西川杏太郎
五、十大弟子・八部衆像の名称
十大弟子と八部衆像にはそれぞれ像ごとに名前がつけられている。まず十大弟子像についていえば、現在つけられている名称は、『維摩詰所説経』の中の「弟子品」に記される釈迦の十人の弟子たちに当たる。いま興福寺には須菩提、富楼那、迦旃延、羅睺羅、舎利弗、目犍連と呼ばれる六体が残る。その他に摩訶迦葉、阿那律、優婆離、阿難がある。十大弟子像の現存遺品としては他に京都大報恩寺の快慶作十大弟子像が有名であるが、これらに付けられている名前と比べても、老若の相貌のうえからも一致しない点が多い。また創建当初の西金堂に安置された諸仏中では、これら十体は「羅漢」と記され、また同時に別に羅睺羅一体が安置されていたことが知られるので、あるいはこの羅漢は十大弟子ではないのかもしれない。したがって、これを俱舎宗関係の十人の祖師像ではないかと考えたり、また西金堂の造像が、当時最も重要視されていた『最勝王経』による造像と考えることができるところから、この経の「序品」に記している釈迦に随侍する十二人の羅漢の中から十人を選んで造ったのではないかとする有力な説などもあるが、いずれもまだ定説になりえ ず、この十大弟子像の正確な命名はまだ確定していない。
次に八部衆像についてであるが、これらは釈尊に教化されて仏の眷属として仏法の守護に任じているインド古来の異教の神々として知られている。天龍八部衆ともいわれ、現在、五部浄、沙羯羅、迦楼羅、鳩槃荼、阿修羅、乾闥婆、緊那羅、畢婆迦羅の名がつけられている。この命名も江戸時代になってからのことで正確であるかどうか根拠がない。平安時代応徳三年(一〇八六)に描かれた高野山の仏涅槃図や、 これにほぼ近いと考えられる旧松永記念館の釈迦金棺出現図などに描かれる群像の中の八部衆に名称を墨書しているものがある。これらと八部衆に関する経典に記されている姿などと比較してみると、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、乾闥婆などは、ほぼ正しい命名と考えてよいようである。体部から頭部にかけて蛇をまつわりつかせている「沙羯羅」については、涅槃図や金棺出現図中では「摩睺羅迦」と記している。「摩睺羅迦」が元来蛇神であることを考え合わせて、この像は沙羯羅ではなく摩睺羅と考えるのが正しいであろう。
この八部衆像を国宝に指定する際、文化庁ではこの像を「摩睺羅」と命名しているが、公刊の出版物にそう記すと、必ず読者からこの名称について問合せの電話が文化庁にかかり、当事者はその度に閉口さ せられるようである。
ながらく使われた寺伝の名称によってこれらの名像が世に紹介され、むしろこの名付けが一般に通用しているので、今はそのまま使っておくほうがよいと思われるが、正確な命名はなかなかむずかしいものである。
六、十大弟子・八部衆像の表現
十大弟子像はそれぞれ僧形に造り、法衣の上に袈裟を懸け、素足に板金剛(草履で裏に板を取りつけたもの)をはいて洲浜座上に立つ。その姿は、頭部が小さく、ほとんど八等身に近いプロポーションで、体部は幅や厚みに対して丈が長く、細長い筒を思わせるような概形を形造っている。衣の下の肉身は痩せてあまり肉付きがなく、量感を感じさせず、おのおのの表情や身振りなども総体にひかえ目に穏やかにモデリングし、他の天平彫刻の諸作例の中でもひときわ清純な趣強くまた親しみやすさがある。
しかしよくみると頭部の形や面貌の老若など、像主の個性がひかえめな表現ながら、実に的確にあらわされ、みごとな調和を保っていることに気づかれるであろう。最も若い須菩提をみると、その顔のモデリングはいかにも若々しくふくよかに造られ、表情は、わずかな笑みを浮かべ、両眼ははるか永遠を見つめるかのように見開かれ、誘いこまれるような魅力をたたえ、衣のひだはあまり起伏をつけず、特に前面ではあっさりと流し、衣端を執る右手とそれに添える左手もつつましく、総体に一種可憐な趣が強い。舎利弗の表情はこれに比べるとやや壮年を思わせるものであるが、正面を直視し、眉根を寄せて何かひ どく生直面目な相貌に造る。この像は十大弟子中では裾をやや短かめにまとめ、衣文は太い山を刻んで、前面では垂直に流れる勢いを示し、毅然とした風格を感じさせる。また一方、最も老貌の富楼那は、わずかに右を向いて額をあげ、胸前を寛げて肉の落ちた肋をみせ、衣文は右脇へ弧を描くように、やや細かく流し、風雪に耐えた修行者の安らぐ姿を示すかに眺められる。眉根を寄せ瞑目する羅睺羅像は、両腕を衣の中で拱き、ただ一人静かな瞑想の境に入っているようにみられ、また一方、片肌を脱いで肋と痩せ細った腕を露出する旃延は、わずかに上体を右前に傾けて口を開き、何事かを語りかけようとして いる動きの一瞬をとらえている。
