赤井達郎,《京都の美術史》,京都:思文閣,1989。
二 日本最初京都府画学校
博覧会と画学校
京都博覧会書画之会
明治六年(一八七三)のウィーン万国博への積極的な参加と、第二回京都博覧会における「書画之会」は、急速な近代化を迫られた京都美術・工芸界の姿を象徴するものであった。その前年七月、東京から大学南校の教師ゴットフリート=ワグネルがウィーン万国博に出品する美術工芸品選定のために入洛し、この年正月には京焼の製法書『陶器弁解』を著わした栗田の陶工円山青海の弟円山陸郎と、のち全国宝物取締局の臨時鑑査掛ともなった西陣の機織家五代伊達弥助らが政府の派遣使として京都を出発している。このとき、京都府からは清水・粟田の焼物、西陣の織物、漆器・銅器・袋物から御影堂の扇に至るまで出品され、円山・伊達らは万国博ののち伝習生としてヨーロッパ各地を回って実地研究をつんできた。
一方、同年暮れには佐倉常七らがリヨンで織物の技術を学んでジャカード・バッタンを伝え、京都府は河原町二条下ル一之船入町に織工場(明治十二年織殿と改称)を建てて佐倉らに新織法の教授にあたらせ、西陣織の近代化につとめた。また、翌々八年には密局付属として染殿を開設し、ストックホルムのアニリン工場などで新しい染色法を学んで帰った中村喜一郎を教師として招き、河原町蛸薬師に京染場を設けてその実験にあたらせている。ウィーン万国博での京都府出品の工芸品の好評は、工芸家たちに大きな自信をもたせるとともに輸出向けの工芸品の製作をうながし、伊藤陶山の栗田焼の改良、伊達弥助・川島甚兵衛らによる 西陣織の革新などをもたらした。さらに同博覧会での審査制度は翌七年の第三回京都博覧会にも採用され、第四回からは品評人が定められ、進歩・有功・妙技などの授賞制度もとられるようになり、京都の伝統的な工芸にとっても新しいページを開かせることとなった。
ウィーン博とほぼ同時に開かれた仙洞御所での第二回京都博覧会では、旧御門入口において清水・粟田焼の実演即売が行なわれ、花御殿跡においても空引など西陣織の実演がみられるなど第一回展にましてにぎや かなものとなったが、さらに在洛の画家五十名の席上揮毫はたいへんな評判となった。このとき招かれたの は東山書画展観のあとを受けて明治元年(一八六八)に結成された如雲社に集まる画家たちであり、四条派 の塩川文麟、円山派の鈴木百年の両大御所を筆頭に、文麟門から幸野楳嶺・野村文挙、百年門から久保田米僊・今尾景年、このほか森寛斎・中島来章・土佐光信、狩野派の鶴沢深真・原在泉・岸竹堂・望月玉泉、南画の中西耕石ら京都画壇あげての参加であった。塩川文麟はさきの安政御所造営にも活躍し、『平安画家評判記』では真上上吉九百両と評判され、四条派をひきいて如雲社の主宰者でもあった。播州藩士の家に生まれた鈴木百年は、父図書が天文に通じて土御門家に出入りしていたために公家との交際もあり、家格を誇って隠然たる勢力をはって文麟一門と対立しており、この確執は京都府画学校にまでもちこまれることとなった。
明治政府の新官僚たちは、幕末の漢学的素養を身につけ、絵画についても南画に心を寄せるものが多く、京都においても中西耕石・田能村直入を中心に谷口靄山・池田樵雲・巨勢小石らが時流に乗って活躍し、他の流派の画家たちの絵はほとんど評価されなかったという。錦小路東洞院の小料理屋に生まれた久保田米僊は明治初年の思い出として、当節さかんな南画に変わるのもいやになり、百枚で天保銭二枚の扇絵を描き、 当時いやしめられた貿易画や弁当持参で一日十五銭の陶器の絵を描きにいったと記している(『米僊画談』)。こうした生活の困窮はかけだしの米だけでなく、望月玉泉・今尾景年らも生活のために友禅染の下絵を描いている。このころ、西村総左衛門は友禅の図様を一新しようとして岸竹堂に絵を学んでおり、玉泉や景年らの友禅下絵が友禅染の改新にひと役かうことともなった。
京都府画学校
第二回いらい京都博覧会での席上揮毫、明治十年(一八七七)の東京における第一回内国勧業博覧会での楳嶺・文挙、洋画の田村宗立らの受賞など京都画壇もはなやかにみえたが、東京における工部美術学校(明治四年設立)や洋画の諸塾の隆盛にはくらべるべくもなく、新しい画壇の中心となるものが求められていた。米はそのころのようすを次のように語っている。
