close

【引用】薬師寺の歴史-5

建築・工芸

伽藍

薬師寺は平城京の右京六条二坊にあり、六条大路に面して南大門を開く。寺地の広さは『縁起』(史料三)に、天平および宝亀の『流記』をひいて十坊四分の一とする。その内訳は五坊が塔・金堂井僧坊等院、一坊が大衆院、一坊が苑院、四分の一坊が花苑院、一坊が温室幷倉垣院、二坊が賤院となっている。平城京は一町(坊)ごとに道路で区画しているから、この四分の一町という半端が出るのは不思議なので、足立康は東に秋篠川(堀川)が流れているため、それとの間を寺地としたため端数を生じたとした。(註1)しかし、『縁起』には『新録』にいうとして「寺内十二町」とし、『縁起』の筆者も「今案ずるに垣内十二町」といっている。したがって、平安時代には築地内が一二町だったことがわかるが、それらには方位別に内訳を記しているので、福山敏男はそれをつぎのように表示し、四分の一町の花苑院は六条大路以南にあったとしている。(註2)

藥師21.jpg

この説は、天平時代の寺地を、別院を除いた一〇町と花苑院の四分の一町とするので、この方が足立説よりも妥当と思われるが、養老年間(七一七─七二四)に建てられた東院(東禅院)と、宝亀元年(七七〇)頃造られて小塔を安置した西院も、『流記』の寺地内に入れるには少しむずかしいようで多少不審が残る。あるいは福山のいうように、東院は薬師寺の宮や僧綱所があったので、寺地内の扱いをうけなかったのかもしれないが、また塔・金堂・僧房等院を五町とするのは「五の坪」までを含み、ここに東院があったことを示するのかもしれない。(註3)

この寺地の西南四町を占めて造られたのが金堂以下の伽藍で、東塔は現存し、西塔は心礎と基壇を残し、金堂も礎石と基壇は天平時代のものを残している。

現在の南門は慶安三年(一六五〇)に移されたものであるが、ここは当初の南大門のあったところで、これを入ると、中門があり、これから複廊が出て東西両塔と金堂を中に包み、講堂に達していた。

南大門は『縁起』に、五間三戸の二重の門で両脇間に獅子をすえ、長さ五丈、広さ三丈二尺と記すが、発掘の結果、正面中央三間各一八尺、両端間各一六尺、計八六尺、側面は二間で各一六尺、計三二尺(天平尺)で、その中心は現在の南門と一致することがわかった。(註4)これでみると、桁行寸尺にいちじるしい差があり、天延元年(九七三)の火災後、縮小再建されたのかとの疑念も持たれたが、発掘の結果では変更された証拠は見出されていない。なお『縁起』によると、火災後の再建にあたり、金剛力士が造られており、時代の風潮を示している。

中門は『縁起』に五間三戸一重で、長さ五丈一尺、広さ二丈五尺、二王・夜叉形等、合せて一六体があったという。発掘の結果では天平尺で南大門の中心から中門の中心まで約九〇尺、柱間は正面中央三間各一七尺、両脇各一五尺、側面二間は各一二・五尺で、八一尺に二五尺となり、『縁起』の寸法と非常に相違するが、『縁起』の寸法は火災後再建された中門の規模を示するのかもしれない。(註4)

回廊は中門から出て講堂に連なる。戦前の研究ではいずれも単廊とされ、講堂に連なることとともに、飛鳥─天平期の過渡的段階を示すものとされていた。(註5)ところが、発掘の結果、講堂に連なることは確かめられたが、単廊ではなく複廊であることが明らかとなった。(註6)柱間寸法は梁行一〇尺(二間)、桁行一四尺ほどで、東面・西面は二四間、南面二〇間、北面一六間(建物への取付け部を除く)となり、建物への取付け部を加えると、天延罹災後の国宛の間数と一致し、東西にやや長い形であることがわかった。ただこれもまだ一部の発掘であるから、細部については多少の変更はあろうが、従来の諸説より東西径が大きくなった。

金堂はこの回廊の中心に位置し、現在のものは昭和五十一年に復原再建したものであるが、前方の張出し部を除き、平面寸法は天平時代当初のままで、正面全長九〇尺、側面五二・五尺(ともに天平尺、階を含む)あり、階を除けば本薬師寺の金堂の大きさと一致する。当初の基壇(高さ約一・五mで、その半分は埋まっている)も、現基壇の内側に残っており、礎石や堂内の敷石も当初のものを残している。

立面は二重二閣、すなわち二重で各階付という他に類のないもので、垂木先には飾金具を打っていた。内部の仏壇は『縁起』『七大寺巡礼記』(史料五)によると、大変立派なもので、瑪瑙(白大理石)をもって葛石とし、瑠璃(ガラスか)を地に敷き、黄金で堺道(仕切り)を造り、高欄は蘇芳(熱帯産の木)を用い、天井の子は紫檀で、多く の飾りをもった天蓋を吊っていたという。この仏壇は火災のため失われたが、しかし白大理石の仏壇床はかなりよく残っており、古い石は移されて大宝殿に納められ、金堂内には新たに大理石で仏壇を復原している。この仏壇上には現存する薬師三尊のほか、十二神将が安置されていた。この内陣五間に三間は礎石に地覆石の造出しがあるので、壁あるいはとなり、閉鎖的に造られていたと思われる。『今昔物語』(註7)や『南都巡礼記』(註8)(『建久御巡礼記』)に金堂内には容易にはいれないと記しているが、この内陣部分を指しているのであろう。

