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組物については、なおその意匠的な面も述べておかねばなるまい。東塔の組物を構成する部材は、いずれも寸法が大きく、かつのびのびとしている。肘木には上端に沿って笹繰をとっており、またその下端曲線には、舌と称する小さな造出しがある。舌もまたこの塔以外には法隆寺において見出されるだけのきわめて初期的な特徴の一つにかぞえられる。このほか、手先の出が各重でまちまちであり、ことに三手目がきわめて長いこと、あるいは尾垂木の先端に反りや増しのないことも、天平時代らしい古風を示すものである。なお、初重組物間の中には、間斗が入る。

組物の上の垂木は二軒であって、地垂木は断面円形であるが、しかし細かくいうと、当初材のうちにも隅丸方形に近いものもあって、かなり不規則である。木口には金具を打付けた釘孔が残っている。飛檐垂木は断面方形である。天平時代の建物としては驚くほど多くの材を残してはいるが、しかし大部分の垂木は送り出して、先端を切っている。木負・茅負はどこも明治の修理に取替えられており、隅木も一部古い材が存在するにすぎない。浅野清の推定によれば(註19)、軒反りは遠望した外観では、現形と大差ないものであったと考えられるが、細かくいえば、木負の先端の反りが強められ、飛檐垂木の傾きがゆるめられ、かつ細められて軽快な姿となり、さらに木負の背が高かった、等の変化が考えられる。屋根は当然、垂木直上に土を置いて葺いたと考えられるが、今では、野垂木を重ねている。しかし大きくいえば、軒の懐の薄い古調がよく伝えられている。

以上で初重主屋の軸部から屋根までを終った。つぎには二重に移るのであるが、初重に等しい部分はなるべく省略し、異なるところだけを述べたい。

柱は初重垂木上に置かれた柱盤から立つ。頭貫・台輪・裳階垂木掛けの制は初重に同じであり、内転びの存在も考えられる。柱中程の二段の貫は明らかに後補である。つぎに内部の四天束は、初重四天柱上方井籠組位置で、垂木上にのせた柱盤から立つ四本の角柱であって、かなり強い内転びをもって立ち、頂上には大斗をのせて、組物通肘木の交点を支持するのである。束間の貫は後補に違いない。組物は間斗束を欠く以外、初重とまったく同じであり、内部でも、四天束上の大斗が直接通肘木交点を嚙んでいて、三斗組を省略している以外、これまた等しい。ただし手先の挺出は初重に比べて短い。軒についても、初重とまったく同様のことがいえる。

三重主屋の軸部は柱盤から立つこと二重に同じである。ただし、三重には柱の内転びを示す痕跡は見出されない。柱途中の貫は三段あっていずれも後補、最下段は裳階床のため、他の二段は裳階繋梁の処理のため入れたものである。組物は平組物が各辺中央にくるため、通肘木は心柱に遮られて貫通することができない。また四天柱に相当する部材もまったくない。そこで、左義長受けとなる束を下部にのばして、内部で通肘木押えとし、さらに尾垂木尻をも留めている。組物の構成はまったく同じであるが、手先の出はさらに短い。ところで、このように組物の手先の出が、上にゆくにし たがい短くなるのに比べ、組物の立上り寸法は各重変化しない。そこで軒天井は、上 重にゆくにしたがい上向きの勾配を強めることになる。これを意匠上の効果をねらったと考える向きもある。

三重の軒も他の重と大差ない。ただしここでは、小屋の懐を若干造って桔木を入れているし、また露盤下には短い四天枠、すなわち左義長を組んでいる。桔木等は当然後世の補入であろうし、左義長も古くからあったかどうかわからない。

以上で初重から三重に至る主屋各部の説明を終ったので、ここで心柱に触れておこう。心柱は心礎上に根継石を据え、さらにその上に厚板を敷いて、そこから立っている。心柱は二本継ぎとなっていて、接合部には副木が付いている。心柱で興味をひくのは、二重裳階部分に相当する位置であって、ここで心柱に太い貫が通っている。この質には細い面がとられ、しかる貫孔の工作も悪いから、いずれかの時期の修理に当り挿入したものと考えるほかはなかろう。また、この貫のすぐ下(接してはいないが)には貫と直交して、心柱を挟むように二本の土居盤がある。これも前記貫と同時に挿入されたのであろう。なお心柱貫の少し上方には、小さな埋木が二カ所ある。おそらくいつか奉籠物を納入した穴をふさいだものであろう。

