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《天平‧奈良》,朝日新聞社,1973。

長広敏雄

【引用】天平の美術-11

(唐招提寺金堂)

鑑真和上と唐招提寺

さて、その次は鑑真和上と唐招提寺の美術について申し上げたいと思います。宗教的な面から申しますと、先ほど申しました「金光明経」にしても、あるいは「華厳経」にしましても、仏教の神髄という本質的な問題に迫るというよりは、国家を鎮護するとか、あるいは、たくさんの仏の中心であるとか、やや権威的な面の強い感じがいたしました。そういう時点で鑑真和上が日本へ渡って来るということは、仏教史の意味から言いますと非常に重要なことだと思うのです。

鑑真というお坊さんは言うまでもなく中国の生まれ。しかも揚子江の下流の有名な揚州というところ。これは古来非常にはなやかな大都会で、仏教も栄えた土地だったのですが、ここの生まれで、そして都の長安へ行って仏教の勉強をされたわけです。この当時、つまり八世紀のはじめのころの中国では、一般に偉大なお坊さんと言われるほどの人は、どんな人でもみな戒律ということが僧侶への入門である。戒律を受けないような僧侶で偉いお坊さんはないんだということが、中国のその当時の一般の常識であったわけです。このことが、実はその当時の日本の仏教ではぜんぜんなかっ たのです。このことを思い当たったのは、ちょうど日本から遣唐使について中国に渡っておりまし栄叡(えいえ)と普照(ふしょう)というお坊さん──この二人のことは井上靖さんの『天平の薨』という小説で非常に詳しく書いてありますから、お読みになった方はご存じだと思いますけれども、この栄叡、普照は中国にかなり長く滞在していたんです。そのうちに、今申しましたように、中国では戒律をやらないお坊さんはあり得ないんだということを知り、戒律のほうでは非常に偉い お坊さんである、鑑真和上を何とかして日本へお迎えして、今日本にはぜんぜん戒律というものが ないから、お坊さんたちに戒律を授けてもらわなきゃならないと考えた。そういう点はなかなかこの二人のお坊さんは偉いと私は思うのです。

そこで鑑真和上のいる揚州の大明寺に行って、鑑真和上にお願いをするわけです。ところが鑑真和上は、自分は行かないが、しかし自分の弟子を遣ろう、ということで、弟子に、お前たち日本まで行かないか、と言うと、中国から日本に渡るというのは、海が荒らいということを知っていますから、みんな尻込みをする。そこで鑑真和上は、お前たちが行かないのならおれが行く、もしもお前たちが付いて来たいのなら付いて来い、と言います。そういう点は、鑑真和上は非常に決断力のある偉い人だと思うのです。そして鑑真和上の直弟子二十一人が、では私たちもまいりましょう、ということで日本へ渡来の計画がされるわけです。結局は戒律ということが日本にぜんぜんない、日本の仏教は、ただ単に何となしに、言うならば災いを転じて福となすというふうなことだけに熱 心で、仏教の本質的なものを僧たちは行なっていない。ですから、お坊さんたちが場合によると政 治に介入して、邪道のほうに陥るとかいう人もあるわけですね。そこで戒律というものをやらなきゃならないということを、その時に考え付いた栄叡・普照も偉いし、それをまた自分が渡日しようと言って決断した鑑真和上もたいへん偉いと思うのです。

ところが、ご存じのように、日本に渡ろうと最初に計画をしたのが西暦七四三年。しかし、これは船が難破してしまって失敗する。そうやって何遍も繰り返して、結局五回失敗するわけです。その間にもう十年の歳月がたっております。いよいよ七五三年という年が第六回目の年です。ところその前にすでに鑑真和上は、船があっちやこっちで難破して、時には南方の炎暑の地まで流浪したので、健康を害して失明してしまうわけです。それに加えて非常に熱心な日本からの留学僧であった栄叡も病気で倒れて、中国で死んでしまう。あと日本僧として普照が一人残るわけですね。しかし、鑑真和上は目がつぶれても自分はあくまで行くんだということで、七五三年に、第六回目に──この時は中国の坊さん十四人、尼さんが三人、その他中国以外の人もいます。東南アジアの 人も何人かいる。そういう人たちがみんなで二十四人、仏像であるとか、いろんなものを積み込ん で――船出をしまして、幸いにこの時は成功して日本に渡る。翌七五四年の天平勝宝六年という年 に、九州の大宰府に着いて、そうして二月四日に奈良の都にはいって来る。

そういうふうに、発願してから十一年もかかってやっと日本に来た時に、鑑真和上は目が見えな いんですから、どんなに日本の仏教寺院が盛んであるかということは何も見えないわけですね。しかし和上の渡海は日本では非常に評判が立っておったので、天皇は東大寺のすぐ西のところに戒壇院をつくり、戒壇をつくって、そして初めて鑑真和上から天皇がみずから戒律を受けるわけです。多くの皇族も戒律を受ける。初めてこの時に日本で授戒という儀式が始まる。この時に授戒を受けたお坊さんたちだけでも四百四十余人に達したということです。

