鈴木敬,《中国繪畫史 下》,東京:吉川弘文館,1995


官の職業畫家に就いては「明初畫壇の一般的傾向」でふれ、明確に畫院畫家あるいは職業畫家の作品といわれるも のの存在に對しても否定的であることを記した。また恐らく日本及び中國の繪畫調査が進む過程で發見されることが 有るかもしれないと言う希望的考察をもしている。ことに日本の調査の進展は意外な結果を齎すかもしれない。

たとえば『明通鑑』卷十にはつぎのような記事が見える。「二月、丁酉、國子祭酒、文淵閣大學士宋訥卒す。宋訥嘗て病む、上、其の壽骨有りて、憂い無きを以て、己に畫工をして訥をせしめ、其の像を圖がしむるに、危坐、怒色有り。上、以て訥に問う、訥驚き對えて曰く「諸生の趨路者茶器を砕く者有り、臣、教を失せるを愧じ、故に自ら 訟う耳。陛下何によってか之をしれる。上、圖を出す、訥頓首して謝す」。洪武二十三年(一三九〇)二月丁酉は宮廷畫院の草創期であった。宮廷畫家の必要は有ったにせよ、未だ官制化されてはいなかったのではないか。

永樂期の畫家達

永樂期になると事情は大分違ってくる。款記の上でも文獻の點でも畫院の存在は明らかになっている。ただ後世のように畫家の身分がはっきりしていない部分が多少、存在する。「直仁智殿」とか「仁智殿待詔」といった後世普遍 化する職能も成立してはいない。花鳥畫の名手、邊文進は「官武英殿」で有ったし、翎毛を得意とした殷善の官は武官では有るものの錦衣衛の官ではなく「府軍衛千戶」(『英宗實錄』)であり、山水、人物、釋道を善くした上官伯達は「直仁智殿」であった(『福縣通史』卷六十一、技術)(文淵閣四庫全書收)。武英、仁知の雨殿と宮廷畫家の關係に就いては拙考「明の畫院制について」(『美術史』第六〇號所載)において少しく想像を交えて論じているが、本書に於ても項を改めて記したいと思う。

永樂期を代表する畫家を擧げれば、邊文進、子供の邊楚芳、楚善。吳士英、夏昶(『妮古錄』)である。

明の周暉撰『金陵瑣事』には蔣子誠の神鬼に巧であった逸話を載せるものの、畫院入院の事を推察させる物はない。San Francisco の Hing-tsung Lee 氏のところには〈倭寇圖卷〉(Bradley Smith and Wan-go Weng “China” (Weatherhil-1 Japan))があるが、この圖版によっても圖が明初に描かれたとする徵標は無く、むしろ明後半、倭寇が猖獗を極めた頃の一場面か、或いは一五九二、 一五九七年の所謂文祿、慶長の役の場面と思われ、その制作は到底、洪武までは上がる物ではないであろう。兪劍華の擧げた洪武期の畫院畫家の內、沈遇については杜瓊の『杜東原遺集』によっても儒業、讀書の徒であり、水墨山水を描いて夏珪、馬遠を師としたとは謂うものの、宮廷と緣を結んだのは永樂より後のことである。太祖に仕えたのは父の宗德であった。沈遇自身は沈周、杜瓊等とほぼ同時であったと見て良い。謝環が永樂朝畫院に入ったことは王直(洪武十二年〈一三七九〉~天順六年〈一四六二〉)(『索引』)の『抑菴文後集』卷二(文淵閣四庫全書收)によって明らかである。「御賜謝庭循圖書記」の中に「永樂中、上に薦める者有り。徵せられて京師に至り、藝を校ぶるに、高等に在り。遂に寵用を蒙むる。隱然として名、四方を動かす。宣宗皇帝大寶位を嗣ぎ、講道論治の暇、頗る書畫を以て自ら娛む。廷循日に左右に侍するを得て、凡そ進御する所、旨に稱わざるなし。遂に擢んでて錦衣百戶と為し、未だ幾ならざるに、千戶に陞る。恩遇の隆きこと比有る者鮮し(略)」。胡儼(至正二十一年〈一三六一〉 ~正統八年〈一四四三〉)(『綜表』)の『頤庵文選』上(文淵閣四庫全書所收)の「樂靜齋記」にも「永樂の初、藝事を以て薦められて京に入る。今は屋從して北京の昭同坊に寓す。仍ち樂靜を以て其の齋居に署す(略)」でも明らかである。これ以上に謝環、永樂入院の史料は要らないのではないかと思う。

