東塔
三間三重塔婆 各重裳階付 本瓦葺
東塔は薬師寺伽藍のなかで、金堂の東南方に位置し、西の西塔跡に相対している。伽藍の復原図を描いてみると、東塔は回廊内のかなり東南隅寄りに建っていたことになる。
東塔の建立年代については、古くから二つの説がある。その一つは、平安時代以降の記録を信頼して、天平二年(七三〇)の建立とする説である。(註1)これに対する説は、様式から推して、白鳳時代、すなわち持統・文武朝の建築であるとする。この両説は、当然、この塔が平城京内の現地において新築されたものか、あるいは本薬師寺からの移建であるか、という問題に帰着する。
移建説のうち、古く関野貞や天沼俊一が唱えた説(註2)は、移建に際し塔の構造形式を変更した──移建の時、裳階を加えたとか、もと五重塔であったのを現在の姿に改めたとか──という内容を含んでいるが、これは現在の部材の状況などからみても、まず 不可能な推測といわねばなるまい。大岡実は、移建説をとったこともあったが、近年では平城京新築説になっている。(註3)しかし大岡が常に強調しているのは、薬師寺の建築様式が特殊であるという点にあるのであるから、建立年代だけを厳密に議論してはいない。同じく移建説を唱える人に福山敏男がある。(註4)福山が本薬師寺の塔を移建したと 主張するのは、日名子元雄によって唱えられた部材に二種あるとの説に基づく。(註5)しかしこの日名子の観察結果については、後述するように問題点が多いから、それによっ福山説についても、にわかに賛意を表することができない。
つぎに非移建説、すなわち平城京新築説は『七大寺年表』以下の諸書にみえる「天平二年はじめて薬師寺東塔を建つ」との記事を率直に解することに始まり、『縁起』に引く『記』に「宝塔四。二口在本寺」を根拠とするものである。この説を主張したのは、喜田貞吉(註6)、足立康(註7)で、最近では福山を除いては、建築史家はだいたい、この天平二年新築説に傾いている。それは、平城京における薬師寺造営が、養老二年(七一八)に始まったとして、それから天平二年までの間は、一三年であるから、造営期間として不自然ではないからであり、さらに基本的には、いわゆる飛鳥・白鳳の建築の実年代をかなり後にずらして考えることが、ほとんど抵抗なく受け入れられるようになったことが、底流としてあるからであろう。大岡が言っているように、伽藍配置が特異な、過渡的な様式を備えており、しかる平城京においてそれが踏襲されたことから考えて、建築様式そのものも、旧様を伝えたとみてよいであろう。要するに天 平二年新築、ただし様式は古風、というのが、今日の大勢を占めている。
東塔の建立後今日に至るまで、二回にわたる火災にも延焼の危に遭うことなく、千二百年を無事したことは、まことに幸運といわねばなるまい。薬師寺は古い記録が失われているため、修理の記録は僅少である。最初にあらわれる修理は「南无阿弥陀仏作集』の「奉結縁」の条に薬師寺の名がみえるもので、東塔かどうかは明らかでないが、当然この頃(鎌倉初期)修理があったろう。文献にみえる被害の初めは康安元年(一三六一)六月二十四日の地震で、この時は東西両塔のうち、一基は九輪が落ち、一基は大いにゆがんだ。(註8)つぎに文安二年(一四四五)六月二日の大風では、金堂や南大門が倒壊したほどであるから(註9)、塔にも被害が及んだであろう。そこで大永四年(一五二四)には、その復興の勧進状が作られている。このなかには、東西両塔は九輪が傾き、如来八相の塑像がひどく傷んでいることが述べられている。(註10)なお、享禄元年(一五二八)には筒井順興の乱によって、長い間相対していた西塔が焼失し(『薬師寺年記』)、その後東塔は天文の大風で破損し、修理されている。