こういうふうにして鑑真和上は日本に来たわけですけれども、東大寺の西に戒壇院という、鑑真和上のためのお堂がつくられたにもかかわらず、鑑真和上はどうもそこにいたくなかったらしい。そこの理由はよくわかりませんけれども、やはり当時の日本の仏教界の主流というものと、何か肌が合わないものを感じたんじゃないかと思うのです。とくに目が見えないという内省的な僧形ですから。そこで、今の唐招提寺が建っています場所に、鑑真和上自身の寺を建てる。つまり私寺を建てるわけですね。今の土地は、元来は貴族の屋敷であった。新田部親王という皇族の屋敷であった ところ―これはいろんな文献によってさまざまな説がありますけれども、要するにその屋敷跡を鑑真和上が賜わって、そこで寺をつくったということになっています。ですから、それはあくまで も私寺である。今まで申しました当時の寺は、みんな造東大寺司というふうな役所が建てますから、みんなこれは官寺ですね。今で言えば国立であるわけです。そういう官寺に対して、唐招提寺は私寺である。

唐招提寺という名前自身も、鑑真和上が最初に寺を名乗って招提寺というふうに言っていた。今ではその上に唐という字を付けて言うわけです。 

私が今申しましたような事柄は、鑑真和上にぴったりと寄り添って中国からやって来た、一番弟子の思託(したく)が鑑真和上の来歴を書いた、漢文の本があったらしいのです。今はありません。その思託の書いた鑑真和上の伝記をもとにして、そのあとに淡海三船(おうみのみふね)が──この人は当時漢文の文章がうまかった、名うての文章家であると言われております―『大唐和上東征伝』という名前の伝記を書いた。現在でもそれは残っています。たいへんりっぱな漢文で、和上渡海の一部始終が書いてあるのです。

こういうふうにしまして、鑑真和上はここに移りましたが、間もなくそこでなくなります。なくなったあと、弟子が鑑真和上のお姿を乾漆という材料を使って肖像をつくり、現在でも唐招提寺に収めてあるわけです。

唐招提寺金堂の美

そして、今のお寺の建築でございますけれども、これが、いつ、どういうふうにつくられたかがわからない。これは私寺であるということから、記録がまちまちではっきりわからないんですが、しかしこれも最近の詳しい研究によりますと、おそらく最初は、鑑真和上がいた僧房が出来たんであろう。そして順次に建て継ぎ、最後に現在の金堂が出来たんであろうというふうに言われております。ですから普通のお寺のように、先に金堂が出来たというんじゃないようで す。どうも天平時代もこのころになりますと、美術の内容が非常に多くて、たいへん駆け足になりまして申し訳ございませんが、あとでスライドを映す時間もございますので、唐招提寺のことはこの辺で打ち切っておきたいんでございます。

ただ、唐招提寺のこまかいことをご説明するほどスライドを用意しておりませんので、前もって説明いたします。金堂の正面、両側に松林がありますけれども、ちょうど中央の南からごらんになって、あの建物のよさをとらえていただきたい。というのは、屋根が寄棟(よせむね)づくりという非常にやわらかい形の棟です。正面に円柱の列が立っておりまして、その柱は吹き放しと申します。つまり柱があって何も壁がないところが最初に一陣あるわけです。そして奥に内陣がある。この列柱が実にうまく設計してある。中央に一間(ま)、左右にそれぞれ三間(ま)、全部で七つ間(ま)があるわけです。中央から末端に行くにしたがって徐々に幅が狭まくなっている。中央間(ま)は縦横が十六尺ずつです。次の間(ま)が縦十六尺に対して横が十五尺。次は二尺減って、縦十六尺に対して横が十三尺。最後は縦十六尺に対して横が十一尺。実際に行ってごらんになりま すと、徐々に間(ま)が末端に行くほど狭まくなっているのが何とも美しい。こういうやり方は、ほかの天平の建築がもしも残っていたにしても、こんなりっぱなものはなかったはずです。つまり中央の三間(ま)がたいへん大事なんで、たいていは、この三間(ま)は同じ幅にするわけですね。今、興福寺に東院堂というのがありますが、あれももとの建築であればこういう吹き放しの形になっていますけれども、正面の三間(ま)が同じ幅になっているんです。ところが唐招提寺の場合は、正面は正方形で、次は高さに対して一尺減らしてある。その次は二尺減らし、また二尺減らしというふうになっているんです。列柱の正面が非常に美しい。私は、昔学生のころからあそこへ行きますと、中のご本尊を拝観する前に、列柱のところを何遍も往き来して正面から見たものでございますけれども、もしもお気付きでございませんでしたら、ぜひ今度は建築の美しさをご鑑賞願いたい。つまり、唐招提寺の金堂の建築の横の美しさというものと、その南の薬師寺の三重塔の縦の美しさ。薬師寺は垂直の美しさ、唐招提寺は水平の美しさですね。この二つが、現存しておる天平の建築で代表と言っていいだろうと思います。

 

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    秋風起 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()