close

赤井達郎,《京都の美術史》,京都:思文閣,1989。

洋風画の胎動

凹凸堂中屋伊三郎から玄々堂松田保居を経て、幕末の京都では銅版画がめざましい発展をみせたが、洋風画はあまり発展しなかった。二代玄々堂緑山は東京に移って油絵を描いており、東京では安政二年(一八五五)幕府の設けた洋画所、のち蕃書調所・開成所において、川上冬崖・高橋由一らが活躍し、いくつかの洋画の私塾もできているのに対し、幕末から明治にかけての京都では本格的な洋風画の筆をとるものが極めて少なく、田村宗立を数えるのみである。

しかし、京都の人々が洋風画をまったく知らなかったわけではなく、今宮神社には長崎の洋風画家若杉五十八の「紅毛船図」の絵馬がかかげられ、司馬江漢も京都においていくつかの絵を描いている。すこし時代はさかのぼるが江漢の『西遊日記』をみることとしよう。江漢は天明八年(一七八八)四月洋画修業のため江戸をたち、諸方でのぞき眼鏡、蠟画と呼ばれた油絵、自製の銅版画などを見せ、地方の好事な人びとを喜ばせている。翌寛政元年三月長崎からの帰途、京都に立寄ったときも「頗(すこぶ)るおらんだを好む」荻野左衛門ら にあたたかく迎えられ、蘭説を話したり、四条丸屋でビードロ板の吹き方などを教えている。絵は得意の洋風の富士山やいくつかの肖像画・扇面などを描き、閑院の宮には、自作の銅版江戸八景をのぞき眼鏡で見せたりしている。なお、こののぞき眼鏡の箱は、数日前に京都であつらえたものであるが、京都には円山応挙いらいの眼鏡絵の伝統があり、容易に作ることができたのであろう。江漢は文化九年(一八一二)にも入洛し、このときの京都における行動はわからないが、四月から十一月まで滞在しており、洋風画を描くことも 少なくなかったと考えられる。

今宮神社の二艘の帆船を描く「紅毛船図」には W. S. Jesofatie のサインがみられ、江漢が長崎を訪れた ころ、長崎会所の請払役で洋風画を描いていた若杉五十八の作品であることが知られる。額板の裏には、「寛政三歳辛亥五月 奉納 中川氏」という墨書があり、この中川氏は若杉五十八の義弟にあたる医師栗崎道意に学んだ島原角屋の中川道哲であろうとされている。今宮神社では寛政三年(一七九一)絵馬堂が造営されており、その記念として中川道哲が奉納したものと考えられる。司馬江漢や若杉五十八の洋風画は京都の人々の目にも新奇なものとして写ったであろうが、京都には平明な写生を基調とする円山・四条派があ江漢らの画風は好まれず、またそれを学ぶものもなく、洋風画は京都を通り過ぎていった。

田村宗立

若杉五十八の絵が今宮神社に奉納されて約半世紀ののち、江戸の洋風画とはほとんど関係なく、田村宗立によって独自の洋風画が芽生えてきた。宗立は弘化三年(一八四六)丹波国園部近在で生まれ、三歳のとき一時京都にすんだがまもなく亀岡に移り、十歳のとき父に従って再び上洛した。はじめ当時さかんであった南画を学んだが、六角堂能満院の画僧大願和尚のもとで得度し、直接には兄弟子大成房憲理に仏画の手ほどきを受けた。仏画を学んだ宗立が洋風画に転じたのは、文久年中(一八六一~六四)、誓願寺境内で行なわれていたからくり眼鏡や写真を見て、その迫真的な画面に触発されたからであるという。このときの思い出を晩年次のように語っている。

真物に見へる画といふは、どんなことを描いたものやろうと、頗りに苦しんでおりました(中略)。十七八歳の時に、初めて写真を見まして、大層驚ろきました。之こそかねて思ふておる、真物と見へる画であるが、これは如何にして描いたものであろうか。其方法はどうであろうかと、蛸薬師の御幸町に居りました眼鏡屋の主人に聞きますと、其主人の云ひますには、之は描たものでない、これは写真といふて、鏡と薬品の力でこしらへるものだと云ひますから成程鏡で写して、薬品で止るのは巧みなものだ、どうかしてこういふ風に描きたいと思ひました(黒田天外『名家歴訪録』)。

