《台湾の心.台湾の情─廖修平.江明賢二人展》,東京:渋谷區立松濤美術館,2009。
味岡義人
1970年代─台湾版画の多様化
1966年、台湾省立博物館で廖修平の版画作品による個展が開催された。《七爺八爺》、《雙喜》、《廟内》などの台湾の寺廟を主題とし、台湾本土の色彩を用いた一版多色のエッチング作品は、従来の単色の木刻版画しか知らなかったともいえる台湾の人々の目を覚ますものであった。更に、1971年にはプラット版画センターで学んだ謝里法がシルクスクリーンと写真併用の作品を発表 する。同年にはハワイから許漢超が台湾師範大学客員教授として帰台、シルクスクリーンの制作 を指導することにもなる。1970年には、方向、陳其茂、李錫奇、韓明哲など様々な世代の版画家達により「中華民国版画学会」が結成され、70年代、台湾版画は多様化の時代に突入していった。1973年、廖修平は台湾政府の要請により帰国、国立台湾師範大学客員教授に招かれ、また、国立藝専や文化大学でも学生の指導にあたる一方で、台湾全土を回り小中学校の教師や画家達に版画の多様性を教え、講演活動を行い、また、世界の様々な版画をスライドにより紹介するなどして版画の多様性を広めることに努めた。1974年には、十大傑出青年獎を受賞、これを記念して彼に学んだ鍾有輝、林雪卿、董振平、林昌徳、黄國全、謝宏達、楽亦萍、曾曜淑、崔玉良、何麗容らが十青版画会を結成した。彼らはこれ以後の台湾版画界の中核となり、廖とともに台湾版画を隆盛に導いていく存在となった。
1977年、廖修平は筑波大学に招かれ版画研究室の創設に尽力、1979年には米国のシートン大学に招かれて1992年まで米国で教育に従事するが、この間もしばしば台湾に戻り、版画の普及に努め続けている。
1980年代─台湾版画の国際化
70年代の台湾は、国内政治的には美麗島事件(1979年)に代表される弾圧もあったが、全体的には安定しており、経済的にも繁栄をつづけていた。美術の面では美術館や画廊が相次いで開かれるなどし、台湾の版画は多様化の道を着実に歩んでいた。しかし、国際政治的には台湾は逆境に追い込まれていた。1971年に国連が共産中国の加入を認めたことから台湾は国連を退出、翌年には日本と断交、78年には米国と断交するに至る。この影響で、これまで多方面で継続していた美術家の国際的な活動も大きな制約を受ける事態となった。台湾の版画家達はサンパウロ、東京或いはフランスやイタリア、英国などで開催される版画展への出品が困難となり、国際交流の道が閉ざされていった。
こうした背景の下、1982年、廖修平は台湾に戻り国家文化建設会議に参加する。そして、文化建設委員会(文建会)主任陳奇禄とともに開催したのが中華民国国際版画展であった。この展覧会はその後、ビエンナーレとして改組され、各国から審査員を集め、国際的基準により作品を評価することで、台湾の版画芸術に常に新たな刺激を与え続け、その国際化を促進し、今日の台湾版画の隆盛の礎となった。
台湾版画の今日の隆盛を築いたもう一つの要因に版画工作室の創設がある。1983年、文建会の指導により設けられた版画工作室では、廖修平は勿論のこと、鍾有輝、董振平など彼に学んだ版画家たち、更に日本の吹田文明、矢柳剛などといった版画家を招くなどして各種版画技法の普及にあたった。
そして、80年代、廖修平は、台湾、米国、日本、ドイツ、韓国などで個展を開催、各種のグループ展などの出品を重ね、ノルウェイ国際版画ビエンナーレ銀賞を受賞するなど名実ともに台湾を代表する版画家として、国際的な地位を確固たるものとした。
1990年代から
1992年、体調の不良から廖修平は長年勤めたシートン大学教授の職を辞し、制作に専念、また、油彩の制作を再度開始する。1993年には、かつてのパリでの留学仲間である謝里法、陳錦芳との三人で巴黎文教基金会を設立し、あわせて巴黎獎を設けて青年芸術家のパリ留学を援助することとした。そして、1994年、台湾に戻り、台北国立芸術学院などで教育に従事する。また、廖は中華民国国際版画ビエンナーレでは審査員を務め続け(3回・6回・10回を除く)、また、台湾版画学会の会長を務めるなど国際交流の拡大、台湾版画の発展に変わる事の無い努力を重ねていった。1996年には李仲生現代絵画文教基金會の現代絵画成就獎、1998年には国家文化藝術 基金会から第2回国家文芸獎がこれまでの業績に対して贈られている。
不幸なことに、2002年、その画業を支え続けてきた愛妻呉淑員が急逝。廖はこのために長く制作の根拠地としてきたニュージャージーのアトリエを閉じ、台湾に戻ってきた。そして、また、この悲しみは彼の新たな作品群 「無語問天」系列を生み出すことにもなった。
台湾に戻ってからの廖は、これまで同様に制作と台湾版画の発展に尽力、2006年の第5回エジプト国際版画トリエンナーレでは優選奨を受賞している。
日本との関係についていえば、1990年に東京のストライプハウス美術館で大規模な個展を開催している。廖が創設した中華民国国際版画ビエンナーレでは、中林忠良が大賞(第1回)に輝いたのをはじめとして、多くの日本人版画家が様々な賞を受賞しその後のそれぞれの展開の契機となっている。また、日本の版画家の台湾における個展の開催を積極的に推進したほか、中林忠良や園山晴巳などを招いて指導に当たってもらうなど日台版画交流を積極的に推進している。
廖修平について、プラット版画センター教授のフリッツ・アイツェンバーグは「完璧な人格、文雅であって剛強」と称している。(『廖修平一廖修平的風采』嶺南美術出版社/1988)その性格を反映した彼の洗練され、調和のとれた作品が人を魅了することは勿論として、その優れた人格が多くの世界の版画家達、後進の尊崇をあつめてやまない。
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