心柱の上部には青銅製の相輪が付けられる。相輪は露盤・伏鉢・平頭・擦管および九輪・水煙・竜車・宝珠からなる。このうち檫管に銘文があり、また水煙に飛天を透彫りとしていることは、よく知られる通りである。なお、露盤蓋板と伏鉢とは、昭和修理に際し新補材をもって取替えた。

以上で主屋を終り、つぎには裳階の各部について考察しよう。初重の裳階の柱は方柱で、地覆・腰長押・頭貫を入れ、柱頂近くには円形金具打の痕がある。もっとも現在の柱には内外入替えたり、隅柱を平柱に使ったりしているものがあり、後補も多い。組物は平三斗組で、笹繰や舌のあること、主屋と同じである。組物と組合される虹梁は内部にのびて主屋柱に差込まれる。組物間の中備は中三間だけ間斗束が立つ。軒は二軒で、地円飛角と定法通りである。屋根もまた懐のない古式を守っている。柱間装置の現状は、各面中央間板扉、他は白壁となっている。

二重の階は一重のそれとかなり趣きを異にし、まず主屋柱盤よりやや外方に置かれた盤上に組んだ腰組(二手、中備間斗束)と、主屋側柱内側に打った根太掛けとの間に 根太をかけ渡し、ここに裳階柱を立てるのである。これから上部は初重の場合とほとんど違わないが、ただ腰長押下に束が入ることと、初重では虹梁となるべき材が通肘 木になって反対側まで貫通していることとは相違する。主屋と直接連絡のない裳階の構造上の欠点を補う工作といえる。なお根太先端には高欄がのる。高欄も古式であって、明治修補材以外の架木は断面八角に造られている。

三重裳階も二重裳階とほとんど同じである。異なるのは、腰組中備の間斗束が中央間だけであることぐらいで、今は通肘木が途中でとまっているが、もとは当然相対する側まで通していたことが想像される。なお三重裳階では、柱が全部裏返されていること、隅木において飛檐隅木まで当初材が残存していることなどが注目される。

さて、裳階での問題は、その柱間装置である。各重とも中央間については、若干の疑問はあるにしても、だいたい現在みられるような扉構であったことは疑いないが、その他の間については、今は白壁となっているけれども、当初はすべて連子窓であったと推定されている。その根拠は、腰長押下に束が入れば、上は窓であるべきだとする一般論のほか、頭貫下面に方立を立てた痕や柄孔が見出されており、また二重・三重の主屋柱に風蝕の見出されることは、連子窓があったためと解されるからである。これらは日名子や浅野の研究によって明らかとなった事項であるが、しかしまだ壁を落して痕跡を徹底的に調査する機会にめぐまれないままの成果であるから、そこにはなお、隔靴掻痒の感がある。

つぎには初重内部の荘厳にふれよう。初重は折上天井が張られ、四天柱頂の位置において、平らな組入天井となる。このうち四天柱内の部分の天井は、材料も新しく、裏板に文様もない。これはもと東西両塔に、釈迦の八相成道の相が安置され、東塔には因相の入胎・受生・受楽・苦行の四相が、あたかも法隆寺五重塔内のように造られていたためと思われる。現在のように須弥壇を造ったのは、正保修理時のことである。

主屋庇の組入天井裏板と折上支輪裏板および裳階の垂木裏板には、白土地に極彩色で宝相華文様を描いている。ただし四天柱内の組入天井裏板だけは白土塗だけである。裳階垂木裏板は本来のものの下に打付けた薄い板に描かれているが、文様の様式からみて、後補とは思われない。

ここに用いられている彩色文様のパターンはつぎの五種類である。その一つは主屋の天井裏板にあるもので、四間を一組にして、中央に八弁花を置き、弁間にそれぞれ小弁をのぞかせ、その外方四隅には宝相華の側面形を配して四間一輪の大きな花文をつくっている(組入天井格間の奥行が各面三間であるため、外側の一間の列は花文の半截形を描く)。その二とその三は主屋の折上支輪裏板に交互に配されている宝相華文である。どちらも宝相華一枝にそれぞれ荷葉の側面形(両端を除いてほとんど葉裏だけを描く)一個を加えて構成されている。その二は頂上に実をもつ花を描き、その三は実をもたないかわりに中程の荷葉の下に五弁の小花を配している。この小花は茎の左に置かれる場合と右の場合とがあり、両者を交互に並べるのが原則であったようである。その四とその五階の屋根裏板に交互に配され、宝相華一枝に荷葉二枚を加えたものである。このうち、その四は荷葉の側面形一枚と斜めの位置からのもの(葉の表裏を半々くらいに描く)一枚とを加え、その五は荷葉の側面形二枚を加えて構成される。どちらも頂上の花は実をもたない。主屋支輪板のものに比べると空間は狭長で、宝相華の茎の伸び方は彼のゆるやかさに比して勁直である。

