中世以後の薬師寺
鎌倉時代は南都六宗復興の時代であった。東大寺・興福寺の再興がほぼ終った十三世紀の中頃には、各寺とも堂塔の修理・再建が多く行われている。
薬師寺では建仁元年(一二〇一)に興福寺円玄が薬師寺修造功で律師に任ぜられており(『興福寺別当次第』)、金堂以下の修造が行われたのであろう。『南阿弥陀仏作善集(きせんしゅう)』の結縁の項には薬師寺塔がみえ、仁治三年(一二四二)銘の瓦があるので(「瓦」の項参照)、瓦葺替があったこともわかる。さらに東院堂の建立が弘安八年(一二八五)にあり(「東院堂」の項参照)、若宮社本殿が様式上、鎌倉時代と推定される。
しかし、室町時代に入ると、堂塔の罹災があいついで起る。
康安元年(一三六一)の地震では金堂の二階が傾き、両塔のうち一基は九輪が落ち、一基はゆがみ、中門・回廊・西院は倒壊した(『嘉元記』)(註19)。さらに文安二年(一四四五)には大風で金堂や南大門が倒れ(『大乗院日記目録』等)(註20)、金堂は立柱をすぐ行ったが、経済的にも不振の状態であったから、仮金堂を建てただけであった。復興のため勧進を行って努力してはいるが、それがはかばかしくなかったことは、朝鮮にまで援助を乞うていたことでもわかる(『善隣国宝記』等)(註21)。おそらく、わずかに東西両塔と講堂・東院堂などを残すにすぎなかったらしい。もっとも今の南門はもと西院西門で、永正九年(一五一二)の墨書銘があるから、まったく造営がなかったわけではない。
その後、永正十三年には西室・西院・養天満拝殿などに放火され、八幡宮参籠所を破却されるなどの災厄があったが(『薬師寺年記』)(註22)、最大の災害は享禄年間に放火のため、金堂・講堂・中門・西塔・僧房を失ったことである。この時の状況を『薬師寺志』には、
當寺古文書ニ云。享祿元年八月廿八日。筒井順興法印企謀叛。(中略)(九月)七日早朝(中略)大北方引退間。秋篠方無力。郡山ノ城へ馳入。其跡へ彼三人衆。自秋篠當寺へ馳入リ。金堂・講堂・中門・西塔・僧房。端端於在家者。自五條至九條迄。悉以放火。言語道斷之義。驚歎無極者也。寺衆皆以奈良中ニ隱居。八日早朝ニ立歸ル。
と記しているが、『薬師寺縁起国史』(以下『縁起国史』という)に引く「旧記」はこれを享禄二年(一五二九)五月二十八日のこととし、焼けた建物も講堂・中門・僧房は入っていない(註23)。足立康は、月日が慶長二年(一五九七)五月二十八日の金堂焼失説(『和州旧跡幽考』)と一致することから、享禄元年説をとり(註24)、福山も「旧記」(『薬師寺志』に引く『同 学鈔奥書』)の奥書を記した享禄二年に、前年の事件を回想して書いたのではあるまいか、としているが、(註2)『薬師寺年記』によると、享禄元年が正しいことがわかる(註25)。
享禄元年に焼失した金堂は早速造営にかかっており、現在興福寺に移されている旧金堂の大斗などの墨書によると、享禄四年番匠始と立柱があり、天文十四年(一五四五)に組物を組み、弘治三年(一五五七)に隅木をかけている(註26)。小屋組の部材は慶長に全部替えられているから、仮屋根的なものであったらしいが、堂はまもなく出来上ったものと思われる。なおこの間、天文八年には諸堂が破損し、修理が行われている(註27)。
