藥師三尊像
金堂所在
銅造 鍍金 像高─中尊二五四・七cm、左脇侍三一七・三cm、右脇侍三一五・三cm
延宝四年(一六七六)再興の前金堂の中央、五間二間の内陣のやや北寄りに、大理石をもって高さ約五五─五六cm(正面一〇m 奥行三・二五m)の仏壇を築き、左右に、日光遍照・月光遍照の両菩薩を脇侍として従えた薬師瑠璃光如来坐像が安置されていた(現金堂は昭和五十一年に復原再建された)。いずれも銅造鍍金のいわゆる金銅像であるが、現在本体の鍍金はほとんど失われ、黒褐色を呈する金属の肌の色が黒光りのする美しい光沢を発している。ただ懸裳の部分とその懸裳部分の下からのぞく台座前面の下半分には、後補のものと思われるが、かなりよく鍍金が残っている。
この薬師三尊像は、様式のうえから八世紀後半以降の造立とは考えられないから、本薬師寺の本尊の移座であるならば、当然天武天皇の発願によって造立されたことになり、長和の『縁起』その他にも、これを「持統天皇奉造請坐」と伝えている。もっとも持統朝の造顕といっても二説があり、これを持統十一年(六九七)の開眼と解する古くからの説(註1)のほかに、最近では、この寺で無の大会の行われた持統二年正月以前にすでに完成されていたと解する説(註2)がある。これに対して、養老新説は『縁起』に「持統天皇奉造請坐」とあるのは、『流記』の文ならば当然『縁起』の他の部分にもあるように、「藤原宮御宇天皇」とあるべきで、これを漢風諡号で記しているのは『縁 起』撰者の書入れであるからとし、白鳳造立説の確証とはしがたいと論じ、様式的にみて養老二年(七一八)に旧都の薬師寺の由緒をついで、現薬師寺が新都において新しく造営された際に本尊も新されたと解している。(註3)なおその造立年代については、おそくも元正太上天皇のために釈迦像を造り、『法華経』を書写して当寺に設斎が行われたと『続紀』に記されている神亀三年(七二六)八月までには完成されていただろうと考えている。この新鋳説は、近世の『濫觴私考』や『薬師寺志』などに移座説とともに紹介されており、江戸時代に両説あったことが知られるが、いつ頃から言い始められたのかは明らかでない。
このように、その確かな造立時は、文献的には確認できない。そこで、主として様式を拠りどころとして、この薬師三尊の製作年次を追究してゆかねばならない。
中尊 藥師如來坐像
中尊の薬師如来像は、同じく金銅製のいわゆる宣字形須弥座上に、左足を上にして趺坐している。法衣の右を肩脱ぎ、右手は第一指と第二指を相捻じて掌を前方に開い立て(註4)(第三指および第四指は一度折れたのを直している)、左手は掌を上に開き、第三指を軽く曲げて左膝の上にのせているが、この掌上に薬を置いていた形跡は認められない。両手とも指の間には皮膜状の縵網相をあらわし、その掌には意匠化された十幅を有する輪宝を鏨で刻んでいる(千輻輪相)。また法衣の裾から出て右膝の上に置かれた左足の裏にも、当寺仏足堂の仏足跡(図版二三六頁)のそれとよく似た瑞祥文七相が同じく鏨で刻まれている。すなわち、十七幅を有する輪宝(千輻輪相)を中央に、踵のところに法輪と三鈷とからなるいわゆる三宝標をあらわす梵王頂相文、第一指のもとのところには、いちじるしくデフォルメされたためにそれと容易に識別しがたい金剛杵相文、その隣りに双魚相文、つづいてその横に宝瓶相文(花瓶文)を刻み、さらに第五指のもとのところに、これまたはなはだしくデフォルメされた右旋する螺貝文をあらわし、第一指を除く四指の指頭にはそれぞれ卍花文相を刻み、さらにこの瑞祥文七相の他に、法輪の真上に象王相文、親指のもとに月王相文をあらわしている。