彩色は白土地にまず朱で文様の輪郭線を描き、そのなかを、緑青・朱・紫土などの顔料を用いて三段の繧繝で填めるという、天平時代に多く行われた唐式の彩色法に従っている。

支輪板の宝相華文様は、法隆寺金堂天蓋(中ノ間・西ノ間)、同橘夫人念持仏厨子天蓋のものが、半バルメット系の葉文と蓮荷葉とを混融したものであったのに対し、宝相華文を主としてこれに荷葉を加えたものに変っている。その点では唐招提寺金堂文様への傾向を感じさせるが、大柄な花葉の配し方は法隆寺系のものにやや近く、モティーフとなっている植物に対する描写も同様に観念的である。唐招提寺金堂の写実的で細緻な描写とは大きな隔たりを感じさせる。天井板の花文は、四間一輪とすることのほか、中央八弁花の花弁の先が尖り、しかも橘夫人厨子のように対葉花文にはつくらず、弁端の返らないところは法隆寺五重塔の天井花文に通ずる。法隆寺の他の例では弁端が前後に大きく折れ返り、したがって全体は円形に近くなっている。宝相華の側面形を四方へ加える配置は、正倉院の各種の錦にやや近い例を見出すことはできるが、むしろ四間を一単位とする正方形の枠に合せた特殊な文様構成とみるべきであろう。このように方形枠の中心に円形花文を置き、対角線の方向に花葉を配する方式は、当寺金堂薬師如来台座の框にみられるところと共通するものを感じさせる。

最後に、この東塔についての大問題は、やはり何といっても、塔そのものが移建されたか否かであろう。この点に関し、昭和修理を機会に、日名子による新しい見解が示された。『修理報告書』には、(一)巻斗に木口斗と平斗があり、不規則に配置されている。(ニ)肘木は笹繰.舌の有るものとないものがきわめて不規則に並んでいる等のことを挙げるに止まっているが、福山への談では、斗や虹梁の曲線の性質や寸法の大小によって二種ある、としている。はたしてそうならば、移建説に有利な材料となるであろう。そこで、われわれは、追試的に若干の実測を行った。(註20)その結果、
一 初重裳階の繋虹梁については、断面が小さく、かつ主屋側の曲率が強いものと、断面がやや大きく、裳階側で曲率が強いものの二種あることは判明した。しかしなお、中間的な段階のものもあり、両者の差は年代の差であると積極的にいうこともできず、同時製作の折の誤差を越えるかどうか、にわかに定めがたい。
二 笹繰等の不規則なことは認められるが、材料からみて、それが製作年代の差に結びつくとは思えない。
三 斗や肘木の相当部分を測定した結果では、部材寸法のむらがかなり大きく、ある部分では分布曲線が二つの山を描くこともある。しかし、たとえば、斗の丈と見付幅等、いくつかの数値を組合せ考察した場合には、二グループの材に分けうると判断できることはなかった。
四 木口斗と平斗については、まだ調査の手が及んでいないが、『修理報告書』の写真でみるかぎりでは、平斗はむしろ平安時代頃の補加材ではないかと思われるふしがある。
等と考えられる。しかしなおこの問題は、調査研究の要があろう。

以上述べてきたように、柱・組物の形は天平十一年以前と認められる法隆寺伝法堂前身建物、天平十一年頃の同夢殿、天平十九年以前と考えられる同東大門・食堂・経楼などと比べて、明らかに古い様式を示している。天平初年の興福寺の建物が残っていないので、確言はできないにしても、本薬師寺との平面の類似からいって、古様を残すものと考えられよう。

したがってこの東塔は、白鳳時代の様式を伝える唯一の実物の建築であり、そのうえ、卓抜な意匠を示す日本建築の至宝であり、その美しさ、見事さは、最高の讃辞を捧げてもなお足りることを知らぬであろう。

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