(圖片來源:《廖修平─版畫油畫‧福華人生》,台北:沈春池文教基金會,2009)
《台湾の心.台湾の情─廖修平.江明賢二人展》,東京:渋谷區立松濤美術館,2009。
瀬木慎一
日本との関係
廖修平は台湾の現代版画と絵画を代表する作家であり、その活動は国際的である。そして、そのなかにわが日本がかなりの比重で含まれている。第一に、1962年からの2年間、東京教育大学で学んだこと、そして何度か個展をおこない、日本版画協会の展覧会に出品し、70年の東京国際版画ビエンナーレ展で佳作賞を受けていることなどが挙げられる。その仕事を評価した批評家の文章も、当然、幾つか発表されている。
今回のこの展覧会は、主として画家としてプロフェッショナルな活躍をはじめる前後からの版画作品が並べられている。その段階で、彼は世界を知るべく、パリに赴いてヘイターのアトリエで版画を新たに習得し、さらにニューヨークへ渡って、ニューヨークのプラット・インスティチュートで研究を進める。そして、再び、彼が日本へやって来るのは77年だった。この時期、かつて学んだその大学は筑波大学へ発展し、彼自身も大いに成長して、今度は教師の立場で身を置くことになった。まことに珍しい例である。
初期作品
ところで、彼がこの国に再度やって来る以前、すなわち1977年に至るまでの初期に制作した作品は、12点をここで見ることができる。つまりほぼ40歳になる前の所産である。
年次から言うと、62年のものがもっとも早く、76年に及んでいる。それらを一覧して目に付くのは、「廟」を主題にしたものと、もうひとつ、祭礼、節季を描いたものである。どちらも自分の生まれ育った土地に直結する題材である。この間、彼は東京、パリ、ニューヨークという三つの都市のある国で、その周辺を含めて旅行、生活していたのだが、この限りでは異国の題材は、ほとんど取り込まれていない。日常的、風俗的な事物は、およそ、画家としての関心の外にあった、と言って差し支えない。このことによって、この画家がナショナルな、あるいはドメスティックな志向の持ち主であると決めこむことはできないし、その理由もない。それとは別に、彼と母国である台湾について考える重要な素材がこの一群の作品に含まれているように思われる。
環境と思想
何よりもまず、「廟」であり、それによって私たちが直ちに思い浮かべるのは中国の典型的な建造物である。周知のように、それは孔子廟を始めとして、この字の付く社(やしろ)は無数にあり、道教や儒教において祖先や偉人の霊を祀る「みたまや」に他ならない。転じて御殿や朝廷を指すこともある。
中国とは海を隔てた島で、原住民である高山族を除くと、古来、大陸からの代々の移住者が住民となった経過から生活環境に共通するものが多く、なかでは間近な福建省系の人々が多数を占め、文化もまた継承されていると言われている。
そうした土地に生まれ育った彼は、この「廟」を主要なテーマとして取り上げ、その正面、門、壁面を描き、それに関わる幾つかの器物を描いている。《太陽節》、 《東方節》、《陰陽》は言うまでもなく、76年の《静物》とある作品もまた、祭具の置かれた祭壇のすべて宗教的な題材と見ることができる。
それらを通しての特色は、対象に対する描写の正面性とそれに伴う絵画空間の平面性であり、この特色はその後にも連続することになる。ここで核心となるのは「陰陽」(いんよう)という信仰で、後漢時代に広まったこの神仙思想は、老子を始祖とする道教の母体であり、現代にも存続して、その宇宙観には、わが日本でも古代以 来、共鳴者少なくない。
それがこの画家の心裡に通底し、さまざまな形で画面に現れている。《陰陽》と直接に題されている一点と《福禄雙全》のもう一点は、その基本的思想である「陰陽五行」、要約するならば陽(太陽)と陰(月)の二気に基づいて、火土金水を配列し、その動きによってすべての現象や関係を説くこの原理の表意である。この思想が形どられた門が主題となっている《廟》と《門》は、その先に導かれる別世界への祈りの表現に他ならない。そして、この思想からは、様々な文様が生まれて、《門》では「喜・寿」が、《鏡》では「避邪」が表意されている。そしてそれらは後々の作品にもしばしば現れる。
1980年代の変化
これを原点として発展する彼のその後の軌跡をたどると、前記したように、筑波大学で教育に当たった後、勇躍、一人のプロフェショナルな画家として、アメリカにもう一つの拠点を築くと共に、自国に近接する香港から大陸へとさらに活動を広げる。この展覧会に並ぶのは、82年からの作品で、86年までの4点がある。それらに現れている変化はかなり大きく、《歳暮憶往》は引き続く前記の道教の器物である。ところが、《日正當中》“High Noon" と題する1点では、白く簡潔な窓状の形象の前に4個の梨が並び、珍しく明調になっている。これはニューヨークにおける制作で、モティーフとなっている梨もいわゆる西洋梨だそうだが、よく見ると、2個1対が擬人的に並んでおり、偶数とシンメトリーを尊重する道教の原則とけっして無縁ではない。