講堂は江戸末嘉永五年(一八五二)に縮小再建されたため、礎石の位置は変っているが、位置はもとのところで、大きさは発掘の結果では『縁起』に記す長さ一二六尺、広さ五四・五尺とほぼ一致する。金堂が二重二閣であったのに対し、重閣と記されており、一重裳階付であったと考えられる。ここには持統天皇御願の高さ三丈の仏が安置されていた。なお平安時代の本尊は三尺の釈迦立像である(『七大寺日記』『七大寺巡礼私記」)。

回廊はこの堂の側面中央に取付き、講堂の後方には食堂と十字廊があり、食堂と思われる建物の基壇前面が確かめられている。食堂は『縁起』によると、長さ一四〇尺、広さ五四・五尺で、金銅半丈六の阿弥陀三尊を安置しており、天延の火災でも失われたが、再造されている。僧房と鐘楼・経楼については昭和四十五─五十四年に発掘が行われ、西僧房と経楼の規模が明らかになった(最終巻『西大寺』全の補参照)。

東西両塔は金堂の中心から一〇〇尺、伽藍中心線からそれぞれ一二〇尺の点に、左右対称に置かれ、東塔は創建のまま現存し、西塔は基壇と心礎を残す。

西塔跡(図版四八頁)には、万治三年(一六六〇)に文殊堂が建てられたが、昭和九年に撤去されたので、心礎の形状が明らかになった。中央に三重の円孔が彫り込まれ、昔利容器を入れる最下の孔には石の蓋がついている。各部の寸法は本薬師寺東塔心礎に酷似しているが、柱孔底面周縁に溝があること、湿気抜きの細孔があること、舎利孔に胴膨れのないことは違っている。現在心礎の外方にある礎石は古いものも残しているが、文殊堂建立の時に動かされていたもので、もとのままではない。基壇の発掘は最近行われ、その大きさと、高さが明らかになった。(註6)これによると、基壇の一辺は一三・三mで、東塔の現在のものより、約〇・六m狭くなる。また高さは約一・五mであるが、金堂と同じく土砂でかなり埋まっている。

なお金堂・講堂前には金銅燈籠があったが(講堂前のものは元慶五年の鋳造)、当初のものは失われている。


註1 足立康「奈良時代に於ける薬師寺の占地」(『考古学雑誌』二一ノ八)昭和六年

薬師寺の寺地について最初に論じたのは関野貞『平城京及大内裏考』(『東京帝国大学紀要』工科第三冊 明治四十年)で、「新録云。寺内十二町。東西三町。南北四町」をそのまま使っており、喜田貞吉も「平城京及大内裏考評論」(『歴史地理』一ニノニ─一三ノ五 明治四十一、四十二年)でほぼこれを認めている。足立説はこれが平安時代の広さであることを示し、『縁起』の錯簡を正して、天平時代には十坊四分の一であることを証したものである。

これに対し田村吉永は「薬師寺の地に就いて」(『史迹と美術』一九四号 昭和二十四年)で若干の補正案を出したが、村田治郎は「薬師寺占地の問題」(『史迹と美術』二〇八号 昭和二十五年)で、寺地の広さが時代によって異なったとしても、その内訳(地域の使い方)はそう変るはずがないとして足立説に反論を加えている。ただし、村田自身がつぎの「薬師寺と大安寺の占地」(『史述と美術』二四〇号 昭和二十九年)中に、この論文の主旨は福山敏男「薬師寺の規模」(『以可留我』特九号 昭和十四年)の結論を具体的にまとめあげたにすぎないといっているので、ここではつぎの注二の福山説によって叙述した。

註2 福山敏男・久野健『薬師寺』昭和三十三年 東大出版会

註3 福山は注二の著書で、東院堂も回廊のすぐ東、十二の坪のうちにおいており、近世の絵図でも比較的近くに描いてあるが、僧房まで備えていたのであるから、この位置に入れることは少し無理のように思われる。『流記』の数をそのまま正しいとすれば、五の坪までが伽藍地で、賤院は六.七の坪、十.十五が大衆院と温室・倉垣院、九.十六坪の南半分ずつが苑院と解することはできないであろうか。

註4 奈良国立文化財研究所『薬師寺発掘調査報告』(奈良国立文化財学報第四五冊)昭和六十二年

註5 薬師寺伽藍の復原には、つぎのものがある。
大岡実「南都七大寺建築論 二 薬師寺」(『建築雑誌』五一九号)昭和四年
注一および二の福山論文
足立康『薬師寺伽藍の研究』(『日本古文化研究所報告』第五)昭和十二年 日本古文化研究所
大岡実「薬師寺」(『南都七大寺の研究』所収)昭和四十一年中央公論美術出版

註6 注四の発掘でも中門両脇で複廊であることがわかったが、最近の発掘でさらに明らかにされている。
杉山信三・松下正司・阿部義平「薬師寺の最近の発掘調査」(『仏教芸術』七四号)昭和四十五年

註7 『今昔物語』巻十二
此ノ寺ノ金堂ニハ昔ヨリ内陣ニ人入ル事无シ。只堂ノ預ノ俗三人、清浄ニシテ旬ヲ替テ各十日ノ間入ル。其ノ外ニハ一生不犯ノ僧ナレドモ入ル事无シ。昔シ浄行ノ僧有テ、「我レ、此ノ三業ニ犯セル所无シ、何ゾ不入ザラム」ト思テ入ケレバ、俄ニ戸閇テ入ル事ワ不得ズシテ返出ニテリ。

註8 『南都巡礼記』「薬師寺金堂」の項
寺家別当ナヲ内へ入事ナシ

註9 注五の足立の著書参照。

 

arrow
arrow
    創作者介紹

    秋風起 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()