《台湾の心.台湾の情─廖修平.江明賢二人展》,東京:渋谷區立松濤美術館,2009。
味岡義人
明清時代
台湾がポルトガル船により発見され美麗島と呼ばれたのが16世紀末、以後、スペイン、オランダがここを根拠地として貿易を行った。台湾に中華民族が本格的に定住するようになったのもこの頃からであり、沿海の福建(閩)、広東(粤)から移ってきた者たちが主であった。明末、鄭成功がオランダ人を駆逐、反清復明の根拠地としたが、鄭氏は1683年に清朝に降り、以後、中国の辺の地として、その文化圏の一角を占めることになる。但し、台湾の文化、宗教、風俗は当然ながら閩粤のそれを継承するものであった。台湾で行われた版画は、民間の日常生活に用いる実用的なもの、例えば小説中の挿図としての版画や画譜、門神や寺廟の宗教的行事に用いられるものなどであった。その種類こそ多く、民俗的、地方的色彩こそ濃厚ではあったが、当時において、それは印刷物と言うべき物であって、美術品と意識される物ではなかったというのが実情であろう。
日本統治時代
清朝は日清戦争に敗れ、台湾を日本に割譲した。日本統治時代には、日本的、いいかえれば西洋的な美術教育が行われ、従来からあった中国画に加えて、水彩・油彩・日本画(日治時代は東洋画と称され、現在はその素材から膠彩画という)が広く描かれるようになり、更にいうならば、従来の中国画は停滞の方向にさえ向かった。台湾には美術専門の学校が設立されなかったため日本やフランスに留学するのが美術を志す者の道であった。そうした中から陳澄波、劉啓祥、李石樵、林玉山、陳進、郭雪湖などの優れた台湾人画家が輩出した。彼らは、日本の帝展に倣って開催された台展で活躍し、また、日本本土における帝展などに入選してもいる。
但し、版画に就いてみるならば、依然として、旧来の実用的版画が主であった。そうした中で、版画は、台湾の民俗、生活習慣を記録にとどめる手段として利用されたことが特筆される。日本人画家立石鉄臣が編集に加わった『民俗台湾』(1941年7月~1945年1月)では、101幅の「台湾民俗図絵」が発表され、台湾各地の民俗・風景が記録された。日本の詩人西川満が発行した『媽祖』(1934年10月~1938年3月)では第五期が「版画号」、第二巻第二期号は「百花春一詩と版画号」として立石や宮田弥太郎、福井敬一、谷中安規、川上澄生などの作品が紹介されている。こうした、日本人版画家の活動や作品の紹介が行われた時代の1936年に廖修平は台北に生まれ、成長していった。彼が生まれ育ったのは、萬華の龍山寺付近。彼が日本人作家の版画を見たことがあ るか否かは不明でが、門神などの民間宗教的な版画を見て育ったことは間違いなく、更にいえば、 そこに漂う濃厚な宗教的な空気を極めて多量に吸収し育ったものと考えられる。
光復後の版画―1940年代後半から50年代
1945年、日本は敗戦により台湾を放棄、中華民国が接収し、 半世紀にわたった日本の殖民地統治は終りを告げる。台湾の文化はこれ以後、中華民族を中心とする文化に回帰することになる。国民政府の官員などとともに、大陸からは少なからざる水墨画家が来台してきた。日本統治時代の教育を受けた台湾人画家たちとの間に国画論争が起こるのは、間もなくのことであった。
大陸では魯迅の推進した木刻版画が発展し、抗日戦争中には一つの宣伝媒体として重要な役割を果たしていたが、こうした版画制作に関わった版画家たちが国画家たちともに、新聞の編集や教員としてやってきた。主要な人物として、黄榮燦(1916~1956)、陳庭詩(1916~2002)朱鳴岡(1915~2013)などの名があげられる。彼らの版画は、大陸における魯迅以来の木刻版画の系譜につらなるもので、技法的には木刻の単色であり、写実的で社会性の強いものであった。1947年に日本統治時代に活躍した画家陳澄波をはじめとする多くの台湾知識人が虐殺された二二八事件が勃発するが、彼らはこの事件を題材として多くの作品を残してもいる。しかし、大陸から移ってきた版 画家たちは、大陸における内戦の影響、本質的に左翼的傾向を有していたために種々の迫害を受け、多くが大陸へ戻っていった。
