西川杏太郎
三、乾漆造の技法
十大弟子・八部衆像はそれぞれ典型的な乾漆造の技法によって造られている。この乾漆造は塑造とともに天平時代に最もさかんに使われた技法である。塑造については、この全集の他の巻で詳細に述べられると思うので、ここでは標準的な乾漆の技法について紹介しておくことにしよう。
乾漆は古く中国では「夾紵(きょうちょ)」と呼ばれ、日本でも天平時代の記録で は「即」あるいは「𡑮」と記されている。いずれにしてもこの技術は中国から伝えられたものであることはまちがいない。中国ではすでに紀元前漢時代の古墓からこの技術で造った食器や容器類(杯、盤、案、匳など)や棺が出土しており、日本でも古墳から乾漆造の棺が出土(たとえば、飛鳥の牽牛子塚から乾漆棺二基分の断片約一〇〇片が出土しているのが代表的な例)しているなど、この技術の伝来の歴史は古い。
日本で乾漆造の仏像が造り始められたのはいつのことかはっきりしないが、法隆寺の百済観音像が、樟の一材から彫出した木彫の像面に肉付けをするため、乾漆技法のうち、細部のモデリングに用いられる木屎漆と同じものを盛って塑形を行なっているので、おそらくかなり古くからこの技法が仏像にも用いられたと考えられる。記録では七世紀後半、天智天皇の頃に造られた大安寺の丈六釈迦如来像が乾漆仏であったとされ、また現存の作例としては、天武末年(六八六)頃に造られた当麻寺の四天王像が乾漆仏の最古の例といえる。
天平時代にはこの乾漆技法が流行し、ここに述べる十大弟子・八部衆像のほか東大寺法華堂の本尊不空羂索観音像以下の乾漆諸像、法隆寺夢殿の行信像、西円堂の薬師如来像(峰薬師)、唐招提寺金堂の本尊盧舎那仏像などや鑑真和上像、その他数多くの名像をいまに遺している。
ところで乾漆造の技法は、脱活乾漆と木心乾漆の二つに大別され後者の木心乾漆とは、木彫像のおよその形を造っておき、その表面に木屎漆を盛りつけて細部を仕上げる技法である。これは脱活乾漆の便化した技法とみることができ、特に天平時代末期になるとさかんに用いられるようになる。
さて前者の脱活乾漆の技法が、本格的な乾漆技法といえるものである。十大弟子・八部衆像もこの技法でできているので、ここで少し詳細にこの技法の工程を説明しておこう。
まず簡単な木心を立て、その上に土を盛りつけて、像のだいたいの形を塑像のように造り上げる。これを心とし、その表面に麻布を適当な大きさに切っては漆で貼り付けていく。漆が乾いたらまた貼り重ね、だいたい麻布が数枚から十枚くらいの層になるまで貼り重ねる。
この麻布と漆の「はりぼて」が完全に乾いたところで、その表面の一部(像の背面部など)に刀を入れて、この麻布層を切り開き、内部の土や木心をすべてかき出してしまう。ここで像は麻布と漆で造った「はりこ」のように像内ががらんどうになる。
次にこの空洞部にあらたに像内を支えるための心木や木枠を組み込む。
こうして像の基本体が出来上ると、次には体部から遊離する両腕などのための心木を体部内の太い心木に結合し、またる天衣や袖ある いは両手の指先などには、銅や鉄の針金を心として取り付け、これに麻緒を巻きつけ、モデリングしやすいようにする。
こうしていよいよ仕上げのモデリングに取りかかる。モデリングには木屎漆を用い、体部の凹凸の細部から、両腕や足、指先、天衣その他の心材にも木屎漆を盛りつけ、整形して彫刻として仕上がる。
こうしてできた像面には錆漆(砥の粉、地の粉などを混入した漆)または黒漆を塗り、その上に金箔を箔下漆で貼り付けたり、白土を地塗りとする彩色をほどこして像は完成する。
ところで木屎漆とはいったいなんであろうか。基本は漆をベースとし、これに抹香や木の挽き粉(鋸屑)などを加えて練り上げた粘土のようなものであるが、現存する乾漆仏を細かく調査してみると、漆にいろいろな材料を混入していることがわかる。
たとえば法隆寺の百済観音像(木造、部分木屎漆盛上げ)にモデリングされている木屎漆の中には籾殻や藁を細かく裁断したような物が混入されている。また東大寺法華堂金剛力士像(脱活乾漆造)の場合は、漆に抹香のほか綿や紙の繊維によるが混ぜこまれていることが仏師の辻本干也によって報告されている。また唐招提寺金堂の千手観音と薬師如来像(各木心乾漆造)で使われている木屎漆には、現在、線香などの原料に用いられる椨の葉の粉ときわめてよく似た抹香が主材料として練り込まれていることを筆者も確認している。このほか木屎漆には、地の粉(素焼陶片を粉末にしたもの)を混入した例もあるらしく、その材料は一様ではない。いずれにしても漆をベースにしていることが重要である。
こうした柔らかい塑形材料を用いて彫刻のモデリングを行なう場合、足りない部分に盛り足したり、厚すぎる場所は削り取るなど、微妙なモデリングの抑揚をつけることが自由にできる。つまり工程の途中で作者の意の向くままに肉付けの肥瘦を自由に変えたり、修正することがたやすくでき、木彫像や石像を彫刻する場合と違って、どちらかといえば余裕のあるゆったりとした気分で造像を進めることができる。特に形制のよく整えられた写実的な表現を行なうに適した造像材料ということができよう。事実こうして出来上った像からはいかにも柔軟な材料を用いた像らしい、伸びやかで柔らかみのある独特の肌合が感じられるのである。このことは、十大弟子・八部衆像を観賞するうえでたいへん重要な事柄である。
