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《天平‧奈良》,朝日新聞社,1973。

長広敏雄

国分寺と国分尼寺

そうしておりますうちに、聖武天皇は全国に国分寺および国分尼寺を天平十三年に設置しようということを詔勅で宣言するのです。これは宣言したからといって、必ずしも全国いっせいに国分寺、国分尼寺がその時出来たというわけじゃありません。いなかではそれほど財力がありませんし、いろんな災害もありましたから、なかなか急には出来ません。ですから天平十三 年という年に、そういう宣言がなされたというふうにお汲み取りを願いたい。

その時、聖武天皇は詔勅の中で、自分はこの際、この「金光明経」を金字でもって写経して発願するということを言っている。国分寺、男のお坊さんのいるほうは金光明四天王護国寺という名前。つまり四方(東西南北)に四天王がいて国を守るという寺の名前。国分尼寺、尼さんのいるほうは法華滅罪寺(ほっけめつざいのてら)と言いました。法華滅罪寺というのは、「金光明経」と同時に「法華経」も非常に古く、これは聖徳太子のころから盛んに読誦されているお経でありまして、それによって法華滅罪寺とするということを宣言するわけです。

地方における国分寺、国分尼寺は、これから何年かたってからやっと建立が始まるわけですけれども、肝心の中央の大和政府のある大和国においては、いつ出来たかというのは、なかなかはっきりわからないんです。おそらくこの詔勅の出た翌年、天平十四年から十五年ぐらいに創建されたのではなかろうかと考えるわけであります。その大倭の金光明寺、つまり大和の国分寺はどこである かということは、これもいろいろ議論がありますが、前回に申しました、東大寺の東に残っている 現在の三月堂を含んだ、それまでにあった金鐘寺が金光明寺に相当すると思われます。つまり、漠然と申しますと、今の東大寺のあったところの一部分に、この金光明寺がつくられ始めるというこ とになるのです。

さて、国分寺を一応つくる計画を立てたわけでありますけれども、実際の聖武天皇の心境は、かなり政治家としては動揺しておったと思われる。というのは、国分寺創建を宣言した時には、平城京、奈良の都にいないで、今の木津川の木津という駅の上流のところに恭仁宮(くにのみや)という都を造営して、そこに都を持とうとしていると同時に、この恭仁の都にいる間に、今の滋賀県の紫香楽(しがらき)に宮を建て、また甲賀寺という寺をつくろうとする。近江と恭仁、こういう両方に宮城をつくろうということを考える。そうかと思うと、今の大阪に難波京をつくろうとする。これがみんな、さっきの国分寺という詔勅を出したあとの二、三年のことであります。ですから恭仁の都にいたいと思ったり、あるいは近江の紫香楽にいたいと思ったり、あるいは難波にいたいと思ったり、奈良の平城京をほっといて、あちこちに都を遷して、どこかほかのところにおりたいというふうな、たいへん動揺しているんですね。そして最後に、一体どこを都に決めたらいいかということを臣民に質問するわけです。みんなからやはり平城京、奈良の都のほうがいいという返事が返って来る。そこでこういう案を全部捨ててしまって、また平城京へ都を返すというふうな政治的動揺があります。

その間にいろんなお坊さんの知恵も働くわけでありますけれども、主として後の東大寺を興した 有名なお坊さんの良弁(ろうべん)というお坊さん、良弁は大体金鐘寺にいまして、その時に、朝鮮の新羅の審祥(しんじょう)というたいへん偉いお坊さんを招いて、金鐘寺におきまして「華厳(けごん)経」の講座を開くのであります。審祥という新羅のお坊さんは、中国に渡って、長安の都で「華厳経」のいちばんのもとの賢首(けんしゅ)大師につきまして、「華厳経」をすっかりマスターいたしまして、そしてちょうど日本に来ておったということです。そういう非常に偉い華厳宗のほうの審祥を招いて、良弁が講義をしてもらう。天皇以下、宮中の公卿なんか、みんな講義を聞くわけです。 そして「華厳経」が、当時のいろんな仏教経典の中で最高の教えであるということを吹き込まれるわけです。