金堂は棟木銘に「奉上棟薬師寺金堂 慶長五年(庚子)七月四日上葺造□御本願増田右衛門殿」とあり、慶長五年郡山城主増田長盛により瓦葺とされている(この金堂は昭和五十年に興福寺に移建改造されて興福寺金堂となっている)。なお、この三年後、豊臣秀頼によって八幡宮が造営され現存している(棟札)。
なお『薬師寺志』によれば、慶長二年(一五九七)北大門造立、慶安三年(一六五〇)南門、万治三年(一六六〇)文殊堂移建、延宝二年(一六七四)鐘楼堂建立、東院堂修理などがあり、元禄十二年(一六九九)の『現前諸伽藍并神社覚』によると、金堂・東塔・東院堂・文殊堂・鐘楼・大門・脇門・西院不動堂・同弥勒堂・仏餉屋・仏餉蔵・鎮守八幡宮・同回廊・同楼門・八幡若宮・弁才天社・養天満社・竜王社・天神社などの名がみえる。
その後、宝永四年(一七〇七)に地震で八幡宮や金堂塔に損害があったが(註28)、造営関係で大きなものは享保十八年(一七三三)に東院堂の基壇を高め、向きを変えたこと(『薬師寺沿革紀要』所引棟札その他)と、弘化五年(一八四八)から安政三年(一八五六)までかかって講堂の再建入仏を行ったことで、この時講堂本尊として安置された薬師三尊は、西院にあったものを移したものである(講堂「薬師三尊像」の項参照)。
その後、寺蔵の日記類によると、小修理はしばしば行われているが、大きな変化はなく、明治になって古社寺保存法制定以後、東塔・東院堂・八幡宮・同若宮・南門などの解体修理が行われ、金堂薬師三尊と台座・須弥壇の修理も行われ、最近、金堂は当初の姿に復原され、西塔の復原工事も進んでいる。
註19 『嘉元記』
康安元年(辛丑)六月二十二日卯時地震在之。(中略)同月廿四日。卯時。大地震在之。(中略)藥師寺金堂二階カタフキ破。御塔(一基ハ九輪落ヌ。一基ハ大ニユカム。)中門・廻廊悉顛到。同西院顛到。此外諸堂破損云々。
註20 『大乘院日記目錄』
(文安二年)六月二日。大風。薬師寺金堂以下顛倒。在々所々破損。希代事也云々。
『菅家本諸寺縁起集』薬師寺の項
去文安元(二カ)年六月二日。大風顛倒。本尊等大略破失云々。只彼金銅三尊許于今在之。御堂其後如形建立。為源家氏寺云々。
南大門
安金剛力士云々。同文安大風顛倒了。
『東大寺堂方方年中行事記』文安二年
□□(六月)二日。大風ニ薬師寺ノ金堂クツレ畢。折節。為祈雨。寺僧等□ヲヨミ侍ケルカ。公文所ヲ初テ。寺僧等以上四人当座ニヲシ打レ死了。(中略)同南大門コロフ。
註21 『東大寺堂方方年中行事記』文安二年
七月八日。藥師寺金堂棟上在之。
「大永四年勧進狀」(『薬師寺文書』)
南都薬師寺勧進沙門某敬白
請特蒙緇素貴賤之合力。再興当寺金堂并東西両塔之状