以上のとおり、乾漆像の材料の主役はいうまでもなく「漆」である。西金堂の造像に当たっての漆の量は、前に述べたように二十石九斗一升という厖大なものであるが、『正倉院文書』によると、この西金堂造像用の漆は一升(現在の京桝四合に相当する)百九十文から二百文くらいであったらしい。当時の米価は一升十文前後であったというか ら、当時、漆がいかに高価なものであったかは十分に想像できるであろう。
天平時代も末期に至り、木心乾漆の技法が行なわれるようになると、脱活乾漆に比べて工程もはるかに単純であり、また漆の使用量も少なくてすむためか、自然に木心乾漆の技法が主流を占めるようになるのも当然のことであろう。
以上が脱活乾漆に関する概要であるが、つぎに十大弟子・八部衆像の乾漆技法について述べることにしよう。
四、十大弟子・八部衆像の乾漆技法
まず心木であるが、現在、東京芸術大学に保存される十大弟子像の心木と、仏像修理技術者として大きな功績をあげられた奈良美術院の故明珍恒男が調査し、描き残された心木見取図、それに、前述した東京国立博物館にある明治二十五年以前に撮影した東金堂所在の八部衆・十大弟子像の写真などが重要な参考になる。
芸術大学の心木をよく観察してみると、現状、裾の部分はすべて木彫で後補されており、竪の心木の削り痕の調子などこれがはたして天平造像時のものにまちがいがないかどうか、やや疑問な点もあるが、材の各部に原型となった土が付着して残っていることがまず注目され、明治二十五年以前の写真にみられる心木にも木部に、塑土と思われるものが付着していることが確認される。つまり造像のはじめに、像完成後もそのまま用いられるような本格的な木枠を組み、これに直接塑土を盛りつけて像のおよその形を造り、原型としたものと考えてよいのではなかろうか。奈良秋篠寺に残る乾漆像心木も、これと同様塑土原型用心木がそのまま像内に残された例として注目されるものである。
この心木に上でモデリングして原型を造り、これに麻布をだいた五層くらい、漆で貼り重ねて基本体を造り上げ、次に各像共後頭部と体背面に大きな長方形の窓を切り開き、中にある原型の塑土だけをかき出して再び窓をふさぎ麻緒で縫い合わせ、次に麻布層の外側から木枠に向けて鉄釘を打ちこみ、本体と木枠を固定している。
心木はすべて檜材を用い、像の肩、腹、腰それに裾近くにほぼ楕円形の棚板を設け、これらを貫通して足柄部から上方肩のあたりまで左右二本の木を支柱として立て、別に上方の二つの棚板を貫通して頭頂に達する心木一本を立てる構造になる。両腕も、十大弟子中の舎利弗像左腕や八部衆中の緊那羅像右腕などにみられるとおり檜材を用い、これに掌の心材を柄でつなぎ、ここに五本の銅針金を植え、麻緒を巻いてこれに木屎漆を盛りつけて腕や五本の指を仕上げていることもわかる。両足先は左右の心木の前に木片を打ち付け、これに木屎漆もってしている。こうした部分だけでなく、木屎漆は、像全面にわたってモデリングされ肉身の微妙な抑揚や、目、鼻、口、それに などの細部や文の細部が仕上げられるのである。
ここで用いられている木屎漆は、現在上半身だけとなっている五部浄像の下端の切断面などから観察できる。後世の修理時に麻布のほつれるのを抑えるため、新しい木屎漆で補修しているので確かなことはわからないが、だいたい前に述べた唐招提寺金堂の薬師如来と千手観音像のそれに似た抹香混入の木屎漆であろうと思われる。
なお最近、興福寺北円堂の修理が行なわれた時、その仏壇床下から乾漆像の断片が発見され、これが十大弟子・八部衆像の断片であるこ とが報告されているが、これには、麻布積層の間に薄い木片が插入されている所がある。これは部分的に厚みを加える必要から、麻布貼り重ねの工程の途中で挿入されたものであることが理解できるが、こうした工事中途での「現場合せ」的な自由な作業ができるのも、捻塑材料を用いる造像の特色といってよいであろう。同じようなことが、法隆寺(現在、東京国立博物館)や東大寺に遺る天平時代の乾漆伎楽面の中にも指摘される。たとえば肌に浮き出す血管をあらわすため、木綿の紐を曲線状に埋めこんだり、また補強とモデリングとをかねて、面の頤に木片を挿入したりしているのがそれに当たる。
この十大弟子と八部衆像が、度重なる西金堂の火災をくぐりぬけ、損傷を伴いながら今に遺されている事実は痛ましくもあるが、損傷が多いため、かえって今述べたような乾漆技法の細部を知ることができるのは皮肉なことでもある。
台座はそれぞれ檜の一材から刻出された洲浜座で、これに同じく木屎漆を盛って塑形し彩色をほどこしている。現在彩色はすべて剝落し、木屎漆も剥落しているところが多い。この台座上面に二箇の穴をあけ、これに像の両足下の足柄を挿しこんで像を保持するように なっている。
彩色は十大弟子像ではいずれも肉身は肌色に塗られ、衣には団花文や裟の相の中に遠山文や刺子の文様などがみられる。八部衆では頭髪が赤・橙・茶・緑、肉身が赤・薄赤・緑・青などに塗り分けられ、髪筋に沿って金線がおかれている。甲は金箔押とし、これに団花文、唐草などを主体とする文様が彩色されている。
記録によれば永承元年(一〇四六)の興福寺大火に救出された西金堂の諸仏は、後で彩色し直されたことが知られるが、現在の彩色は、それより新しく、中世になってからの補彩と考えるべきであろう。『興福寺濫觴記』などにいう貞永元年(一二三二)の補彩であるかもしれない。
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