【引用】天平の美術-8

(東大寺盧舎那仏)

華厳経と盧舎那仏

そこで「華厳経」とはどういうお経かと申しますと、一体お釈迦さんの始めた仏教は、とくに「大乗経」では非常にたくさんのお経がありまして、一種の哲学、仏教哲学はたいへんむずかしゅうございます。その仏ということはたった一つでございますけれども、その解釈によっていろいろのお経が出来るわけですね。最後に、そういういろいろのお経を総まとめにしたような、非常に複雑だけれども、全部をまとめてしまったような形のものが、この「華厳経」というお経だというのです。これは結局、いちばん中心になる太陽のような仏がいる。この太陽のような仏というのを毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)という。後に奈良の大仏の形になる毘盧舎那仏(盧舎那仏)です。その仏はあらゆる仏を全部統一した仏である。ですから、この中心の毘盧舎那仏という一つの仏からたくさんの光が出て、あちこちにいろんな仏がいても、それはみんな毘盧舎那仏に統一されているものだという考えですね。それを述べたのが「華厳経」。簡単に申し上げますと、そういうことになるわけです。

これが中国ではこの時代、八世紀のはじめごろに非常に評判になったのです。なぜ評判になるかというと、中国の歴史事情も申さなければなりませんけれども、その当時、中国では則天武后という女性の皇帝がいまして、この皇帝は非常に神秘的な、そして女性としては珍しいぐらい強力な政治家でありまして、仏教の非常な崇拝者である。この人が、自分は女性だけれども、仏が地上にあらわれた形であるということを堅く信じているわけです。自分が仏の生まれ変わりであり、同時に 自分が広い中国を統一しているんだ、というふうに信じている。そこへもって来て、この「華厳経」は一つの毘盧舎那仏という中心にあらゆるものが統一されて、いろんな仏はこの中心で握られているというような思想がぴったりするわけです。だから仏の世界においては毘盧舎那仏、地上においては則天武后、自分であるというふうな考えから、「華厳経」を非常に保護するわけです。賢首大師など華厳宗の偉いお坊さんたちが保護を受けていた。その思想を受け継いだ審祥という僧が 出て、そしてこの僧がたまたま日本に来たということになるわけですね。

日本の側はどうかと申しますと、結局大和朝廷が中心にあって、日本全体を律令国家として統一する。その統一する天皇自身は仏教が信仰のいちばん中心になっている。それならば大和朝廷の帝都にいちばんりっぱな毘盧舎那仏をつくって、それの分かれとして全国に国分寺というものがあれば、それはちょうど合うじゃないか、「華厳経」の言うとおりじゃないかということを、さっき申しました良弁が金鐘寺という寺で開きました講義の席で説教する。聖武天皇、その他の貴族や朝臣がその思想に感化されるわけです。そこで聖武天皇は、とにかく毘盧舎那仏をつくりたい、さっきの「金光明経」のようなこともみんなこの仏の中心である毘盧舎那仏の中にはいってしまうということで毘盧舎那仏をつくるという発想になるわけです。

なぜ、ああいう大仏をつくる発想に今度は変わるかと申しますと、これもやはり七世紀末の中国の情況に関係がありましょう。則天武后という女帝の決めた都は洛陽ですが、則天武后は洛陽のことを神都と名付けております。洛陽の郊外に竜門石窟というのがございますけれども、そこに非常に大きな毘盧舎那仏をつくりました。これは現在でも残っておりますけれども、非常に大きな、奈 良の大仏ぐらいの大きさで、崖に彫り出したもので、造立は西暦六七五年です。そういう大仏が中 国でつくられているという情報が、おそらく審祥というようなお坊さんたちによってもたらされたんだと思います。そこで、帝都に盧舎那大仏をつくるならば、それで国家的で仏教的な統一の実績が上がるということを聖武天皇は考えていただろうと思うのです。大仏造顕の詔勅を発したのが天 平十五年、西暦七四三年という年に、自分は毘盧舎那仏をつくり、そしてあらゆるものが、それによって、それの恩恵によって円満に行くというようなことを宣言するわけです。

 

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