右足は左足の下に組入れられ隠れて見えないが、外形から察するところでは、結跏している姿のようには見受けられない。法衣は両足をくるんでゆるやかに大きく拡がり、須弥座の前面に垂れている。この形式は、飛鳥時代の裳懸座形式の伝統をひくものであるが、衣文などをかなり写実的に表現した様式を示している。具体的にいうと、飛鳥時代の法隆寺金堂釈迦三尊にあっては、懸裳の部分は、左右に裾を開くように造られ、褶襞も面を重ねるような手法に近い表現であらわされていたが、この像にあっては、自然な姿に造られ、衣文の線も写実的にあらわされている。
その写実的な表現は、上半身に纏った法衣についてもみられ、中に包まれた肉体の形姿に応じて的確な線を描き、薄衣の柔かい質感をよくあらわしているばかりでなく、豊かな生気ある肉体をも薄衣を通してリアルに表現している。ことに左胸の部分や、左上膊部から左肩先へかけて衣文の消えてゆくあたりには、生きた人間の体温や触感まで実感させるような、迫真的な表現が認められる。
頭部は、正面からみるときの輪郭には、天平盛期のものと比べると、なお多少の白鳳的な感じがうかがえないでもないが、興福寺の旧山田寺仏頭や、当麻寺の弥勒像の頭部などに比べてみると、やはり白鳳を脱け出た新しい時代の造形感情がすでに示されているようである。むしろ、毛彫りではあるが東大寺大仏の台座蓮弁に刻まれた釈迦像の方に近い感覚が感じられる。さらにこの頭部を斜めから眺めると、この像の備える新しい造形的性格はいっそう具体的に感じられる。
頬のあたりから両口角へかけての微妙な起伏凹凸を細かくとらえている手法は、旧山田寺仏頭の場合よりも、写実的にさらに一歩を進めたもので、その表出する感情は、この像の他のあらゆる部分からも、また脇侍の日光・月光両菩薩像からも等しく感じられる豊かな、天平のものに通ずる感情である。
地髪部は、顔面その他の面よりかすかに高い地をつくり、顳額(こめかみ)から前額部へかけて円満な弧を描く髪際(はつさい)の線には鏨を入れてしめており、柄を造り出した大粒の形のよい螺髪を別鋳して植えている(一部後補)。このような螺髪の手法も飛鳥・白鳳の時代には例をみないものである。肉髻(にくけい)部と地髪部との境界は、螺髪の植えられている外観からは、際立った段落は感じられず、大きく豊かな肉髻部の輪郭は、円滑な曲線を描き、ゆるいアクセントをもって地髪部の輪郭線につらなり、頭全体の調和のある豊かな外観に融合している。(註5)
鼻の両側面から鼻孔面にかけても、白鳳仏のような硬い平面ではなく、柔かい写実的な肉づけが行われ、両瞼の脹らみや、頬への有機的な連絡もリアルに表現されている。こうした表現も飛鳥白鳳の仏像にはみられなかった造形である。また、眼窩縁に沿って眉の下側にほぼ半円を描き、眼頭(めがしら)に接して眼窩下縁の中ほどまで鏨で線を切っている。(註6)両眉もゆるやかな浅い弧を描いて、鏨が入れられているが、眉間のところで相寄りつつ自然に消えている。眉に鏨を入れることも、飛鳥・白鳳期にはみられないことで、この像の製作年次を考えるうえに留意すべき特徴のひとつである。
鼻の造形も柔かく丸みをもち、小鼻を豊かに、鼻孔面も硬い平面をなさず、正面から眺めると、その輪郭は豊かな三連弧を描いている。唇は上下とも輪郭に沿って縁をとり、これにも鏨を入れており、上唇中央の人中(にんちゅう)の下の唇の切れ込み部も、多くの白鳳彫刻のように薄い唇のわりに強い感じの鋭角的な富士山形を示さず、わずかに凹入する程度である。人中の稜線も白鳳仏ほど勁直な線ではない。むしろ外皮唇を豊かに盛上げて、頬の造形とともにリアルな表現を果している。
