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《天平‧奈良》,朝日新聞社,1973。

長広敏雄

まえおき

前回、奈良の七大寺のうちで四個寺のことを申し上げたわけです。大安寺(大官大寺)、元興寺(飛鳥寺=法興寺)、薬師寺、興福寺。しかし天平美術と申しますと、むろん七大寺に限りません。たくさんお寺がございますが、しかし代表として七大寺をあげますと、あと残りますのは東大寺、西大寺。そうしてその残りの七番目が、この前も申しました『七大寺巡礼私説』という平安朝末期の文献では、唐招提寺をあげていますけれども、唐招提寺は何と言いましても当時としては小さいお寺であった。それで『七大寺日記』では西大寺に付記して唐招提寺をあげています。

そういうわけで、きょうはいちばん重要である東大寺の大仏開眼のお話。東大寺は残念ながらそこにあった天平の美術が焼けてほとんどございません。この東大寺の造立は何と申しましても、天平美術のいちばんの頂点でございますので、そのお話を申し上げます。それから東大寺と言えば正倉院をどうしても申し上げなければならない。正倉院は、もとは東大寺のお倉であったわけでございます。そのあとで有名な唐招提寺。唐招提寺の金堂は天平時代の建築としますと、まずあげなけ ればならないほど、これはその当時の面影を残しているわけです。あとは、お寺には直接関係ございませんけれども、絵画のお話をいたさなければなりません。絵画の作品としてこれもいくつか大事なものがございます。

飢えと疫病と天災

前回は、天平時代初期のことを申し上げましたが、社会的な背景をちょっと申し上げますと、天平時代というと、お寺とか、あるいは美術の方面、あるいは舞楽の方面から見ますとたいへんはなやかでございますけれども、当時の社会は必ずしもはなやかではございません。現在われわれ歴史家の立場で考える者にとっては、表面のはなやかさだけを見るわけにまいりません。

当時の歴史書の『続日本紀』を見ましても、天平時代になりますと、いろいろの災いを記録しております。災いは大体三つの側面がございますが、まず飢えです。それから疫病、それから天災。この天災は、日本は今日のような科学が発達しました時代でもずいぶん災害がございますから、どうも災害というのは、日本という島国には付きものかもしれません。しかし、この災害も当時の人から見ますと、みんな非常な不安の種になっているわけであります。この災害につきましては、台風があり、それからひんぴんと地震がございます。それから日照りが続き過ぎて干魃。むろん暴風雨による水害もあります。干魃、つまり日照りが続き過ぎて穀物が実らないという記事は非常に多いのです。そういう結果、飢饉の記事は非常にたくさんあります。詳しく調べてみたんですけれど時間がございませんので、飢えの最大の災害を申し上げます。

天平十九年をまずあげなければなりません。これは大仏の開眼に向かって進行している第一歩のころでございますが、この天平十九年の前の年もたいへんな干魃がありまして穀物が実らなかった。とくに天平十九年は、日本全国で十五の国が飢えに悩んでおったと記録されています。これは奈良(大和)をはじめ近畿全部(河内、摂津、近江、伊勢志摩、丹波、播磨、淡路、紀伊)、それか中国地方(備前、備中、美作、出雲)、四国(讃岐)。とくに紀伊、あるいは近江というようなところは、その同じ年に二度も三度も中央へ飢えているという情報を送っております。こういう情報が集まるというのは、結局、律令制国家になりまして、それぞれの国に地方官が行っているので、そういう情報が早く集まるのでありましょう。

その少しあとになりまして、天平美術はなやかな天平宝字五年は五穀が実らない。天平宝字六年には、尾張、大和、畿内、伊勢、近江、美濃、若狭、越前、石見、備前の諸国が飢饉。翌七年にはさらにひろがって、近畿、中部、東北、北陸、中国、四国の二十一個国が全部飢饉を訴えております。天平宝字八年には十数個国が訴えておりますし、その他、五個国、六個国という訴えは、天平時代になりましてから二、三年おきには必ず起きています。

それから疫病でございますが、疫病も天平年間に、たとえば天然痘がはやったとか、とくに天平宝字四年には、十五個国がそういう疫病で悩んでいるということをいっせいに訴えております。

こういうふうに数例だけを申し上げたんですけれども、飢饉と疫病とが蔓延しますと、それは一年でおそらく済まないでありましょう。二、三年はその影響があるわけであります。そういうふうに、社会はある意味ではたいへん不安な状況があったわけです。

もう一つは、聖武天皇の時代になりますと、ますます律令国家を整えなければならないので、あ らゆることを国家的にやろうとする意思が強くなるわけです。こういう飢饉とか疫病とかが起こりますと、天皇は必ず詔勅を出して、人心を安定させよう、あるいは諸地方に政府が持っている米を出して、飢えている人民に与えるという措置をとりますけれども、そういう不安、とくに精神的な不安を何とかしなきゃならないという気持ちがたいへん強いわけです。

そういうことがあって、ここに宗教、つまり仏教の力を借りようということが起こるわけであります。これはずっと古くから、聖徳太子の推古時代のころからそういう手段をとりますけれども、とくに律令国家になりましてからは、仏教の力によって社会のいろんな不安を何とかして鎮めようということになる。その時のお経は「金光明経(こんこうみょうきょう)」と申すお経でございます。これは非常に古く、もうすでに聖徳太子のころからぼつぼつ知られていたのです。このお経はどういうことを言っているかというと、結局このお経を唱え、このお経を守っているならば、国土平安になるということがお経の中に書いてあります。為政者はそこのところに目を付けまして、「金光明経」をみんな拝め、読誦せよ、そうすればみんな収まるのだということを盛んに詔勅を通じて言うわけです。これは大体天武天皇のころから始まって、宮中でも読経しますし、それぞれの寺院でも読ませる。あるいは金光明経を写経して諸国に分けるというふうにして、あらゆる機会をとらえて「金光明経」をあっちこっちで唱えさすわけです。とくに聖武天皇の時になりましてから、このテンポが速くなります。つまり、こういうことが国家仏教にほかならない。それとパラレルに このお経が盛んになって行くわけであります。

一つだけ例を申し上げますと、聖武天皇より少し前ですけれども、七〇五年という年の詔勅にはこういうことを書いております。今、陰陽がうまく相和さないために、水災があったり、あるいは千魃があったりして五穀が実らない、人民がたいへん飢えに困っている、ということを、まず詔勅の中でうたって、だから五つの奈良の大きな寺では「金光明経」を唱えよ、そして人民の苦を救え、ということを詔勅の中で言っております。何遍もこういう詔勅が出るんですけれども、こういうお経を唱えることによって民の苦を救え、つまり救苦をしろ、というふうに言うわけであります。要するに「金光明経」の中に鎮護国家、国家を鎮護するということが書いてある。当時の為政者にすれば、このお経を普及させる大きな目的はそこにあったということです。

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