(註11)つぎに江戸時代になると、寛永二十年(一六四三)に修理の計画を立て(『中下臈集会評定』)(註12)、正保元年(一六四四)から、郡山城主本多政勝が修繕を行った(註13)。この時に初重内部の八相像を取払ったらしく、四天柱間には木造の須弥壇が正保二─三年に造られた。(註14)なおこのとき軒を二尺切り縮めたと文化の「願書」(註15)にあるが疑問がある。さらに宝永四年(一七〇七)に地震で破損し(註16)、天明三年(一七八三)、安政三年(一八五六)にも修理があったようで、二重目の四天東に棟梁の名が記されている。(註17)また文化年間にもかなりの修理を行っている。(註15)明治になって、三十一年十一月から、三十三年五月までの間に解体修理があり、昭和二十五─二十七年には、屋根の葺替や相輪の一部改録が行われた。これらが沿革の主なものである。
薬師寺東塔は、各重袋階付という珍らしい構造形式をもっている。このことは、『縁起』にも記されており、竜宮の様を写したと伝えるほどであるから(『三宝絵詞』)、古くからよほど特異な姿とみられたに相違ない。その大小屋根が交互に出入りするさまは、人びとに幻想的な思いをかき立たせるに十分であった。塔の平面は一辺一一.四五mあり、また高さは三四・一三m(すなわち一一二・六五尺で、古記録にいう一一丈五尺とまったく相等しい)、三重塔としてはまれにみる大きさと高さである。
塔は、一辺約一四・五m高さ約七六㎝の花崗岩製壇上積基壇の上に建っている。現在の基壇は比較的広く、かつ低いものであり、石村も新しい。昭和四十四年に行われ西塔周囲の発掘結果によると、現地表下に花崗岩製の旧の部が残存している。それから考えると、西塔の基壇の規模は方一三・三mで、高さは一・五mあったと推定される。東塔の基壇は調査されたことはないが、西塔のそれとまったく同じであろう。要するに当初の基壇は、現在のものよりも狭く、かつ高かったわけである。基壇には、西面に階段が付いており、基壇上面の舗装には、凝灰岩敷石を布に敷いている。ただし建物外部は昭和修理後花崗岩に改められた。
礎石はいずれも花崗岩である。塔中心の基壇面位置に据えられた心礎は平行四辺形に近い形をしている。現在はこの心礎上に根継石をのせているので、心礎上面の工作 は見ることができないが、本薬師寺では東塔に舎利孔があって、西塔にはそれがないのに対し、平城の薬師寺では逆に西塔に舎利孔があることから考えて、東塔心礎には舎利奉安施設はなかろうと想像されている。四天柱と側柱の礎石は方形で、方形の柱を造り出していて、本薬師寺の場合と異なり、地覆座を造り出すものはない。裳階柱の礎石は、本柱のものよりも小形で、方形柱座および地覆座を造り出している。
東塔の平面は主屋と裳階に分かれる。主屋は初重・二重各方三間で、初重では柱筋を通して四天柱が立ち、二重では内部に内転びの付いた四天束がある。これに対し三重は方二間で内部に柱はない。これは平面が極端に小さくなっていて、初重や二重と同じように扱うことができないためである。この主屋に対し裳階が付属するのであるが、初重では裳階柱は主屋の柱筋に配されるので、各辺五間となる。しかし二重や三重では、裳階は方三間で、その柱筋は主屋の柱とはまったく無関係に、柱間が等分になるように配されている(これは後述する構造のためである)。
このように、構造がすべて主屋と裳階に分かれているのであるから、両者はいちおう別々に考察することができる。まず主屋についてみると、初重の柱は、四天柱・側柱合せて一六本からなっている。どの柱も円柱で、その形態は、上部を細めた胴張を持っている(初重柱高さ一五五三一一五・七一尺に対し、約二・ニー三・二寸細くなっている)。この胴張は天平時代の他の例に比べるとかなり強いが、しかし法隆寺金堂塔などのように、上下を細めた強いものではない。ここに過渡期的な性格をみることができよう。柱は四天柱側柱ともに同長である。これは、建物を母屋とに区別せず、全体をひとつとみる塔独特の構造に基づくことである。
