日本の場合は、元代から明代中期(一二七一-一五二一)まで、元代李郭派・明代南宋院体山水画風という二つの東アジア国際様式は行われた、二百五十年の中国山水画史の展開を踏まえつつ、ほぼ同時期の日本の鎌倉後期・南北朝・室町中期までの山水画史を概観することは、極めて困難である。鎌倉時代(一一九二-一三三三)や南北朝時代(一三三一-一三九一)、南北朝時代と重なう室町時代(一三三八-一五七三)初期には、絵卷などの画中画により、数多の大画面障屏山水画が制作されていたことが知られるものの(「図版 画中画:障子絵、壁貼付絵、腰貼付絵、杉戸・戸障子絵、屏風絵、衝立絵」、武田恒夫「中世障壁画とその画中画」『中世障壁画』京都国立博物館、一九六九年)、山水画それ自体として評価するに足る作例は、「山水屏風」(神護寺)など二、三の例外を除いて、現存しない。「山水屏風」それ自体も、元代李郭派・明代南宋院体山水画風とは何ら関わりのない、むしろ唐代の着色山水画に連なる古様な作例であり、いま本稿で言及すべき対象ではない。ただ、その中期には、鎌倉時代や南北朝時代、及び南北朝時代と重なる室町時代初期等とは異なり、山水画それ自体として評価するに足る作例が現存する。周文の伝称のある「四季山水図屏風(六曲一双)」(東京国立博物館)は、その伝称を有する数点の屏風のうちでも、南宋院体山水画の構図である「辺角の景」に最も忠実な作品であり、その皴法である斧劈皴は、僅かに前景の岩石の表現に用いるのみであるとはいえ、「辺角の景」で左右対称な絵画空間を構成するのは、画面の大小の相異はあれ、「四時八景図冊」に通じる。また、「竹斎読書図」(東京国立博物館)も、周文の伝称のある数点の詩画軸のうちでも、「辺角の景」をなし、最前景の岩石に斧劈皴が認められるから、両伝称作品が周文その人のものであるか否か別として、明代南宋院体山水画風を受容する作家と作品が、雪舟とその作品に先んじて存在していたことは疑いない。

室町中期の雪舟(一四二〇-一五〇六)の小品「秋冬山水図(二幅)」(東京国立博物館)と大作「四季山水図卷(山水長卷)」(毛利博物館)は、雪舟自身が遣明史の一員として入明し、明代南宋院山水画風の展開を担った宮廷画家の李在(?-一四二四-一四六八-?)に師事したため(雪舟「月翁周鏡等賛山水図 自題」一四九五年)、明代のそれの代表作である王諤「江閣遠眺図」(挿図9)のように、南宋時代のものと見紛うほどではないにせよ、朝鮮王朝・室町時代日本を通じて最も忠実に明代南宋院体山水画風に倣う作例であることは言を俟たない。いやむしろ、明代中国をも含めて、より忠実であり、最も忠実ではない狭間にその目標があったと解することができよう。明代南宋院体山水画風の頂点を極める王諤「江閣遠眺図」などより、忠実ではなく、自ら師と仰ぐ(伝)周文「四季山水図屏風(六曲一双)」などより、忠実な作品こそが、雪舟の目指したものであったのではないか。

