「ガイジン」vs.「外国人」

日本に長く住む外国人からよく聞かれるのが「どんなに長く日本に住んで、日本語がうまくなっても、自分はいつまでも『ガイジン』だ」という嘆きではないだろうか。つまり、外見が異なるだけで、いつまでも「外人」という目でみられ、日本人と区別されるということだ。どの国でも大なり小なり自国民と外国人の区別はあるものだが、日本では外見のみでその区別をつけようとする傾向が強いようだ。また、「みんなと同じように」や「人並みに」など、とにかくまわりの人と同じようにしておけば問題がないという考え方が主流となっている日本においては、外見が異なることが、いろいろな面で人々の心のバリアを生む要因となっている。長く日本に住み、日本語をマスターしたと思っているのに、「外人」と言われ、いつまでも特別扱いをされればそれはやはりつらいことだろう。「外人」は日本人が自分たちとは異なる人々を排除するといった排他的な意識を表した差別用語である、と考える外国人も多いようだ。

この「外人」問題であるが、多く人が「外人」と聞いて思い出すのはいわゆる「青い目の白人」ではないだろうか。また、アフリカ系の人々を思い出す人もいるかもしれないが、日本人と同じような顔つきをしたアジアの国々から来た人々をイメージする人は少ないだろう。これこそ、日本人の西欧崇拝が生んだ問題といえる。つまり、アジアの国から来ると「外人」という特別待遇は期待できないことになる。一般的には顔をみて、「外人」でないとなると、日本人と同じように日本語を話し、日本文化の文脈に沿って行動することを期待される。ところが、それができないとなると「なんだ、そんなこともできないのか」とか、「どうしてそんなことわからないのか」とその人を責めるような態度をとる。つまり「外人」らしい顔形をしていれば免除される「日本的行動」が免除されず、それに従えないと「ばか呼ばわり」されるという不当な扱いを受ける。また、キャンパスなどだは「外人」らしい風貌の留学生はちやほやされるのに対し、アジア系の留学生は外見が似ていることも手伝ってか、「ほっておかれる」ことも多い。21世紀に入り、東アジアの国々との結び付きはますます強くなってきた。そろそろ、「外人」には羨望の目を向け、「外人以外」には知らん顔という情けない態度を改めたいものだ。

エスニック・ネットワーク

日本に移り住んだが、日本社会の閉鎖性もあり、思ったほど居心地がよくない状態が続いている人々がかなり多い。自衛策として特定の国や地域からやってきた人々が同じ地域に集団で住みつく「外国人集住」現象が各地で起きている。例えば、日系ブラジル人は職場の関係もあり、愛知県や群馬県などに集中して住み、子どもたちのため学校、食料品店、放送局を運営したり、あるいは新聞を発行したりしている。移民に対する数々の研究によれば、これらのネットワークの存在はカルチャーショックを和らげ、移住先での適応の一助となることがわかっている。

ただ、問題は集住が進みすぎると日本人との関わりが一切ないままで済んでしまい、お互いに没交渉で偏見をもち合うということになってしまうことであろう。しかし、最近では池袋や新宿などのように外国人が集中している地域で、何十というボランティア団体が生まれ、日本人と外国人がともに協力し合って「共生」のためのさまざまな改善策が練られるようになってきた。1995年に起きた阪神淡路大震災でも、阪神間に住む外国人は一時孤立無援状態であったが、日本人ボランティアの救援活動と相まって、外国人も動き出し、各国語によるFM放送や電子メール、チラシなどの相互に連絡し合い、助け合った(松田、1998)。このようにして、日本の市民と外国人が普段着の付き合いを通して理解し合うなかで、お互いに居心地のよい生活ができるようになってほしいものである。

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