《天平‧奈良》,朝日新聞社,1973。
長広敏雄
正倉院の美術
最後に正倉院のことを申し上げます。言うまでもなく正倉院は、元来は東大寺のお倉であったわけですけれども、その興りというのは、聖武天皇がなくなりまして、そのあとで、ご自分で珍重しておられた品々を、すっかり東大寺に奉納したというのがもとになっているわけです。現在、正倉院には、奉納した時の目録で献物帳と申すものが五巻、保存よく残っております。
第一の献物帳は天平勝宝八年の献物の目録です。光明皇后が最初に一種の序文のようなものを、りっぱな漢文でお書きになっている。その序文の中で、これらの品物は全部聖武天皇のご愛蔵のもので、それを東大寺にご奉納申し上げます、ということが書いてある。ちょうどその日は、聖武天皇の四十九日に当たる、天平勝宝八年の六月二十一日という日付になっている。
ご愛蔵のものはいろいろありますけれども、それにはいろんな薬品も非常にたくさんあります。「盧舎那仏に奉る種々薬」とある第二献物帳がこれです。薬物には当時は匂いを出す香も相当にあります。第三の献物帳は同じ年の七月のもので、屏風や花氈がある。第四の献物帳は、それから二年ほどおくれまして、天平宝字二年の献物帳です。王羲之・王献之父子の真蹟書巻がある。そういうふうに何回かの献物帳がありまして、それに宝物の目録が書いてあるんです。しかし現在は、この献物帳に書いてある宝物がかなりなくなっております。正倉院は一度も焼けておりませんけれども、やはり長い間のことですから、外へ出してもとにもどしていないというようなことがあった のでしょう。かなり減っております。
そのおもなものを申しますと、いちばん目に付くものは楽器です。これは現在中国のほうでまったく残っていないこの時代のものがかなり残っております。たとえば弦楽器の中では琴があります。金銀平文琴といって、金銀で人物・鳥獣さらに草木などを飾った豪華な琴があります。裏に「乙亥之年季春造」の銘がある。それから琵琶の類。琵琶は当時、四弦の琵琶と五弦の琵琶と両方あったわけですが、この両方とも正倉院にはございます。こういう琴でも琵琶でも、ただの楽器というだ けでなくて、いろいろな装飾がほどこしてありまして、この装飾技法は現在そういうものが伝わってない、みごとなものであります。
工芸の技術で申しますと、美しい貝、瑇瑁(たいまい)、孔雀(くじゅく)石などをはめ込んだ螺鈿(らでん)の文様、あるいは平脱文(へいだつもん)。平脱文というのも漆の工芸でございまして、金や銀を非常に薄く鳳凰とか花喰い鳥の形やまた花枝などに切って、そういう品物の上に張り付けて、何遍も漆をかけて磨き出して行くというのが平脱という技法です。これは脱という字を略して平文ということもあります。そういう当時の最高の技術を使って道具や器物を装飾してございます。それからいろいろの武具の類。大刀や金具。今度、高松塚でも金具が出て来ましたが、そういう金具の付いた非常にりっぱな大刀も残っている。それから各種の鏡。これにもりっぱないろ いろの種類がある。たとえば鏡の上に金銀平脱文を飾ったようなもの、螺鈿で花鳥をあらわしたもの、竜とか花鳥とかさまざまな文様を浮き彫りにした鏡。中国にも類品を見ない色ガラスを溶着し七宝細工の銀鏡もあります。その種類がたいへん多い。
それから絵画のほうに属しますけれども、屏風の類がたくさんございます。実際に屏風の上に絵を描いたのもありますし、あるいは絵でなくて、今の染色技術を応用したいろいろの屏風がございます。一例を申しますと臈纈(ろうけち)、これは現在蠟染めというのと同じことです。模様を描きまして、模様のところに蠟を置いて、そして染料にひたし、蠟のところだけが絵具が付きませんから、そこだけ白く抜けるというふうなことを何遍も繰り返してやる、それが蠟染めです。もう一つは夾纈(きょうけち)というのがございます。薄板に模様を彫りまして、それを合わせて、締めて染料の中にひたすわけです。そうすると、板でおさえているところだけ絵具が付きませんから、さっきの﨟纈と同じように模様だけが残る。しかし蠟の場合は、蠟を正確に置けますから、輪郭線が臈纈の場合は非常に明確に出る。夾纈の場合は輪郭がやややわらかく、ボーッとなるわけですね。ですから、輪郭を少しやわらかくするほうがいい時には夾纈を使うというやり方をするわけです。こういう纈とか、夾纈を、絹であるとか、あるいは場合によりますと、毛織物なんかにも利用し ているわけです。
まだまだ、いろいろの当時の木工品、あるいは織物、俗に正倉院裂(ぎれ)と呼ぶ類もあるのです。現在は正倉院の建物の中には人を入れませんけれども、あの建築は校倉(あぜくら)づくりという独特の建築でございまして、内部は部屋が三つあります。北倉と中倉と南倉。この三つの部屋はいずれも正面からはいるだけで、お互いには通じていない。ですから、北の倉、中の倉、南の倉がただ引っ付いているというに過ぎない。とくに北倉には美術的にもりっぱなものが入れてあった わけです。現在も建物はそのままですが、中の宝物は別のところ、新しい耐火、防湿、耐震の建物のほうへ全部移してございます。いずれにしましても、ああいう正倉院のような建築は当時東大寺 には他にもいくつかあったわけです。ただ正倉院だけが幸いに焼けることがなくて残ったのです。 これからスライドを見ながら、もう少しお話いたします。
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