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西川杏太郎 

一、 興福寺の天平彫刻

和銅三年(七一〇)、都が平城に遷されると、ただちに飛鳥や藤原京にあった官寺や氏寺も続々と平城京に移転しはじめる。藤原氏の氏寺まさかでら厩坂寺(もと山階寺)もいち早くこの年の三月、平城京の東に接する外京、元興寺北隣の春日の地に寺地を定め、興福寺と改名している。この寺の最も中心となる金堂(興福寺では他に二つの金堂が建てられるので中金堂という)がいつ建てられたかは明らかではないが、養老四年(七二〇)には造興福寺仏殿司がおかれて、それまでの氏寺から正式に官寺の列に加えられ、養老五年(七二一)頃には金堂も完成していたらしい。ついで北円堂(養老五年)、東金堂(神亀三年)、五重塔(天平二年)、西金堂(天平六年)、そして講堂(天平十六年頃)の順に諸堂が完成し、寺観が整えられた。

さて、これらの諸堂にはどのような仏像が安置されていたのであろうか。幸いにも、『興福寺流記』に収録されている「山階流記』の中や、『諸寺縁起集』(護国寺本)に収める「興福寺縁起』に記録されている天平宝字の『興福寺資財帳』(『宝字記』と呼ばれる)にこのことが詳細に記されており、また平安末期頃の興福寺の主要な堂宇に安置されている仏像を忠実に描いた興福寺曼荼羅(京都国立博物館本)の図を参照してその実態を知ることができる。次にこれを記してみる。

【引用】興福寺の天平彫刻──十大弟子・八部衆像について-1

中金堂

本尊丈六釈迦如来像一軀、脇侍菩薩像(十一面観音二、薬王・薬上両菩薩)四軀、四天王像八區

【引用】興福寺の天平彫刻──十大弟子・八部衆像について-1

同堂西間(弥勒浄土変群像)

弥勒仏像一軀、菩薩像八軀、羅漢像四軀、四天王像四軀、天人像十六軀、金剛力士像二軀、八部神像八軀、獅子二頭、その他荘厳 具類。

北円堂

弥勒仏像一軀、脇侍菩薩像二軀、羅漢像二軀、四天王像四軀(『七大寺巡礼私記』によると、これら当初像はみな塑造であったらしい)。

東金堂

丈六薬師三尊像、涅槃仏画像。

五重塔(四方四仏群像)

東方薬師浄土変 薬師仏像一軀、脇侍菩薩像二軀、羅漢像二軀、神王像八軀その他。

南方釈迦仏浄土変 釈迦仏像一軀、脇侍菩薩像二軀、羅漢像六軀、浄飯王形一軀従者八人、摩耶夫人形一軀従女七人、八部神像、神王像二軀、金剛力士形二軀、国王形三人、蝦夷形一人、新羅人形一人、婆羅門人形一人、師子形二頭。

西方阿弥陀浄土変 阿弥陀仏像一軀、脇侍菩薩像等廿二軀、種々鳥形十翼その他。

北方弥勒浄土 弥勒仏像一軀、菩薩像六羅漢像四軀、天人形十二人、神王形三軀、その他。

【引用】興福寺の天平彫刻──十大弟子・八部衆像について-1

西金堂 

丈六釈迦如来像一軀、脇侍菩薩像二軀、羅漢像(十大弟子)十軀、

羅睺羅像一軀、梵天像一軀、帝釈天像一軀、四天王像四軀、八部神王像(八部衆)八軀、金鼓(華原磬)一基、その他。

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講堂

丈六不空羂索観音像

以上のように、天平時代、すでに興福寺諸堂には実におびただしい数量の仏像が安置されていたことがわかる。しかも一堂ごとにかなりの数が、群像として本尊を囲むように安置されていたことが興福寺曼荼羅の図からもよく理解できる。

ついで平安時代に入ると、弘仁四年(八一三)には南円堂が建立され、講堂にあった不空羂索観音像が本尊としてここに移され、これほっそうろくそに新たに四天王四軀と供養僧形像四軀ならびに善珠像、玄賓禅師像(後にいう法相六祖像)なども安置されるが、興福寺はその後数回の火災に遇うことになる。