作風上のもう一つの変化と見られる《木頭人》“Manikin(人形)” と題する2点も、パリやニューヨークの街頭で見かける素朴な人形劇に取材した、これもまた珍しく動きのある明調の表現であり、この方は当然のこととして明らかに人間的である。これらを見ながら、ここで気づくのは、特に色彩における基本5色の全般的な使用で、赤黄青と白黒もしくは金銀がほとんどの作品に必須のものとして配列されている。
1990年代の発展
90年代になると、上記の顕著な変化から何が生じるのか。92年から97年の4点では、一見して画面には当初の正面描写による平面性が戻り、題材もまた、《園中雅聚》はガーデン・パーティーの意味ではあるとはいえ、大小のボトルを3個ずつ左右に併置する静物画風の描写を以て、人間世界のバランスを示し、《四季之敘》 “Seasonal Chat” の2点もまた“Chat(お喋り)”と題されているが、そこにかもし出されている雰囲気は語感とは反対に荘重である。香炉と茶器が描かれているのみで、人物はなく、中国では幸福のシンボルとされる蝙蝠(こうもり)を反語的に形どった背景と無色の背景とを対比し、その上で、金と黒、黒都銀の対比を四組の画面の組み合わせによって粛然としている。《四季》は、器物を前にした装飾面が高められて反 対に華麗を極め、この画家がもつ色彩語彙が駆使されているが、留意すべきは、その装飾面の抽象的に目に映るものが、それもまた、陰陽説の文様以外のものではないという事実である。
ところで、その作風が99年の3点《結》と《默象》に及ぶと、がらりと変化し、画面はほとんど暗色を帯びるに至る。背後に陰陽五行の図像が掲げられて、大小の容器が併置する《默象》が示唆するとおり、《結》もまた、人間世界の弛みない相互関係を示唆する修飾不要の荘重な表意的イメージである。このように見ると、すべての作品に何らかの含意が感得されて、いかなる絵画も表面だけで即断してはならないばかりか、この表意性が、現代絵画には稀なこの画家の特徴と言うことができる。
2000年代の作品
今世紀に入ってから、ということは2000年以降の作品であるとして、ここの展示されている範囲では、2007年のキャンヴァス絵画が1点展示されている。それ以外は版画である。ただ特異なのは、その内の4点が紙面になされたコラージュ作品であり、それらを立体化した作品と共に、全体が一組で展示されていることである。この種の制作を彼が以前にもおこなっていたかどうかは知らないが、ここに作者の最近の関心が集中していると見ることができる。
まず、版画について述べると、《生活》2点と《希望の門》3点は、初期の形態の発展で、門あるいは壁状の構図に基づく表意的イメージの整然とした提示である。その語彙を「三連屏」、日本風に言えば三幅対の屏風形式に集約、拡大したのが前記のキャンヴァス絵画の大作《富臨門》(2007年作)に他ならない。
ここで真新しいコラージュ作品をどう見るかである。ただし、いささか説明が必要なのは、そのなかの4点が、それらの画像を転化した併用版による版画であることである。具体的に言うならば、《困境》と《今夕何夕》は《鎭》の、《源》は同じく《源》と 相対する関係にある。もう一つ加えると、《祈》もまた、この《源》のヴァリエーションと言えるだろう。
希望への希求
この説明で明白であるように、上記の一群の中核となっているのは、紙面になされたコラージュの5点である。その制作技法は、主として、油彩と金箔と、作品によっては鉛筆描きも加わって いる。題名としては、単に《ドローイング》とある他は、《源》と《鎭》が掲げられている。《源》は源泉や水源の意味であり、希望の萌芽を指し示し、《鎭》は英語では “Trapped” とあり、多義的であるが、囚われからの解放を意味すると言う。
この一連における表現の中心は、手の形をした小立像が集合体で何事かを懸命に訴えていることである。そしてそれは、最後に並ぶ2008年の最新作へと及ぶ。
注目されるのは、版画を背面にした椅子の上に、この立像の一団が、素材と色彩を変えて配列されて、いっそう熱烈に意思表示をしていることである。題名としては、《無語》は文字通り “Speechless” であり、《問天》は祈りである。
それらの造形が無語を以て切実に問天し続けるものは、ひたすら希望の具現であるように思われ、それが、取りもなおさず、作者自身の私たちに対する芸術的メッセージに他ならない。
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