面相中、最も注目されるのは眼の表現である。切れ長の、いわゆる入定相の半眼で、正面からみると、上瞼は眼頭において少し下へカーヴするぐらいで、あとはほとんど直線に近く真直ぐ切れており、下瞼の線の方が眼頭を起点として一度軽く盛上って小さく凸曲(コンヴェクス)の弧をつくり、中ほどで大きく浅く、ゆるい凹曲(コンケイブ)の弧を描いて、尾を引くように眼尻へ向って上瞼と合している。上下双方の瞼の線が弧を描いている飛鳥仏の眼や、正面からみるとき下瞼の線が直線状にみえる白鳳仏の眼とは、その点が異なっていて、この違いもこの像の造立年次を考えるうえに留意すべき特徴のひとつである。眼頭にはいわゆる蒙古襞を明瞭につくり、両瞼の間には顔料で黒眼をあらわしている。
一方、耳は大きく、とくに耳朶を長くつくっているが、飛鳥仏のような平板な耳ではなく、耳殻の周縁は太めの紐状の縁どりで丸く輪郭をとり、耳朶の部分は、その紐状の縁がそのまま長く深いU字形に垂下して、縦に長い大きな環孔をつくっている。これも旧山田寺仏頭の耳の形式を一歩進めたものである。
頸は丸く、円満の相を示し、三道がはっきりあらわされており、頭部と胴との連絡も有機的で堂々としている。
頭部を含めた全体の印象は、身体各部の比率が、整った古典的調和を保ち、しかも有機的に均衡していることである。この点も飛鳥・白鳳期の仏像にはまだ感じられなかった特徴である。飛鳥時代の観念的な表現や、白鳳時代のいくつかの例にみられる幼児の容貌肢体を思わせるような、また実際にそのような身体比率をもった肉体の造形は、ここでは完全に止揚されて、肉体的にも内容的にも完成された成年の理想的な姿が、周到な自然観察(肉体観察)と写実的な形態賦与(造形)によって、見事に実現されている。体の奥行が立体的に正しく把握されているばかりでなく、肉体表面の複雑微妙な状態から、その変化に応ずる法衣の複雑な褶襞の状態まで、頭部の造形に劣らずきわめてリアルに表現している。この点も白鳳彫刻においては、まだこの像ほどの完璧さには達していなかった。胸から腹にかけての肉づけと、あるいは衣に包まれ、あるいは裸出した両腕の造形や、指を微妙に屈折させた両手のつくりなど、まことにリアルで、肉体・法衣の質感および量感の表出がとくに見事に達成され、肉体と法衣との関係も如実に表現されている。
なお、胸には仏の妙相である卍花文相(一〇・二×九・一cm)が、鍍金の上に顔料で描か れていた形跡が残っているが、このような例は現存の飛鳥・白鳳のものにはみられず、この像よりのちのものでは東大寺大仏の蓮弁毛彫りの釈迦像に初めて認められるものである。
さて、最後に背面をみると、側面観照も十分に行われ、奥行もリアルに把握され、丸彫り的に表現されているが、礼拝像として光背を背にして堂内に安置される像の通例として、背面の衣摺の表現はかなり省略されている。すなわち、両側に簡単な衣文を双曲線的に描いているだけで、中央部には衣文をまったくあらわしていない。
つぎに、この像の鋳造法を知るために、さらに子細に点検すると、かなり明瞭な亀裂線が諸所にみられ、また型持(かたもち)や象嵌る肉眼で随所にはっきりと認められる。(註7)亀裂線の中には、別鋳部分を鋳継いだ跡の亀裂と、鋳造の際の引き割れに起因する亀裂とがあるが、右上膊部のすぐ上のところと、手首にひとめぐりしている明瞭な亀裂線は前者の例である。一方、頸の部分に認められる細かい亀裂は、おそらく後者の例と思われるが、この部分に鋳継ぎが行われているのではないかという説(註8)もある。その点は、必ずしも明らかでないが、胎内を下から仰ぐと、頸口の周りに厚く銅の盛上っているのが認められ、その後方の内側に、小突起が見え、これがおそらくこの部分の鋳掛けの湯口(溶銅の注入口)であろうと思われる。