「応挙の写生をみても一向である」と感ずる宗立は、写生をして真物違わぬように描くよりほかに手本はあるまい、と写生を始めた。いま田村家にのこる写生帳は、文久元年三月から元治元年(一八六四)三月、十六歳から十九歳までのもので、蜘蛛・柘榴・しめじ・くわい・鳩などを克明に描いている。この計四十二図の写生画はほとんど着色画であり、物の影がはっきりと描きこまれ、蜜柑図には皮のむきかけのもの、皮、中の袋とそれぞれの特色を客観的に描くという、極めて即物的な態度がみられる。また、西瓜図には「六月十六日 下鴨村より 雨乞御礼 西瓜二つ 其一今真写」と六角堂能満院での生活がにじみでている。師大願は真言の僧として雨乞の祈禱をよくしたといい、宗立の弟子伊藤快彦は、「田村自身モ後ニハ師ノロ伝ヲ承ケテ雨ヲ降シタリ雪ヲ封シタリ」(『京都洋画壇ノ今昔』)することがあったという。写生帳は応挙・呉春らにもあるが、その着実な写生の態度とその生活の一端をかいまみせるなど、前者とは質的にことなるものである。

元治元年(一八六四)五月父を失ない、ついで坊の六角堂能満院の焼失、師大願の死など不幸が続き、宗立は御室の尊寿院、大願の兼帯していた連光院、八坂下河原の七観音堂などを転々としていたらしい。西洋画を学ぶには英語が必要であると感じた宗立は、明治三年(一八七〇)十月、勧業場内に設立された欧学舎支舎英学校に入学し、アメリカ人チャールズ・ボールドウィンについて英語を修め、翌々年十一月開業した粟田の療病院に勤め、解剖図や教材用の掛図などを描くかたわら、雇医教師ドイツ人ヨンケル・フォン・ランゲッグから油絵の手ほどきを受けた。その頃「絵入ロンドン・ニュース」の画報通信員であったチャー ルス・ワーグマンが横浜にいることを聞き、おもむいて教えを受け、高橋由一・五姓田義松・山本芳翠らとも交わり、一年ほどで帰洛し、洋画家として立つことを決意した。

東京ではすでに明治二年川上冬崖の洋画塾聴香読画館が開かれ、同六年には高橋由一の天絵楼も開かれるというように洋画は着々とその地歩を固めていたが、京都には油絵具を売る店もなく、宗立の苦労はたいへ んなものであった。伊藤快彦によれば宗立は蘭画家がしたように岩絵具を油で練り、油紙でチューブを作っていたという(『田村宗立翁の回想』)。明治五年から京都博覧会が開かれるようになるとそれにしばしば出品してその名が認められ、明治十二年十一月、東山雙林寺の文阿弥で油絵・水彩などの洋画展覧会が開かれたときには、高橋由一・横山松三郎・五姓田義松らとともに「不二川暁色の図」「洋童の図」「東京九段坂灯台」など十六点を出品した。なお、このとき久保田米僊も「嵐山夏景」「楠公読書の図」など十五点を出品していることが注目される。米僊は、のち当時を回想し、「京都では田村宗立、大坂で鈴木雷斎らは自立の油絵書になり、私も横山(松三郎・陸軍省雇の写真技師でもあった)に就いて油絵の研究をしたこともある。随分当時困難で西洋紙抔(など)もなかった」(『米僊画談』)と述べているように、一時洋画を学んだが、のちは専ら日本画を描いている。宗立はそののち京都府画学校の教諭となり、在職八年余、原熊太郎、伊藤快彦ら多くの画家を育成した。

 

arrow
arrow
    創作者介紹

    秋風起 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()