このように各像とも、柔らかい塑形材料である木屎漆を鮮やかに駆使しながら、みごとに個性的に造り分けている。これは形式にとらわれない作者の人間観察の確かさに裏付けられるものということができるが、けっして即物的な写実に陥ることなく、節度のある清純な表現にまとめ上げている非凡な力量は賞讃される。一具の群像としての彫刻的な構成の確かさも驚くべきものである。
八部衆像も頭部を小さめに造り、細く丈長い体部を持ち、直立する姿にまとめられているところは十大弟子像と共通する。その中で阿修羅像は短い裳を着け、上半身には条帛を懸け、胸飾や腕釧・臂釧をつけ、十大弟子像と同じく素足に板金剛をはいて立つが、他の七体はすべて甲や脛当をつけ沓をはく武装神の姿をとる。この甲はいずれも厚手に造られ、その下にある肉体を感じさせないやや硬いモデリングを示し、各像の間にあまり形状の区別もない。しかし面相は阿修羅のように少年の面影をたたえたようなものや、五部浄、沙羯羅、乾闥婆のように少年の相を示しながら、獣帽や蛇身を頭にかぶるもの、また伎楽面の迦楼羅と全く同じ鳥頭に造るもの、さらには鳩槃荼や畢婆迦羅などのように怪奇な面相にあらわすものなど、さまざまに造り分けられている。インド古代の異教の神々にふさわしい異相ではあるが、武装神らしい猛々しさ、雄々しさはなく、いたってつつましくみえ、またあまり異形ともみえない。しかもそれぞれの面相にみられる肉付けの微妙な抑揚や現実の人間に近眼鼻立ちなどを写実的にとらえ、親しみやすくのびやかな趣に満ちている。
なかでも阿修羅像は、正面を向く頭部の左右にさらに顔を一面ずつとりつけた三面と、長々と左右にさし伸べる六本の腕をもつ異形に造るが、少しも不自然さを感じさせず、その面相には親しみやすい少年の明るさがある。体部は他の像と同様、細身で胸や腰の張りもいたって控えめで全体に長身にまとめられる。六本の腕も著しく長く、ゆったりと空間を抱いて、かえってみごとな調和を保ち、超人間的な美しさと統一を示している。
作風から考えてこの十大弟子と八部衆像とは同じ作者の手になったものと考えてよいと思われるが、肖像的な十大弟子像を実に自然に造り分け、また阿修羅のような異形をみごとなバランスによってほとん完璧に造り上げ、また一方、固く部厚い甲に包まれる八部衆の七体は、甲の表現に変化をつけず、もっぱら面貌を造り分けることによっ異教の神々の個性を表現しようとしながら、群像としてのみごとな統一に成功していることは特に注目されよう。
総じて人間としての十大弟子と超自然的な異教の神々を、同じく頭部が小さく、体部が細く長い謹直な造形の中でとらえ、清らかで親しみやすく、かつ節度のある古典的な様式にまとめているわけである。
七、終りに
本像に先行する作例としては『法隆寺資財帳』に「和銅四年(七一一)歳次辛亥寺造者」と記録されている法隆寺五重塔の塑像群があげられる。これらの中で北面の釈迦涅槃の浄土中に十大弟子のような羅漢や八部衆がいずれも坐像であらわされており、本像としばしば比較される。この五重塔の塑像は、天平彫刻の初期を飾る重要な作品の一つに数えられるが、それぞれ高が高く、群像であるためかあまり幅を広く造らない造形態度は本像にも共通するものであることが注目されよう。この五重塔塑像にみられる八部衆像の甲の表現がやや厚手に、肉身をとじこめるかのように硬い感じにまとめられているこ とも本像に共通する。
つまりこの十大弟子・八部衆像は、すでに説かれているように五重塑像とかなり共通点をもつ親近関係にある作例と考えられ、写実的な表現への志向が明確に示されながら、まだ完成に至らない初期的な様式を示す注目すべき作例と考えることができるであろう。
八世紀の中葉、天平の盛期に造られた東大寺法華堂の乾漆諸像中の金剛力士や四天王像が薄手の甲に包まれる肉身の胸や腰を強く張り、胴を引きしめて肉体の充実したさまを現実的に力強く写し取り、また法華堂諸像よりは制作が遅れるが肖像彫刻としては、たとえば法隆寺にある乾漆造の行信僧都像が堂々たる体軀の傑僧の面影を写実的に写し取り、ともにおおらかで重厚な作風を完成しているが、そうした様式的完成を導き出す前期の重要な作例として、この興福寺十大弟子・八部衆像のもつ彫刻史的な意義ははなはだ大きい。
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