其の頃京都の絵画が非常に衰退して居ましたから、私と幸野楳嶺と計って画学校を起さうと思ひ、望月玉泉・巨勢小石など賛成して私が諸大家の所を説回ったが、全で今の壮士の様に擯斥されて一向賛成しないが、幸ひ其頃槇村の知事の時分で大層仕事好きで、西洋の事といふと喜ぶ人であったから、夫で西洋のことなど例にひいて説きつけた(『米僊画談』)。
米僊・楳嶺らの努力がみのり、南画の大家田能村直入が明治十一年八月、槇村知事に画学校設立の建議書を出し、翌九月玉泉・楳嶺・米・小石の四名が、再び画は百技の長であり「軍陣地理ヲ画シ兵配賦スル測量図面ヲ作り天地ノ経緯ヲ知ル」ことなど絵画の重要性をのべ、それはまさに「国家有益ノ業」であると強調し、京都御苑内に計画されている博覧会場に設置されるよう建議書を出した。なお、直入・楳嶺らが提出した「起画学校書」「建議書」には、教場などその構成案「画学校建築図」が付されており、それに よれば校内には、花樹にかこまれた「運動場」をはじめ「果樹園」「菜園」「花卉園」「養魚池」「蓮池」さらに「病室」まであり、東西南北の塾(教室)と「女塾」を設けるという、極めて整備された計画のあったことがうかがわれる。画学校に学んだ女性は上村松園以外あまり知られないが、計画案の中に特に女性の 教室をもうけているのが注目される。
この建議を受けた槇村知事は明治十二年(一八七九)正月府下に画学校設立の告諭を発し、十二月の末、河原町二条下ルにあった勧業場に陶工の清水六兵衛・錦光山宗兵衛、呉服商の下村源蔵、書籍商の村上勘兵衛、漆器商の西村彦太郎、友禅染商の西村総左衛門・内貴清兵衛、西陣の伊達弥助ら京都の代表的な商工人九十三名を招集して画学校設立のための寄付を訴えた。この年十一月には槇村知事が画学校創立を文部省に届け出ており、翌十三年六月には四十三名の画家が選ばれ、教員選挙会によって五名の副教員が決定し、七月一日京都御苑内の旧准后里御殿の仮校舎で開校式が行なわれた。画学校は定員八十名、一級より六級までに分かれ、一級を半年として修業年限三年、初代校長(摂理という)には長老田能村直入が任じられた。「京都府 画校規則」によれば画学を分かって四宗とし、「東宗(土佐派円山派等所謂大和絵派皆此ニル)、西宗(罫画油絵水画鉛筆画等皆此ニ入る)、南宗(所謂文人画)、北宗(雪舟派狩野派等皆ニ入ル)」と定められたが、実際には円山四条派を北宗として次のような教員が選ばれた。
東宗(土佐・大和絵) 望月玉泉
西宗(洋画) 小山三造
南宗(文人画) 谷口靄山
北宗(円山・四条派) 鈴木百年 幸野楳嶺
京都画壇がこぞって協力し、太政大臣の三条実美が「日本最初京都府画学校」と讃えた画学校も、見方を変えれば各派の寄り合いであり、北宗担当の鈴木百年は開校半月ばかりで辞任し、楳嶺も一年足らずで百年の子鈴木松年にその席を譲り、南宗・西宗においても一年間ほどで教員の辞任がおこり、池田樵雲・田村宗 立がそのあとを継ぐという激しい人事の移動が続いた。
明治十五年(一八八二)十月の暴風によって破損した画学校は織殿に移り、さらに十八年にはその南隣りの勧業場跡へ移転した。二十年小学校を卒業して一月画学校北宗に入学した上村松園はその頃の思い出を次のように記している。
当時、校舎は今の京都ホテルのところにありまして、その周囲はひろい空地で、いちめんに花畠になっ内していました。それで花屋が学校の前にありましたので、よく写生の花を買ったり、買わずに、じかに花畠へ行って写生したりしたものです。
最初は一枝ものと言って、椿や梅や木蓮などの花を描いた八つ折の唐紙二十五枚綴りのお手本を渡されると、それを手本として描いた絵を、それぞれの先生の許へ差し出します、それを先生に直していただいて、さらにもう一度清書し、二十五枚全部試験に通りますと、六級から五級に進むのです(『青眉抄』)。
なお、松園が画学校に学んだのは一年ばかりで、明治二十一年規則の改正によって応用科の置かれたことに反対して辞任した鈴木松年とともに退学し、松年塾に学び、のち楳嶺・竹内栖鳳の門下となった。
田村宗立と画学校西宗
