〔興福寺十大弟子須菩提(すぼだい)像〕
十大弟子と申しますのは、お釈迦さんの十人のお弟子さん。これは須菩提という名前が与えられている。名前は伝説でございまして、これが須菩提という人の像かどうかということはたいへん問題でございますけれども、とにかく非常に若いお坊さんをこの像はあらわしている。乾漆像です。そのやわらかさが非常によく出ております。手にしましても、写実的な顔付きでもいかにも幼い感じが感じられる。喉仏、あるいは肩の出し方なども非常によく観察して、若いお坊さんをあらわしている。
この像はごらんのように非常に背が高い。頭とからだ全体を比例しますと六分の一ぐらいになりましょうか。つまり頭が小さくて背が高いということは、この像を重厚の反対、むしろ非常にフレッシュな感じにする。十大弟子全部がこういう手法でございます。ただし現在ではお寺では六像しか残っておりません。
〔同須菩提像構造写真図〕
構造を調査した時の写真です。軸に木がありまして、腰や胸にまるい木をはめて行く。そういうものが芯にはいっている。あとは布をぐるぐる巻き付けて行くというやり方が乾漆のやり方でございます。
〔興福寺十大弟子富楼那(ふろうな)像〕
年寄りのほうの富楼那。これも名前は当たらないんでございますけれども、年を取っているほうの仏弟子でございます。これもたいへん背が 高くて、衣服の調子が非常にうまい。顔付きもお年寄りらしく、皺(しわ)を寄 せており、胸なんかもあばら骨がやや見えるような、いかにも年を取った感じ。手も前と違った手付き、何かを持っているという手付き。そういう写実的な感じを持ちながら、それがいやらしくならない。気品の高い、しかもフレッシュなもの。これが天平時代の最初のよさでございます。
〔興福寺八部衆像〕
童顔でございますが、頭に兜のようなものを、そして鎧を着ている。鎧は天平時代の十二神将も着ておりますし、あるいは四天王でもやはりこういう鎧を着ます。顔の、いかにも童顔を持ちながら、しかもきりっとした、やはり仏像でございますから現実の子供というのじゃなくて、非常にきりっとした超越 的と申しますか、そういうものをあらわしている。その他の手の部分にはリアリスティックなものをあらわしている。全体はこまかい、きれいな装飾をしている。
〔同阿修羅(あしゅら)像〕
阿修羅というのは首が三つ、手が六本ある。これも童顔でございますが、きりっとした英知というようなものがみなぎっておる。奇怪な、顔が三つあって、手が六本ということを考えさせないぐらいな美しさというか、神聖なものという感じ。
頭が小さくて胴がたいへん長い。こういうからだに対して頭が小さいということは、全体を優美という言葉であらわすことが出来る。しかも、手も思い切って細くしている。装飾的なものを持ちながら、全体を非常に美しいものに調和している。
〔東大寺法華堂〕
向かって左が本来のお堂で、真中から右一段と下がっておりますところから鎌倉時代に入母屋(いりもや)ふうの屋根の礼堂を付けたわけです。これが非常 にうまく出来ている。鎌倉時代の建築家はよほど天平の精 神をよく知っていた。真中で一段下がっているところなんかも、左の堂と違うことをはっきりあらわしながら、しかも気が付かなければ全体が一つに見える。窓の大きさ、幅など、また柱の太さもぜんぜん違います。こういうところ が伝統を生かしているということでしょうね。現代でも、伝統的なものを生かすにはどうしたらいいかということを、われわれは考えなきゃならないと思います。
〔法華堂構造図面〕
改造の跡がよくわかります。左側の内陣に不空羂索観音立像、三尊が立っている。内陣のさらに北の奥に、例の執金剛(しこんごう)像──十二月十六日しかあけないお厨子があまして、そこに非常に美しい塑像の執金剛像があるわけです。
〔法華堂不空羂索観音像〕
下から仰ぎますから、お顔がわかりにくいんですけれども、乾漆像で手がたくさんある。そして非常に大きな光背に透かし彫りの模様をあらわしているのです。この頭の上には冠の正面に銀製鍍金化仏の立像がある。
〔同部分〕
やや近くで見ますと、いかにも乾漆像です。青銅の像ですと、これだけやわらかくは出来ません。手は合掌した形です。目なんかも入念なつくりがしてある。下から見ますとややまるく見えますけれども、ほんとうはそうまるい顔ではないのです。
〔同冠部分〕
中央に銀製鍍金の化仏立像がございます。 周りのこまかい透かしの模様は木製です。そしてそれにいろんな宝石がちりばめてある。
〔同冠金具〕
余談になりますけれども、高松塚の透金具(すかしかなぐ)の模様にたいへん関係があることがわかってまいりました。
〔高松塚出土透金具〕