「秋冬山水図(二幅)」や「四季山水図卷(山水長卷)」の皴法が、ともに斧劈皴系のものであるのに対して、「辺角の景」の定義を「前景を画面左右何れかの下隅に設定し、その他の部分には原則として中景や後景を設定せず、空間を大きく開く。設定する場合には、前景のある左右辺に接するよう行い、やはり空間を大きく開くのを基本とする」とした場合、辺角の景と認められる部分は、前者には存在しない。後者には、それに該当する部分がある。すなわち、全卷をほぼ四等分したうち、卷頭の三本の樹木から、船泊の前までの春景、船泊から大きく広がる水面、洞窟に対坐する二人の人物を経て、寺塔から山寺までを夏景、山寺や亭から、賑わう山市の始まりのところの旗亭までを秋景、山市の中心場面から、卷尾の画面上から下までを塞ぐ巨岩までを冬景とすると、卷頭、春景を開く三本の夏珪風の広葉樹(挿図20)や、春景中央やや後ろよりの馬遠風の双松のうち、向かって右側の松(挿図21)も、ともに辺角の景を形づくる素材となっており、互いに向かい合って、南宋院体の両巨匠の手法を折衷する本卷の制作意図を明示する表現となっている。また、夏景では、二人が対坐する洞窟の左に右辺を、寺塔の右に左辺を設定した仮定とすれば、典型的な辺角の景となる(挿図22)。それに対して、秋景・冬景では、春景・夏景が辺角の景を多様に用いるのに対して、ともに辺角の景は認められない。むしろ、人事が中心であり、秋景では、山寺と亭の間で揖礼を交わす二人の人物から、水面が広がるものの、水村や、帆と荷を下ろす船のある船泊を経て、アーチ式の石橋の上で語らう二人を眺めながら、山寺を迂回して、山市の旗亭に至る。冬景では、冒頭に五十人ほどの人が集う山市から、一山越えると、楼門を経て城郭が走り、城市の家屋の屋根や角楼が見えて、卷尾を遮る巨岩で終わる。

元代から明代中期(一二七一-一五二一)まで、元代李郭派・明代南宋院体山水画風という二つの東アジア国際様式が行われた、二百五十年の中国山水画史の展開を踏まえつつ、これまで行ってきたとおり、朝鮮王朝前期と室町中期の山水画に即して考察した場合、前者は元代李郭派と明代南宋院体山水画風の折衷様式を主軸として、中国山水画では行われなかった斬新な創造を行う。後者は明代南宋院体山水画風の受容を行いつつ、専ら文人高士を画中人物とする南宋院体山水画風では通常行われてはいない、山市の庶民や、楼門や城郭に囲まれた城市を画き出して、やはり、雪舟以前の中国山水画の現存作例には類例を見ない新たな創造を成し遂げる。

東アジア絵画史は、その点で、中国・韓国・日本の絵画史を「統合的に考察する」ことにより、本稿で例示した僅かな絵画史事例によっても、一国絵画史の寄せ集めで、到底、見出すことのできない知見が得られることが明らかである以上、その「統合的構築」は可能であり、実現しなければなるまい。ただ、極めて困難であるのは、文献・作品とも豊富に存在する中国絵画に比して、文献は数多伝存するものの(秦弘燮『韓国美術史資料集成』ソウル:一志社、一九八六-二〇〇三年)、絵画それ自体が余りにも僅かしか伝存しない韓国と、絵画それ自体は数多伝存するものの、絵画に関わる文献はそれほど多くは伝存しない(藤田経世『校刊美術史料 寺院篇』東京:中央公論美術出版、原著再版・三版、一九九九年。同氏他『校刊美術史料 続篇』校刊美術史料続編刊行会、一九八五年)日本の状況を顧みてみるだけでも、明らかである。必要であるは、絵画史料と文献史料とをともに透徹して見据えることのできる史観であり、そのことにより、「東アジア絵画史の統合的構築」は、絵画を中心とするヨーロッパ美術通史である、E.H.ゴンブリッチ『美術の物語』(東京:ファトドン、原著第十六版日本語版、二〇〇七年)のように、その根源的な提起に関わる困難を克服することができよう。美術の分野全体を含む東アジア美術史総体の統合的構築は、しかしながら、絵画史のみのそれよりも、さらに困難を極めるであろうことは、言を俟たない。ただ、工藝を含みつつ絵画・彫刻・建築を主体とするヨーロッパ美術通史である、H.W.ジャンソン『美術の歴史』(東京:美術出版社、原著第三版日本語版、一九九五年)が、版を重ねていることを思えば、「東アジア美術史の統合的構築」も、全く不可能なことではあるまい。

ただ、本稿は、洪教授の根源的な問いに対して、「東アジア美術史の統合的構築」への包括的・具体的提言を行い得たものではない。あくまでその可能性を確認した初歩的な段階に止まる。ヨーロッパ各地で次々に継起してきた変化に富む様式変遷に対応する軸を、中国という圧倒的な中心が存在してきた東アジア各地でも見出すことができるのか否か。「東アジア美術史の統合的構築」は、その点に懸かっていることは疑いない。
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