別裝置の貨車運材車を連結す。予等の搭乘せるは普通の有蓋列車にして今回鐵道大會員の為特に製作せるものの由なり。竹崎(舊稱竹頭崎)までは平坦にして五十分一勾配上りとす。此地嘉義を距る九哩、由地物產の搬出場にして、鐵道は此地までは一船旅客及貨物の運送を取扱ひ、是より以遠は貨物の運送のみを取扱ふ。竹崎よりは二十分一勾配上りにして漸く由中に入り、橋梁又橋梁、隧道又隧道を通過し山腰を迂餘曲折して上る。十五哩にして獨立山と稱する小山前面に橫はる。鐵道は螺旋狀を為して之を經廻すること三回、更に結帶狀を為して上る、海拔三千尺とす、實に偉觀なり。交力坪を經て奮起湖に至り午食す。是より鐵路漸やく深山に入り、觸目轉瞬變化して應接に遑あらず。俯瞰すれば幾百千丈の深谷にして汽車は高山の腰部を驅走す。前面には塔山の斷崖絕壁あり。朝鮮金剛山の萬物相の奇巖怪石に乏しきも巨相雄觀は遙かに之に過ぐ。哆囉嘕、十字路、平遮那を經て、二萬平に至る、隧道を通過する實に七十有二。汽車は已に阿里山森林中に在り、蓊鬱幽邃、神氣人に迫る。是よりスウギチ、バツク數回にして神木の前に到りて下車す。神木高さ數十丈、其腰圍は二十人の手を聯ぬるも尚匝る能はず、其斷面は二十疊を敷くに足ると云ふ、實に偉觀なり。是より徒步、阿里山神社、佛堂に禮拜し、沼の平に至り、俱樂部に投宿す、于時午後五時、沼の平は山頂に於ける作業の根據地にして、人家數十戶、小學校の設あり、兒玉村と稱し、海拔七千五百尺、氣溫六十度、嘉義の八十五度に比すれば實に二十五度の差あり、褞袍を擁して暖を取る、扁額、懸幅あり、書畫帖あり、登山者の風藻を收む。就中後藤棲霞男、田讓由男の吟詠あり次韻漫吟以て閑夜を消す、句を成さざるも亦是れ實境の感想なり。身披雲霧近星河。無數青山一日過。天半人間詩不就。漫唱先賢樹海歌。
鐵路盤廻山又山。度來蒼翠檜杉間。飄然身在白雲上。明月清風心自閒。
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典藏是美術館發展的核心,典藏品的累積更是台灣藝術發展之珍貴軌跡。本館自開館以來,持續致力以台灣美術發展為經緯,典藏前輩藝術家作品,並積極透過本館策辦之專題展覽,購藏探討當代議題作品。以研究為基礎,關注跨世代藝術家創作發展、蒐購優秀作品,近年並開拓以具時間性的多媒體作品、行為藝術、以及計畫型作品為方向之收藏。期能與時俱進地回應台灣當代藝術發展,支持藝術家在創作上的耕耘,亦為公眾保存藝術資產。本展以2015至2022年春季入藏作品為範疇,透過「旅者的凝望」、「別樣的時光」、「人間注目」、「回看日常」四項子題,展出三十八位藝術家的油畫、水墨、素描、版畫、攝影、錄像、動力雕塑、機械裝置等共七十八組件作品,向大眾介紹本館新進典藏品,呈現近年展覽與典藏的豐盈成果。「旅途」之名,可視為與展出作品對話的關鍵詞,亦指往三個想像的方向:其一是旅途所觸發的身體移動、敏銳感知、對自我與環境的重新審視與覺察。其二,是每件作品的創作為藝術家開啟的未知旅途,以及身處其中的探索和努力。其三,是美術館與典藏作品之間,彼此在規劃與未知機緣之間邂逅的歷程。「旅途」一詞,亦是對觀者提出邀請。在觀展之前打開想像,在此隨著藝術家的目光,轉換視角,激盪對作品的多重觀看與思考。(文字來源)