『英宗實錄』の景泰三年六月庚寅には「錦衣衛千戶謝庭循、府軍衛千戶殷善を陞して、指揮僉事と為し、帶俸を仍給す。其の繪事を善くするを以て也」。楊士奇の『東里續集』卷四(文淵閣四庫全書收)によると、錦衣衛千戶になったのは宣德年間のことのようである。

郭純もまた太宗に繪事で仕えたが、楊士奇の『東里文集』他、永樂期宮廷畫院に職を奉じた記事はない。楊士奇は 『樸齋記』にいう。「永嘉の郭交通、繪事に精し。太宗文皇帝に事え、嘗て其の名を賜わりて純と曰う。純既に拜命、退き、所居を名づけて樸齋と曰う。蓋し僕は純に幾し。純は德を以て言い、僕は質を以て言う。僕に繇り以て純に達す。(略)純、人となり和厚明敏。永樂の初め召さる。至りて後、營繕所丞に擢ぜらる。上、大寶を嗣ぐの初め、閤門使に陞る、と云う。洪熙元年三月記す」(文淵閣四庫全書收)。これに因れば永樂期においては府軍衛とか錦衣衛のような武官だけが宮廷畫家の任ぜられる官ではなかったことを推測させる。從って張弼(洪熙元年〈一四二五〉~成化二十三年〈一四八七〉)(『索引』)の『張東海詩集』卷四には「(略)宣德間、內供奉に充てられ、錦衣鎮撫の祿を食む。宣廟、嘗て面に之に書かんことを促す。即ち筆を執らず、死を以て之を怵す。對えて曰く。書することに苦しみ、畫くことを樂しむ、寧ろ死すとも草々たる能わずと。上、霽威を為す」。郭純の場合、錦衣鎮撫で有り、直仁智殿に當 たるものが供奉であったと言うことが出來るであろう。『東原遺集』下によると「郭文通、會稽の人、官閤門使に至る。此の職、最も清貴と為す。文通善畫を以て之を得たり」。郭純が他の畫家と違うのは、彼が畫士であり、謝環等のように文人的教養が無かったと推測されることであり、その點、後代の宮廷畫家と性格を同じくしていることである。ただ徐有貞のごとき稱賛者もいた。

彼の畫風は宮廷畫家の採用した馬遠、夏珪ではなかった。葉盛(永樂十八年〈一四二〇〉~成化十年〈一四七四〉)(『綜表』)の『水東日記摘抄』(紀錄彙編收)は言う。「范景東言う(略)畫は最も永嘉の郭文通を愛す。(略)郭の山水は布置茂密の故なり。夏珪、馬遠を言うもの有れば、輒ち之を斥けて曰く、是の殘山剩水は宋僻安の物なり、何ぞ取らんや(略)。この後に暹の內父、錢唐の蔣暉、字は歐陽率更(詢)を灋(法)とし、清勁多し、屢、旨に稱わず。暉、官久しく進まず、是に坐すと云う」。『明畫錄』によれば「范暹は字を起東、號を葦齋、吳縣の人、書法にエみであっ た。永樂中、徵されて、畫院に入り、花竹翎毛の筆致は雋逸であった(略)」。彼が畫院の樣式であった馬遠、夏珪風を探らず、字も清勁で、それが永樂帝の氣に入らなかったと言うことは畫院形成期のこの時代において、畫院が志向したものが何であったか推測できるように思われる。書が巧で、文章が書ける中書舍人を、畫家に代用していた洪武期とは樣變わりした永樂期の畫家の存在が髣髴とする。畫家には文人的教養が必須ではなくなった。北宋の徽宗のような畫家の文人的教養の引上げを考える皇帝が出ないかぎり、畫家と文人的教養とは無關係であったし、事實、これより後、宮廷畫家で教養の有る者は數多くない。

韓秀實については『明畫錄』のほか宮廷との關係を示す物はない。「韓秀實、琢州の人、洪、宣の間、內殿に供事し、大いに寵渥せらる。畫馬に工みに、展、鄭、曹、韓の間に出入し、具に神栄有り。人物も亦佳し」(『明畫錄』)。しかし『明宣宗實錄』卷九の洪熙元年九月壬戌には「行在錦衣衛正千戶韓秀實を陞して本衛指揮僉事と為し、仍て御用司に隷せしむ」の記事が有る。畫家の隷屬關係が明確になっていることに注目しなければならない。從って永樂末年には宣德期と同じく御用監と同じ樣な職務を持つ御用司に屬したことが分かる。この點でも宮廷畫家の官と隷屬關係において永樂期は時代の交替期に有ったと言えよう。彼等の畫蹟は洪武期の畫家と同じように明白なものは少ない。

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