冶金学の西村秀雄は『薬師寺国宝薬師三尊等修理工事報告書』(以下『修理報告書』という)の中で、胎内にはいって詳細な調査ができなかったから「もし将来なお徹底した調査がなされたなら、また異った判断がなされるかもしれぬが」と前置きして、「頭部と胴体と同時に鋳込まれたものかどうか明らかではない。アイソトープ写真で頸部の中央に線が入っているから、別でないかと判断されているが、肩から胸へかけてかけで修理の跡が残されていること、また背の方には斜めにかけの跡があることなどから考えて、薬師如来も鋳造のとき引け割れが甚だしく、それを修理し仕上げたとすると、頭部も同時に鋳込んだが、月光菩薩と同様に頸部で完全に引け割れしたのを、またかけで継ぎたしたとも考えられないことはない」と述べている。(註9)胎内所見をも考慮に入れ、旧山田寺仏頭の頭内頸口部の状況(註10)をも参考にして、その点を検討してみると、西村秀雄の推測を推したい。鋳造時の引き割れに起因する亀裂は、このほかにも認められるが(註11)、胎内では随所にはっきりと見られる。(註12)
一方、胎内所見で注目すべきことは、型持が胎内の内壁の面より一段低く凹入していて、しかもその中央に釘を造り出している点である。鋳成後その先端はすべて丁寧に切り落されているが、この銅板型持の中央に釘を造り出している形式は、東院堂聖観音像にもその例をみるが、おそらく旧山田寺仏頭の場合に、別個に使用されていた銅板型持と、笄と呼ぶ銅釘とを、ひとつにして兼用した形式のものであろう。銅板型持は、中型と外型と密着するのを防ぐ役目を果すためのものであるが、横に働く力に対しては弱く、したがって中型と外型が前後左右に膝行るのを防ぐために笄が外型から蜜蠟部(この部分が鋳造の際に溶銅と交替する)を通して中型まで打込まれるが、旧山田寺仏頭では、この両者が別個に併用されていた。そして旧山田寺仏頭の笄は、その蜜蠟の部分に当るところを一段厚く一巻きしたように太くつくり(この部分は「鉢巻」あるいは「帽子」とも呼ばれる)、蜜蠟に替って溶銅が流し込まれると、ちょうどその部分が銅の中に噛み込まれる仕組になっている。この絆の「鉢巻」部分と、銅板の方形型持を兼ね合せたような形式に進んだものが、本三尊にみられる釘を中央に造り出し方形銅板の型持の形式で、この形式のものは上下に働く力に対しても、横に働く力に対しても、強い効果をもつわけである。この点は、東院堂聖観音やこの三尊が、旧山田寺仏頭より技法的に一歩進んだ鋳造法になるものであることを物語っているものであろう。
つぎに、両膝前に拡がって、台座の前面に垂下する裳裾の部分をみると、台座の天板上に拡がる裳裾部の左膝頭から外方へ、ほぼ直線に走るかなり明瞭な亀裂が認められる。その亀裂は、裾が台座前面でほぼ直角に折れて垂下する、その折れ目とだいたい平行している。そこで、その亀裂から先の懸の部分と本体とは別鋳で、そのあたりで継鋳いでいるのではないかとみる説もあるが、右膝の方には、肉眼ではそれらしい鋳継ぎの線は識別できず、その部分の裏側や、台座の前面に垂下する垂直部分の裏面などを観察しても、鋳継ぎらしい痕跡はみえないので、上記の亀裂は鋳成時の引き割れに起因するものか、そののちにできた単なるであろうと思われる。この懸裳の垂直部分の裏面をみると、本体と異なって(胎内も中型土はおおかた綺麗に取除かれているが)、丁寧に研磨されていて、持の数も少くて上の方だけにみられ(中央部では上から三分の一ほどのところまで型持がある)、ほかの部分にはまったく認められない。型特の形式は本体の場合と同形式で、中央に銅を造り出したもので、その先端は切り落されている。
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