《天平‧奈良》,朝日新聞社,1973。
長広敏雄
(東大寺第三次大佛殿模型)
大仏造顕を宣言
その詔勅の中でこんなことを言っております。盧舎那の金銅──金銅というのは銅でつくって金を塗るわけです。これは前からあるわけですけれども、「毘盧舎那の金銅の像一軀を造り奉る。」そして「国の銅を尽くして尊像を鋳(い)」、日本中にある銅を全部集めて、それを溶かして金銅仏をつくり、大きい山を削って、そしてそこに寺をつくる。大きい山というのは、若草山のほうから山がずうっと伸びておったのを言うのです。手向山神社をへて二月堂の西のほうに行きますと、東大寺の東のところでガサッと一遍落差がついているのです。ああいうふうに、あそこのところの山をわざわざ切って、大きな山を削って、もって堂を構える。そして「天下の富をたもつものは朕なり。」これは確かに国家主義と言いますか、国を統一している主権者の言葉ですね。「天下の富を持つものは朕なり、天下の勢をたもつものは朕なり。この富と勢をもって尊像をつくる。」こういう宣言です。非常に思い切った宣言を発するわけです。これが天平十五年のことであ ります。
しかし、こういう宣言は発しましたけれども、日本中の銅を集めることはなかなか容易ではない。そして大仏の大きさは、昔流に申しますと五丈三尺五寸です。大体十六メートルぐらいになりましょうか。十六メートルぐらいの大きな大仏そのものを、全部青銅でつくるという考えです。当時の 日本の銅の産出は砂金みたいなものを集めるのですから、これはたいへんなことになるわけです。ですから天平十五年にこういう詔勅を発しましたけれども、これを実現することはたいへんなことです。
しかも宣言したころは、聖武天皇は奈良にいないで、恭仁宮だとか、あるいは滋賀県の紫香楽なんかへ行っているわけです。最初に大仏を、滋賀県の紫香楽の宮に甲賀寺を建て、その地でつくろうと考えた。奈良に金光明寺があるにもかかわらず、そこじゃなくて、滋賀県でつくろうとする。これも何か政治的理由があるのだろうと思います。しかし、それをつくろうと考えたんだけれども、途中で放棄してしまう。そして天平十七年という年に、いよいよ奈良でつくるということに決定す るわけです。つまり、奈良にあります金光明寺を拡大して、そこに大仏をつくろうといよいよ決心する。決心しますけれども、なかなか急には出来ませんで、結局、天平十九年にやっと銅が集まりまして、大仏の鋳造が始まることになります。天平十九年が開始です。
多くの文献は、この時にもう大仏殿が出来ているように書いていますけれども、そんなことは考えられませんので、大仏殿という建築は、大仏が出来てしまわなければおそらくつくらなかったと思いますから、最初は大仏をつくることにかかったわけです。そしてこれがつくり終わりますまでに約三年かかっている。三年目というのは天平感宝元年です。この年にちょうど奥州で黄金が出たというのでそれを献上している。大仏に塗る金が出たので非常にめでたいというので、宝が出たことに感じるという天平感宝の年号に改元するわけです。
しかし金が出たと申しましても、十六メートルあるものを全部塗るというのだから、とてもその時には完成しておらない。今日の学者の見解では、あれに金を塗るのは、それから三年たった天平勝宝四年、西暦七五二年になって、ここで金を塗ることを始めたと思われる。ですから、つくった時なんかはとても金を塗るどころじゃなくて、胴体の部分とか、あるいは手の部分、頭の部分、頭の上でも螺髪(らほつ)と言いまして、頭髪の縮れ、あんな髪をいちいち銅を溶かして鋳るわけですから、こういうことをやって三年間かかるわけですね。その上に、またそれに金を塗って行く。おそらく金を塗り始めて行った段階、大体の形が出来たと思われる時点、すなわち天平勝宝四年の四月九日という日に、いわゆる開眼供養が行なわれます。
大仏開眼
この時は、聖武天皇は位を自分の娘である孝謙天皇に譲ってしまっているわけですから、聖武上皇という形ですね。光明皇后も皇太后になっています。そういう全部の人々が集まり、たくさんのお坊さんたちも集まって大々的な供養をやる。
しかし、今からの想像でございますけれども、現在東大寺にまいりますと、大仏は非常に高い台座の上に載っているわけです。この台座は先につくったか、あとにつくったか。今の学者の説では、いろんな文献から見まして、開眼供養があったあとから台座をつくったように言われております。台座もいちいち鋳造するわけですから、これが天平勝宝四年からまた四年ぐらいかかっている。そしてまたそのあとに、仏像の後ろには必ず光背というものがなきゃなりません。これをつくるのに、そのあとまたずいぶん長い歳月がかかっている。記録のほうから見ますと、こういうものがひと揃い揃って、そうして大仏の横には脇侍立像もありましたし、そのまたぐるりには四天王の像もあった。大仏殿に揃っていた仏像全部が出来上がってしまうのに、二十六年ぐらいかかっているだろうというふうに学者たちは推定しているわけです。
ですから、普通に言います大仏開眼の時にいっさいが出来たというんじゃない。とんでもない。それでいっさいが出来るなんていうほど労働力があるわけでございませんから、その時には、まだ金も何も塗らない大仏の大体のお姿があったというぐらいにしか考えられない。そういう大仏一体をつくるのでも、たいへんな、日本とすれば最高の技術を結集してやったということです。
記録によりますと、これに要した銅の分量は今のどれぐらいのグラムになるか見当がつきませんけれども、七十三万九千五百六十斤の銅が要った。その他、単なる銅だけでは出来ませんから、銅に錫をまぜる、あるいは上に金を塗るというようなことを入れますと、まだまだこの数字がふえるわけです。そして大仏の後ろの光背の高さは約三十五メートル、十一丈四尺の高さであったということが言われています。
こういうふうな大工事を、一体だれが監督してやったか。天皇は命令したかもしれませんけれども、技術者がいなければ出来ないわけであります。記録によりますと、これをつくるために国家機関として造東大寺司(ぞうとうだいじのつかさ)、今の言葉で言えば、東大寺をつくるための一種の建設省のようなものが出来た。そこの次官になったのは国中連君麻呂(くになかのむらじきみまろ)という人です。この国中君麻呂が大仏の実際の彫刻家、つまり、彫刻家と言っても、全部の総監督のような人であったということが言われている。ここで注意しなきゃならないのは、この国中連君麻呂という人の祖先は、三代前、おじいさんの時に朝鮮半島の百済国からやって来た。百済の出身者。おそらく、この時代から六十年ぐらい前に朝鮮半島から日本にやって来た。この国中連君麻呂は、文献に書いてあるのに、「すこぶる巧思(こうし)あり。」漢文でよく言う言葉でありますけれども、たいへんに都合のいい言葉ですね。巧思ありというのは、今の言葉で言えば、非常に器用だということかもしれません。しかし器用だといっても、テレビやラジオの修繕が出来るという程度のことじゃなくて、彫刻の専門技術まで出来るというふうな意味だろうと思います。この人は実際にそういう技術的なことのよく出来る人であったらしい。聖武天皇が大仏をつくれと いう命令を出しても、はじめは鋳工たちのだれも引き受け手がなかったのが、国中連君麻呂が引 き受けて、それではやりましょう、ということで率先してやったのです。この人は、そういうわけで最初はあまり名前も知られなかったんですけれども、この東大寺の大仏をりっぱに成功させたということから、なくなった時には従四位の位をもらった。そういう隠れた人がいたということです。
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