1949年に国民党政権が遷台してくると、再び、彼らとともに、溥儒や黄君璧など多くの画家 が台湾に遷ってきた。その中には方向(1920~2003)、江漢東(1929~2009)、陳其茂(1923~2005)などの版画家がいた。但し、彼らの作品も依然として木刻単色の、写実的で社会性の強いものであった。この時期、廖修平は多感な青年時代を送っている。1948年、大同中学に入学。その容貌から「ガンジー」と渾名されたという廖修平は、呉棟材から正式に絵画を学び、1954年には19歳で全省美展に入選を果たす。その翌年には師範大学美術系に進学、同期には王秀雄、謝里法、傅申、陳瑞康、張光遠、王家誠、蔣健飛など「将官班」 と称されるほどに優れた人材がそろっていた。師範大学では陳慧坤、孫多慈、袁枢真、廖継春に学び、課余には李石樵の下に通って研鑽を積み、台陽展や全国美術展覧会などに油彩作品を出品している。
1960年代版画家としての出発
戦後の混乱が収まった50年代前半、美術の主流はアメリカに移り、デ・クーニング、ポロックなどに代表される抽象表現主義が世界美術の潮流として広がりをみせていった。政治的に米国の影響下にあった台湾では、美術の分野でも米国への傾倒が見られるようになる。
こうした中で、何鐵華や李仲生の影響下、新たな藝術運動が展開を見せていった。1957年には「東方」、「五月」の二つの画会が組織され、台湾現代美術の展開に大きな影響を与えた。その後の台湾美術の展開は大陸における美術の展開とは全くことなるものであり、日本統治時代の50年間同様に、台湾本土独自の美術が形成されていくことになる。
そうした潮流の中で、版画もまた、時代を風刺するといった社会的性格の濃厚なものから、個人の内面性を追究するものへ、具象から抽象へと変化していったのは当然の帰結であった。1958年には、10名の米国版画家と台湾の秦松、江漢東による「中米現代版画展」が開催され、年末には秦松、江漢東、楊英風、陳庭詩、李錫奇、呉昊らにより「中国現代版画会」(会長:秦松)が創設される。翌59年10月には第1回展が開催され、これまでの写実的な表現から脱却した大胆な作風が展開されていった。年末に開かれた第5回サンパウロ・ビエンナーレでは秦松が受賞したのをはじめとし江漢東、陳庭詩、李錫奇、呉昊などが入選を果たしている。台湾の版画が国際的に認められたはじめであった。
60年代の台湾版画は、この中国現代版画会の主導のもとに展開していく。版画は一つの現代美術の表現形式として認知され、第6回サンパウロ・ビエンナーレでも江漢東、陳庭詩、李錫奇、呉昊が入選するなどし、国際的に台湾版画の地位を確立していった。
廖修平が大学を卒業したのは1959年、師範大学であったことから教員生活を送ることになる が、この年の第14回全省美展では西画類の第一名を受賞している。1961年には兵役に服するが、制作を中断することはなく、1959年に結成された李石樵の学生を中心とする今日画会に作品を発表し続けた。そして、兵役を終えた1962年、日本の東京教育大学に留学(翌年、王秀雄も東京教育大学に留学)大学では、松木重雄の下で学び、秋には、日展に出品し入選を果たしている。台湾人画家としては戦後はじめての日展入選者であった。同時に、廖修平は父の廖欽福が建築業であったために、個人的に東京教育大学教授であった高橋正人が主宰していた研究所に通い設計と構成原理を学んだ。これが、後の彼の版画に大きな影響を与えているのはいうまでもない。
当時の東京では、ピカソやシャガール、ダリなどの版画作品を眼にすることが多く、また、日本版画の多様な表現技法が、木刻中心の台湾版画しか知らなかった彼の眼を大きく開かせた。しかし、当時の東京教育大学には版画の講座がなかったために、廖は北岡文雄、星襄一などのもとに通い個人的に教えを受けることになる。1963年には日本版画協会展に出品、また、同年のサンパウロ・ビエンナーレには《墨象連作A》が入選する。廖修平の版画家としての第一歩は東京から始まった。
1964年冬、廖修平は日本からパリに向かった。廖修平に先立って、陳錦芳と謝里法がパリに来ており、3人は毎日のように連れ立って画廊とカフェを廻り、自ら「三剣客」と称していたという。後年、彼らは基金を設け、後進のパリ留学に対し奨学金を給している。翌年、廖修平はパリの藝術学院に入学、シャステルの下で油彩を学び、サロン展に出品した《巴黎旧牆》で銀賞を獲得している。しかし、シャステルからは「東洋の伝統文化の特色を描くことに努める」ように忠告を受け、彼の作品の方向性が定まっていった。一方で、秋からはヘイターの主宰する版画17工作室で本格的に版画の各種技法を習得した。1968年、当時のパリは学生運動が盛んで様々な困難が生じたことから、廖は世界美術の潮流の中心となっていたニューヨークに移り、プラット版画中心で研究を重ねることとなる。
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