川上冬崖の聴香読画館、高橋由一の天絵楼、さらには工部美術学校など東京の洋画に対し、京都では幕末ほとんど独学で洋風画を描いた田村宗立ひとりというさみしさであった。宗立は京都博覧会、第一回内国勧業博覧会に出品し、ほそぼそとその洋風画を守っていたが、明治十二年東山雙林寺の文阿弥で洋画展の開かれたときには「下鴨神社」「洋童ノ図」など一挙に十六点の作品を並べ、翌年画学校設立にあたってはその出仕に選ばれている。画学校は望月玉泉らの建議書に「洋画流漢画流皆混一シテ」とあるが、これは文阿弥の洋画展に「嵐山夏景」などを出品した米の意見をいれたものと考えられ、開校にあたっては工部大学校で洋画を習ったという小山三造が西宗の教師に任命された。一年ばかりで小山が辞任したあと宗立が西宗を受けもつが、このころ、各宗定員二十名に対し西宗だけは四、五十名にもおよんだといわれ、原熊太郎(号撫松)・伊藤快彦・三輪大三郎らが学んだ。
伊藤は若王子の神主の家に生まれ、博覧会(文阿弥の洋画展のことと考えられる)で高橋由一の「鮭図」に感心して其傍を離れることができなかったといい、宗立の門に学んでのち画学校を経て上京し、小山正太郎の不同舎、原田直次郎の鐘美館に学んで明治二十五年(一八九二)帰京し、のち関西美術院の教師ともなった(黒田天外『一家一彩録』)。伊藤と同じ明治二十一年画学校を卒業した三輪も不同舎に学び、一時郷里の新潟県に帰ったがのち再び京都に出て日本画に転じた。画学校と関係はなかったが、二十年代の洋画家に守住勇魚がいた。彼は明治初年大阪の住吉派で知られた貫魚(つらな)の子として生まれ、はやく東京に出て国沢新九郎の彰技堂に学び、工部美術学校でフォンタネジの教えを受け、小山正太郎・浅井忠らと十一字会の結成に参加している。明治二十四年京都に移りすみ、第三高等学校・同志社で図画を教えていた。
画学校西宗は明治十八年七月、従来の四宗に加えて石版科を置くなど積極策もみえたが、創立以来西宗のために尽力した宗立が辞任したことによって急速に衰退していった。宗立の辞任は画学校が市の所管に移るための校則変更にあったらしく、明治二十二年十二月京都市画学校となる前に辞任し、後任には工部美術学校出身の疋田敬蔵が迎えられた。しかし、疋田の在任はわずか七カヵ月ばかりで、その後任者もなく西宗はこれをもって事実上の廃止となった。なお、宗立の辞任にあたって生徒の同盟休校があり、宗立は祇園下河原に私塾明治画学館を建てたがあまり振るわなかったようである。
京都青年絵画研究会
画学校は西陣の図案ひきや清水焼の絵付けの工人の子弟も多く、専門の画家を育てるよりも伝統的な技術を伝授することに重きが置かれた。上村松園がのちに「熱のあるもえ上るような芸術家が生まれたり、また生命のある芸術作品の生みだされることもまれで、当時画学校卒業生のなかか後に名をあげた人は殆どありません」と回想しているとおりであった。しかし、いっぽうでは私塾に学ぶ若い画家たちがあり、彼らは明治十九年六月フェノロサの入洛を契機にめざましい活躍をみせてきた。フェノロサは古社寺の宝物調査のため明治十七年六月と十九年六月に入洛し、ともに祇園中村楼で講演してい る。前回のときフェノロサは幸野楳嶺・竹内栖鳳の画室をたずねており、次回の講演は若い画家たちに大きな刺激を与えた。フェノロサは明治十七年ビゲローの協力によって岡倉天心らと結成した鑑画会を例にとり、「一昨年来東京に於て美術の革命とも云ひうべき改良の議」がおこったとのべ、「京都の画家一眠り未だ覚めず、新美術の工夫も凝らず、又一つの目的を立てて如何して之に達すべき方法を求めざるものの如し」、「諸君、今日は許せよ、余はこの論に於ては十分に直言すべし、今日は逡巡する時期に非ず、黙して古来の風習に従ふ時に非ざればなり、今や美術を改良すべき時期なり、これが進歩を謀らざれば他の改良家に圧倒せられ頑固なる画家は消滅すべし、勉めざるべからず」(『日出』明治一九・六・一三~一九)と若い画家たちに奮起をうながした。
フェノロサの講演に刺激された若い画家たちは、新しい研究団体の結成をはかり、八月には寛斎を会長に、楳嶺を副会長にいただき京都青年絵画研究会を興した。規約によれば会員は三十歳以下の青年画家に限られ、春秋二回の展覧会を開くことを定めており、『京都日出新聞』が「此会の創立は尤も美すべき挙にし京都美術の元気を興起する一路」と評しているように、その運動の方針も確立していなかったが、近代京都美術の新しい芸術運動のさきがけとして注目してよかろう。