特に大きな火災は永承元年(一〇四六)と、康平三年(一〇六〇)の二回で、多くの堂宇が焼け、安置仏像もあるいは焼け、あるいは救出され、また堂の再建とともに焼けた仏像も再興されたり造り加えられたりしてきた。しかしこの時代も末期に至ると伝統ある興福寺を根底からくつがえすような大火災が発生する。それは治承四年(一一八〇)十二月 二十八日の平重衡による南都焼打ちで、東大寺などともに興福寺は多くの子院はもとより主要堂宇の全てを失い、残るところは、「禅定院幷びに近辺の小屋少々」だけであるという惨状を呈した。当時、藤原氏の氏長者であった九条兼実はその日記『玉葉』の中で「七大寺以下悉く灰燼と変るの条、世のため民のため、仏法王法滅尽しおわるか。およそ言語の及ぶ所にあらず、筆端の記すべきにあらず」「天を仰いで泣き、地に伏して哭き、数行の紅涙を拭い、五内の丹心を描き、言いてあまりあり、記して益なし、努力々々」と言葉をつくして、その悲しみと怒りを書き連ねている。このような痛ましい諸堂の罹災とともに、天平創建以来の数度の火災にも、救出され、伝えられてきた天平彫刻の名像の数々も、また再興され造り加えられた平安彫刻の優品群も、多くは灰燼に帰し、いま寺に遺される当初からの天平彫刻は、 もと西金堂にあった乾漆造の十大弟子と八部衆像だけにすぎない。また天平の諸堂を飾った荘厳具などの中では、同じくもと西金堂の仏前におかれていた華原磬一基だけが現存している。

興福寺を訪ね、この名像に対していると、源平争乱の末世、平重衡の軍勢による無差別な放火によって、南都の諸大寺がいっせいに燃え上り、この地獄の劫火の中で、わずか二十体足らずの仏像とはいえ、よくも無事に救出されたものだという感慨を新たにするのは私だけではないであろう。

二、十大弟子・八部衆像の伝来

【引用】興福寺の天平彫刻──十大弟子・八部衆像について-1

【引用】興福寺の天平彫刻──十大弟子・八部衆像について-1

興福寺西金堂は、藤原不比等の夫人であり、光明皇后の生母であった橘大人三千代が天平五年(七三三)正月に世を去った後、その追福のために建立され、天平六年正月、一周忌に落慶供養された。本尊丈六釈迦三尊像以下、前に述べたような諸像が堂内いっぱいに安置されていたわけである。これら造営の経緯は、福山敏男による『正倉院文書』の詳細な復原研究によってくわしく知ることができる。

まず工事は橘夫人の死後早くも十日目に当たる天平五年正月二十一日に始められ、約一年を費して翌六年正月九日に終わっている。造仏所の責任者として、当時皇后宮大夫であった小野牛養(おののうしかい)が命ぜられ、造仏担当は仏師将軍万福、仏像の彩色などの担当は画師秦牛養などが当たっている。この他建築のための木工、写経の表具を行なった装師、銅工・鈴工・鉄工・紙工・轆轤工など、延べ五万五千余人が動員 されて、この西金堂大造営が行なわれたのである。

造像の材料として「甘斛九斗一升」の漆と、仏座などの材料として「板卌一枚」が記録されているが、特に漆の量が厖大であることは、西金堂の仏像が当時流行の乾漆造であったことを物語っているように思われる。

その後、平安時代、永承元年十二月二十四日の火災で、西金堂は、中金堂以下諸堂とともに焼けるが、西金堂の仏像は無事取り出された ことが『扶桑略記』に記されている。その後三十三年経ち、承暦二年(一〇七八)には西金堂が再建されるが、この時仏像は彩色し直され、元のとおり安置されている。しかし治承四年の兵火では、丈六釈迦三尊像他の仏像群はついに失われ、八部衆像八体と十大弟子像十体とは救出され、江戸時代、享保二年(一七一七)の火災を経て、明治時代まで寺に伝えられた。西金堂はこの享保の火災に焼け落ちた後、ついに再建されることはなかった。

八部衆像は八体そろって寺に現存するが、そのうち五部浄だけが下半身を失い、胸像のような姿で遺されている。

十大弟子像はいま寺には六体しか遺っていない。寺を離れた残りの四体のうち一体の心木だけは、現在、東京芸術大学の芸術資料館に保存されている。また一体は東京大倉集古館に優婆離像と伝えて保存されていたが、大正十二年の関東大震災の時、惜しくも失われている。もう一体は現在、東京の古美術商に保管されているが、これは、東京国立博物館にある旧帝室博物館時代、明治二十五年以前に撮影した当時の興福寺東金堂内所在の八部衆と十大弟子像の写真にみえる十大弟子像残欠とほぼ一致するもので、これに頭部と下半 身を補足したものである。以上三体が現在知られている残りの十大弟子像の行方である。最後の一体は今もその行方はわからない。

なお、この十大弟子・八部衆像の他に、もう二体、旧西金堂像と伝えるものが存在していることに触れておこう。それは益田家旧蔵の梵天帝釈天の二像である。現在、米国サンフランシスコの東洋美術館(旧名・ヤング記念博物館)にブランデージ・コレクションとして保存されている。梵天像は像高一四一センチメートル、帝釈天像は像高一四二・五センチメートル。八部衆・十大弟子像と同じく乾漆造で、表面からの観察と打診とによって、十大弟子などとほぼ同様な心木が、像内空洞部に組まれている様子も確認される。これは興福寺伝来と伝えていて、西金堂の旧像である可能性は十分にあるが、なにぶんにも後世の補修部分が多く、当初の姿を必ずしも正確に伝えているといえない状況であるのが惜しい。この梵天・帝釈天像は、将来さらに精査する機会を得たいものである。

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