柱にはその頂上に頭貫が渡され、台輪がのる。台輪は古代においては、普通の建物には用いていないが、塔には必ず用いている。これは構造上の配慮によるものであろう。なお台輪外面には、柱位置に飾金具を打付けた痕跡がある。つぎに側柱には頭貫より下に貫が三段插入してある。そのうち最下段のものは、断面も他と異なり、一見して後補とわかるが、他の二段は古くからのものである。というのは、この間が裳階屋根の懐に相当し、それを隠す小壁が造られているからである。小壁には束が立つ。なお上段貫内側には天井回縁が、中段貫外側には裳階垂木掛けが、それぞれ長押状に取付く。なお現在、柱は垂直に立っているが、かつては柱の内転びがあったのではないかとの指摘がなされている。(註18)
組物は三手先であるが、しかしこの三手先は、唐招提寺金堂以下にみられるような整備された形ではなく、まだ初期的な姿をしている。薬師寺東塔を、白鳳時代風の建築様式とする説の最大の理由がここにある。組物は、台輪の上に大斗が置かれ、これに壁付、手先(内外)と十字形に枠肘木を組み、方斗・巻斗を置いてこれで通肘木を受ける。通肘木はもちろん壁付方向に通るが、これと直交する材も、内部に向ってはずっと長くのびて、塔内を貫通し、反対側の組物に達するし、外部に向っても、二手目の斗を受ける長い肘木となるのである。この通肘木の交点上に、さらに斗・肘木・巻斗からなる三斗組が組まれるが、今度は壁付方向だけであって、肘木と直交する材は通肘木となり、内部ではやはり塔全体を貫き、外部では二手目の斗までのびる。このように三斗組を二段重ねてできた組物を支点として、尾垂木がかけられる。尾垂木の尻は内部四天柱上方にあり、斜めに下って、先は二手目の斗にかかり、さらに挺出して、最先端近くで平三斗組をのせ、丸桁を受けるのである(丸桁といっても、その断面は方形である)。壁付の上段通肘木から丸桁にかけては、軒天井が張られる。しかし丸桁位置は元来自由にきめられているから、天井は水平にはならず、やや上向きに張られている。
側柱上の組物構成は以上の通りであるが、一方四天柱上の組物はどうなっているかといえば、ここは天井上の見え隠れ部分であるが、大斗を置き、三斗組を組んで、それから側柱から貫通してくる通肘木を二段受ける。すなわち組物の構成としては側柱上と同じものがくるのである。そしてこの四天柱上組物のさらに上部には、土居盤を井桁に組み、束を立て、さらに通肘木と同寸法の材を三段井籠組に組んで垂木を受ける。この井籠組に尾垂木の尻も組込まれている。
以上述べた物の構成をもういちどふり返ってみると、そこには二つのことが重点として浮び上ってくる。その一つは、この組物が壁付方向では三斗組二つ重ねという一般的形式をとりながら、手先において、二手目で左右に出る平三斗組を欠いているため、ここに通肘木が通らず、したがって、小天井および軒支輪という構成をとることができず、いきおい、軒天井を一面にかけ渡すことになっていることに注目したい。これはこの組物が未完成な三手先であることを示しているわけである。第二には、きわめて長い通肘木を二段も入れて、塔内を貫通している構造の特殊性も特筆しなければなるまい。思うに、この組物がこのような構成法を採用しているのは、塔という特殊な構造物であるからであろう。塔は平面が小さいのに軒の出は大建築に匹敵する深さを持っているから、組物部分は軒の垂下に伴い前方に傾く危険が大きい。通肘木を通すのは、このような欠陥に対する方策と考えてよかろう。
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