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1921年10月,黃土水以《甘露水》獲得日本帝國美術展覽會入選,此作以蚌殼中昂然向上的少女,宛如自黑暗中走向世界,堅強舒緩的容姿象徵著臺灣文藝復興時代的將臨;同月17日,臺灣文化協會成立。發起人蔣渭水在發表〈臨床講義:名為臺灣的病人〉(1921)一文,診斷臺灣罹患「知識的營養不良症」,須藉由文化運動醫治,而推動文化運動的組織即是臺灣文化協會。
一次大戰後的大正民主時期,在民族自決思潮與自由民權運動的衝擊下,啟發在東京的臺灣青年,反思殖民地之下的差別待遇並組織集會,而林獻堂則領導臺灣議會設置請願運動,與蔡惠如在東京催生《臺灣青年》雜誌。蔣渭水等人則是在島內成立臺灣文化協會,作為本島民間社會啟迪民智、思想解放、文化藝術啟蒙的重要開端。隨著文化運動的深化,各式政治運動蓬勃湧現,臺灣文化協會於1927年分裂後影響生成多個團體,分佔光譜不同位置共同為臺灣未來努力。另一方面,文協推展的文化運動則受到世界思潮影響,新時代的繪畫、雕刻、小說、新劇、電影紛紛誕生,與運動相輔相成新的藝術概念。藝術家追索藝術與社會之間的關係,以文藝抵抗的路線繼續延伸文協精神直到戰後。在迎接臺灣文化協會創立一百週年的2021年,北師美術館將目光著眼於時代脈絡。試圖穿越作品美學風格與藝術家自身歷程,定錨於其成長的年代,探索其時代特質,藝術家何以從中迸發力量,得以奮不顧身追求藝術,以此建構臺灣文化面目。由文化部與財團法人福祿文化基金會支持,林曼麗總策劃,邀請周婉窈、劉柳書琴、石婉舜、蔣伯欣、陳慧先、陳允元與吳俊瑩等長期精研歷史、文學、戲劇、藝術、原住民與婦女、法律的學者組成跨領域研究團隊。考察一百年之前的時空背景,從社會運動與發展切入,藉由藝術作品與文獻共構相互補述,呈現1920-40年代文化協會及相關人物所處的社會,映射臺灣文化協會文化向上的行動與精神,回訪一百年前臺灣文化的啟蒙與自覺。本展以「生命的恆流」、「風景的創造」、「大眾與摩登」與「自覺的現代性」四個子題出發,由內而外探討創作者如何從自我覺察的迸發進而書寫社會,勾勒個人和社會的交融與抵抗。與此同時於「當代的迴響」單元與阮劇團合作重新演繹當時的文化劇,以及邀請林君昵、黃邦銓導演團隊創作《甘露水》同名紀錄片與影像互動裝置將時代顯影。在多樣化梳理展呈歷史的同時,透過與當代創作者的合製共創,以當代的觀點回應創作的本質。「光——臺灣文化的啟蒙與自覺」展名以「光」為名,回應一百年前知識份子如何在黑暗的時代中仍懷抱勇氣,感知那幾近不存在的光,並心懷信念向前奔馳。(文字來源)
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「高雄」作為一座以工業起家的國際港灣城市,自2002年始即以「鋼鐵」為材料,透過「雕塑」為手法、兩年一次的頻率辦理「高雄國際鋼雕藝術節」,至今已跨越兩個十年的時間維度,不僅是藝術節本身,高雄這座城市也有相當大幅度的變化。第十屆「2023高雄國際鋼雕藝術節」,設計與藝術在藝術節中攜手合作,從工業記憶小史出發,交織鋼鐵的製程與想像。22組參展作品橫跨藝術及設計的光譜,解放受疫情禁錮的國際文化交流,展現高雄金屬製造、工廠聲景、勞動者故事及工業城市地景等包羅萬象的面貌,回應高雄這座不斷製造及創造的城市。製造,是鋼鐵工業包羅萬象的產業面貌;創造,是鋼鐵藝術剛柔並濟的全新視野。Everything is connected! 鏈結鋼鐵與城市的輝煌歷史;交織產業與市民的鮮活記憶。
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