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《天平‧奈良》,朝日新聞社,1973。

長広敏雄

国中連君麻呂

これでもわかりますように、まだ天平時代でも、決して純日本人がすべてを行なったわけじゃなくて、朝鮮半島や大陸からいろんな人がやって来て、そういう人がだんだん日本人になってしまって、いろんな仕事をやっているわけでありますから、言うならばいろんな方面の力が働いているということです。つまり私は、狭い意味の日本人がやったとは思いません。この当時のいいことは、朝鮮半島の出身者であろうが、あるいは中国の人であろうが、みんな自分の実力を出し合ってやったということですね。その一つの標本として国中連君麻呂という人が注目される わけです。

造東大寺司という、現在で申しますと建設省みたいなところは、非常に組織がりっぱに出来ております。こういうことがわかりますのは正倉院文書(もんじょ)というものが残っているおかげです。正倉院の中にはいろんな美術品がありますと同時に、その当時の文献がございまして、これを正倉院文書と申しますが、奈良朝当時そのままの詳しい文書が残っております。こういう文書によりますと、造東大寺司でいろんな職人が働いておって、日当がいくらである、食糧はいくら要る、ということまで書いてございます。たいへんおもしろいのは、たとえば東大寺の建築をします時に、天井にも極彩色の絵を描いているわけです。天井の極彩色の絵と申しましても、枡形のコマがありまして、一つ一つこのコマの中に花を描く。この花一本が二文であるとか、上等のは花一本が五文と書いてある。こういう花の一つずつが、賃金の一つの単位になっていたということがわかります。役所として非常に組織立っている。そういうことが、言うならば当時の律令制という、今の官庁の制度みたいなものが、その当時うまく出来ておったということの一つのあらわれかもしれません。こういうことも詳しくご研究になりたい方は、正倉院文書などをお調べになりますと、いろいろおもしろい事実が中に書いてございます。

それから建築のことでございますけれども、東大寺の建築というのは、さっき申しました、その前身に大和の金光明寺の建物が多少残っていたと思われますけれども、しかし、そういうものはご破算にして、一応大仏殿を中心にした新しい設計が始まる。これがいつから出来たかということが、これも学者たちのたいへんな問題でございますが、大仏殿が建て始められたのが天平勝宝元年という年で、それが完成したのが天平勝宝四年(七五二年)。ところが現在建っております大仏殿は、これはもうずっと後でございまして、天平時代の大仏殿が一遍、例の治承四年(一一八〇年)に、これは新平家物語などでもうご存じだと思いますけれども、平重衡が火を付けて南都を全部焼いてしまった時に、焼けてしまったわけです。その後、鎌倉時代に再建いたしまして、非常にりっぱなものが再建されたんですけれども、それがまた焼けてしまった。ですから現在残っておりますのはずっと後のもので、昔の面影はまったくないのです。天平の最初の建築を学者が復元したのを見ますと、非常に大きなものでございまして、東西の長さが八十八メートル、南北が五十二メートル、高さは四十七メートルであった。

まず大仏殿が出来まして、その次にその裏のほうに、お坊さんがいろんな講義を聞いたりする講堂が出来る。これが大仏殿の完成のあと八年ぐらいかかって出来ている。それから伽藍にはむろん塔が大事でありますが、まず最初に西塔が出来たと思われる。西塔が出来上がったのが、大体大仏殿が出来たのと同じころだと思われる。これは七重ですね。五重塔より、もう二重高い七重塔であった。高さ百メートルの非常に大きな塔であった。これからまた十年ほどたちまして、天平宝字六年には、西塔に対して東塔をつくる。こういうふうにいたしまして、さっきのように仏像をつくるだけでも全部で二十六年かかったというふうに、大きな伽藍をぽつりぽつりとつくって、結局やはり二十何年かけて東大寺の大伽藍を完成したわけであります。

この事業の間は、聖武天皇の非常な熱意と同時に、そのあとの、聖武天皇の娘である孝謙天皇、この二代が非常に熱心にバックアップした。これが言うならば天平のいちばんの最盛期だと言っていいわけです。ところが、そのあと政治情勢がたいへん変わりまして、その結果か、孝謙天皇のあとぐらいからは、天平のすべてのものが少しダラダラと、それほど促進されなくなって来るという情勢に変わります。

西大寺の四天王像

東大寺と言えば西大寺のことを申さねばなりませんが、西大寺のほうは東大寺ほど一つの目的と申しますか──東大寺のほうは大仏(盧舎那仏)をつくるという大目的があったわけでありますけれども、西大寺は東大寺に対して、それと左右対称になるように西につくるという気持ちもあったでしょうが──直接の動機は孝謙天皇が発願されまして、国を、あるいは国都を守るというためには必ず守護の四天王を考えるのですけれども、金銅四天王像を発願されるわけです。これが起こりです。これが発願されたのが天平宝字八年、西暦七六四年という年です。そうして、その翌年の七六五年に四天王像は出来上がり、同じ年にお寺の建立が始まる。言うならば八世 紀の後半になって次から次へとお堂が建て増しされて行くわけです。しかし、さっき申しましたように、孝謙天皇がなくなって、あとの光仁天皇の時代になって来ると、この孝謙と光仁の間には非常に大きな政治的なギャップがある。孝謙天皇が退位されたあとになると、あらゆることが下り坂になって来る。いわゆる天平文化、仏教文化、いずれも下り坂になって行くわけですね。ですから、その間の西大寺造営については、実はよくわかりません。とくに西大寺は何遍も焼けまして、現在残っている建物で古いものはぜんぜんございません。礎石だけが残っているわけです。ただ、西大寺においでになりましたら注意してごらん願いたいのは、いちばん最初に孝謙天皇が発願された四天王像は、今は残っておりませんけれども、この四天王の踏まえております天邪鬼は、これは天平そのままです。しかもこれは金銅製です。金銅でつくった天邪鬼で、天平時代のものは現在これし かありません。ほかの四天王は、たとえば木像とか塑像とか、そういうものが多いんです。西大寺だけは金銅でつくってあります。おいでになってもちょっとわかりにくうございますけれども、もしもお堂で拝観が出来ましたらごらんになっていただきたいと思います。

 

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    秋風起 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()