冠金具のほうは菱形でございますけれども、高松塚ではまるい形で出ております。まったく同じデザインです。これが中国の八世紀のはじめごろにつくられました永泰公主の墓の文様と似ております。ですから、永泰公主墓から高松塚へ、高松塚から法華堂の不空羂索観音の冠の金具に伝わる。伝統がつながるわけです。たいへんおもしろい最近の話でございます。
〔法華堂帝釈天像〕
今の本尊の横に立っている背の高い帝釈天です。帝釈天は正面に向いて、大きな髷(まげ)を結っている堂々たる像。いたんでおりますけれども、非常に天平らしい円満な像でございます。
〔法華堂執金剛神像〕
ちょうど本尊の不空羂索菩薩と背中合わせになるような場所にしてあります。執金剛の金剛というのは、金剛杵(しょ)というきねのことを言います。これは一年に一遍、十二月十六日半日だけしか開扉いたしません。日ごろはぜんぜん開扉いたしませんから、もしも拝観される方は、そのつもりでおたずねください。色彩が実によく残っております。これは一種の憤怒像と申しますか、怒った顔付きの像です。首筋の筋肉の筋、腕、顔の筋肉も非常にリアルにあらわしている。仏教の塑像としては類のないほどリアルな表現で、しかも華麗でもあります。
〔同部分〕
鎧などの表面に天平時代の模様がそのまま残っている。真赤な色、青い色、さらに金が 張ってある。口なども赤い色がまだ残っています。こういうリアルなものと装飾的なものとがいっしょになっているというのは、ちょっと今じゃ考えられない天平の特色です。
〔法華堂四天王鎧模様〕
唐草模様。これもさっきの透かし彫りの模様にたいへんに近い。分析いたしますと、これはちょっとバリエーションが認め られますけれども、基本的には高松塚のものにたいへん近いわけです。こういう非常に美しいものが四天王という武張った像の鎧に出ている。これがさっき申しました華麗ということに当たるわけであります。こういう模様は当時の日本で絹織物でもどんどんつくっていたに違いない。
〔法華堂日光菩薩像〕
塑造でつくった日光菩薩。現在ほとんど表面の模様は残っていません。非常に簡素な姿で合掌していられる。襟もただ合わせただけです。塑像のやわらかさ。このあとに戒壇院の仏像をお見せいたしますけれども、戒壇院のものは非常に近いわけです。
〔法華堂月光菩薩像〕
月光のほうは襟の合わせ目にまるいメダルのようなものを付けている。それだけ違いますけれども、ほとんどあとは日光と同じでございます。
〔東大寺戒壇院四天王像〕
戒壇院のは塑造の四天王で南を向いております。前の二体は、むしろ動的な、動きの大きい憤怒像。後ろの広目天と多聞天のほうは非常に静かで、目もとに内面的にこもった一種の憤怒相をあらわしている。こういう内面的なものをあらわすという彫刻は、日本でも非常に少ないと思います。天平彫刻のいちばんの粋と言っていいと思います。
〔同広目天像〕
全体を見ますと、やはり頭がやや小さめにつくってあります。法隆寺にあります白鳳時代のほかの四天王とか、あるいは天平末期から平安時代にかかっての四天王をごらんになりますと、首が肩に沈み込んだようにして、足がもっと短くなる。何かずんぐりした感じがいたします。ところがこれは身長もすっと高くて、しかも足も伸び切って、むしろこわいという感じよりも、一種の肖像みたいに静かに立っている。こういうところがやはり天平の、さっき申しました調和、動く部分があっても全体が静かでまとまるというのが天平の精神でございます。
〔薬師寺薬師如来台座模様〕
これはちょっと余談でございます。高松塚の話を先ほど申したので、付け足しでございますが、薬師如来の台座は四角でございますが、その台座のちょうど裏のところに蛇と亀のからまった図がございます。これを中国では玄武と申しまして、北のほうのシンボル。陰陽で申しますと陰のほうのシンボルをこういうものであらわしている。これが天平のごくはじめごろのものである。これと同じものが高松塚の壁画で出てまいりました。
〔高松塚古墳壁画北壁玄武図〕
高松塚では亀と蛇の頭の部分が何者かによって削られてしまいました。首がございません。しかし蛇がぐるっと巻き付いている感じがよく似ているわけです。そうしますと、天平初期の薬師寺の主尊の台座よりは、高松塚のほうが早いだろうけれども、しかしお互いに関係はあったということになるわけであります。
来週は非常にたくさんの内容になりますが、東大寺のつくられます社会的背景、それから東大寺に関係いたしまして、正倉院のいろいろの宝物、その当時中国からまいりました唐の鑑真和上が、どうして、どういうふうに苦労して渡海して来たか、そして唐招提寺をどういうふうにつくったか、その他、天平・奈良時代の残っておる絵画のお話も申し上げたい。