京都青年絵画研究会はわずか一回の展覧会で終わってしまったが、このときに蒔かれた種はさまざまな芽をふきだし、明治後半の京都画壇の出発を告げる狼煙(のろし)でもあった。明治二十一年楳嶺門の竹内栖鳳・谷口香嶠(こうきょう)、米僊門の岡本橘仙ら青年画家たちは煥美協会を設立し、東京の『絵画叢誌』に対する『美術叢誌』の刊行をはじめ、さらに明治二十四年(一八九一)栖鳳・香嶠を中心に北垣国道を会頭として京都青年絵画共進会を興した。この年の六月博覧会場で開催された第一回展では一等栖鳳、二等菊池芳文・山元春拳・谷口香嶠ら、三等上村松園・田中月耕ら明治末から大正にかけて京都画壇の中心となった画家たちの勢揃いの感がある。なお、この会のあと審査委員は褒賞に対する不満に答えるため諮問会を開いて青年画家たちの質問に答えており、いかにも若々しい雰囲気が感じられる。
この研究会、共進会は米僊・楳嶺らの後援によるところもあったが、その推進力は栖鳳にあり、栖鳳の画風のあたえる影響も大きかった。明治二十五年の京都市美術工芸展の一、二等賞は清風吉平・飯田新七・西村彦兵衛・秦蔵六・伊東陶山・下村正太郎ら陶器・漆器・染織の工芸家たちに占められ、絵画はすべて三等銅牌となったが、その評判は栖鳳の「猫児負暄(びょうじふけん)」に集まり、『京都日出新聞』は「骨格毛状円山の風なるが、之に添ふるに狩野の鋭岩、景文の草花を以てす。一幅中に三派の筆意を備ふ。ブチ毀しに曰く、是れ鵺派(ぬえは)なりと。賛する者曰く、是れ一派を起す遠因なりと。褒貶の説、観者中に噴々たり」と評し「鵺派」は一時京都の話題を呼んだ。当時東京にあったフェノロサはこうした栖鳳らの動きを好ましいものと感じていたらしのち『東亜美術史綱』において明治後半の京都画壇を次のようにのべている。
久保田米僊は亜米利加に知人多し。文麟の最良門人にして又中島来章の門人なる楳嶺は、著色したる花卉の印本に因り全世界に知らる。楳嶺は京都に於て数年間余の親友なりき(中略)、五代目の応挙門人に付きて大家と称すべき者僅に一人あり、尚は青年なり、竹内栖鳳と云ふ。楳嶺門人にして、京都美術学校の最も成功せる教授なり。
京都美術協会と如雲社
こうした青年画家の若々しい動きに対し、いわゆる大家たちの方でも京都美術協会が結成され、如雲社も着実な歩みを続けていた。米僊と楳嶺は栖鳳たちの会を後援するかたわら、東京における日本美術協会のようなさらにひろい画家の結集をはかるため、京都美術協会の設立を目指し、明治二十三年(一八九〇)正月建仁寺方丈においてその発会式を挙行した。この会は北垣国道を会頭に西村総左衛門らに評議員を委嘱し、「衆知ヲ湊(あつ)メ群思ヲ合セ以テ実業家ト評論家ト相協力シテ」京都の美術を育成しようとするもので、十月にはのち『京都美術協会雑誌』として明治三十八年まで続く『京都美術雑誌』が刊行された。
第二回京都博覧会の席上揮毫を主宰した如雲社は、明治十年その中心人物塩川文麟を失ない、森寛斎がその跡を継ぐこととなった。如雲社はもともと京都画壇各派の親睦・研究会という性格をもち、その名のように、雲の如く集まり雲の如く散る団体であり、寛斎が主宰するようになると彼の風雅な生活態度もあって特別の主張とてはなかったが、京都画壇のまとまりのよさをみせた(『森寛斎日記』)。しかし、明治二十七年六 月寛斎が没すると、はやくも翌七月の例会(毎月十一日裏寺町妙心寺で行なう)には如雲社改革案が出されて栖鳳・香嶠・今尾景年・山元春挙らが委員となり、翌二十八年の暮れにはその名も後素協会とすることが決議され、二十九年正月市の議事堂において発会式を挙げ、全国絵画共進会を主催するなどはなばなしい活躍をみせた。いっぽう、寛斎いらいの風雅の会としての如雲社を守ろうとする国井応文らは、明治二十九年後素如雲社を興したが、京都画壇への影響力はほとんどみられなかった。
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