夫惟。不払妄雲難顕覺月。所以仏種隨緣顕諸法依心起。然則仏閣待人力之資。将遂修堂之大功。人間施仏乘之緣。須成現当之所願矣。抑当寺者。三代明王之叡願。而日域無双之伽藍也。七大諸寺之随一。而仏法繁栄之霊場也。鎮学法相之宗義。益玩因明之奥旨。顕密修練薰修異他者也。倩勘流記云。天武天皇奉為皇后除病延命。依奉鑄丈六藥師之仏像給。御惱即平癒。其後持統天皇於高市郡一寺有御建立。仏像經論等御安置云々。而彼地由因仏法久住。元明天皇御宇養老二年(戊午)移伽藍於平城京。今薬師寺是也。金堂者二重二閣。而高広美麗之精舍。宛如浄瑠璃世界之莊嚴。鎮守者八幡三所。而本地内証之威光。猶同安養浄剎之教主。仏神之利生。尤可足帰敬。因旃一度参詣之輩。親蒙衆病悉除之得益。七日祈精之族。忽預身心安樂之誓約。加之古老伝云。昔吉備大臣帰依本仏。転定業四十箇年。菅丞相毎月朔日有参詣。令執行仁王講一百座云々。先賢既致崇敬。後輩誰不渴仰乎。然去文安乙丑之曆。季月上澣之天。魔風頻吹来。金堂悉顛倒。時逮澆薄世。至劫末故也。於本尊者無其恙。脇士日光月光二菩薩然不能崩倒、大衆雖沈驚愕之愁。諸人傍成奇特之思。其年雖有立柱之儀。永拋営作。由送数十廻。夜霜屢湿大悲之膚。夕嵐時破忍辱之袂。悲歎尤切也。就中顧東西二基之塔婆。移如来八相之化儀。以淤泥造巖堀。聚土石為仏像。誠是聚沙為仏塔之功德無疑。一称南無仏之金言有賴者哉。雖然。同侵飈風。数覃地震。玉輪珠盤傾斜。金鐸宝網朽損。悲哉。土仏之尊容。雨打易破。衣座之衆色。露侵欲消。見聞之道俗。誰不傷嗟耶。爱某蒙十方檀越之助力。欲遂堂塔興廢之願望。冀懇志所及。莫軽小財。若奉加助成之輩。与善結緣之衆。現世誇無病長寿之巨益。当来遂往生仏国之素懷。乃至無辺群類同至覺岸而已。仍粗彻進之状如件。
大永肆年(甲申)八月日
『大乗院寺社雜事記』長禄四年四月十三日条
一。薬師寺金堂勤進捧伽加判事。信專令申之間。加判了。両門以下悉以令申云々。
『善隣国宝記』
文正元年丙戌 遣朝鮮書 綿谷製之
日本国源義政 奉書朝鲜国王殿下
両邦千里。雖阻溟渤。使者往来。猶如咫尺。苟有所須。必賜愈容。感幸之情。不可勝言。本邦京。有教寺。名曰藥師。比年堕壞。風震雨凌。殆泣竜象。於是一衆相与謀曰。產薄力微。無由重興。非求助於大邦。豈有他術哉。遂請以書為介。故遣正使融円。副使宗礼等。往論其意。儻得殿下之力。百廢一新。則豈非成東方一仏界耶。所謂浄瑠璃亦善隣之宝也。士宜信物。具于別幅。仲春漸暄。惟冀若時保愛。
竜集丙戌春二月廿八日
日本国源義政
註22 『薬師寺年記』(慶長四年の奥書あり)
一。当年(丁丑)(永正十四年)夜荘厳頭事。去年国中悤劇言語道断乱吹。則十月五日筒井方被取負了。然間其刻。矢田中村沙汰而。西室西院放火。八幡宮之参籠所坊打破。養天満拝殿放火。
なお『薬師寺濫觴私考』(以下『濫觴私考』という)はこれを永正十年のこととし、十六年にも八幡宮神楽所が破却されたとしている。
註23 『薬師寺縁起国史』「旧記云。後柏原(後奈良カ)天皇御宇。享禄二年己丑五月二十八日。超昇寺住天田中村等。与郡山某合戰之時。西塔付火之間。余炎金堂江移リ。西塔・金堂燒失也。寺僧中ハ南都春日山江逃行。從彼地見之。大ヒニナケキカナシムトイヘトモ不力及。本尊薬師如来ハ無恙。脇士日光・月光ノ二并ハ俱ニ。中尊エモタレカカリタマフ。依之三尊俱ニ雖無恙。十二神将并三尊ノ後光ハ悉ク焼亡セリ。内陣ノ鐘ハ湯ニ成り。漸三日許リ後ニ帰テ。 塔ノ九輪等納畢」と記している。
註24 足立康「藥師寺西塔焼失年代に関する誤謬」(『考古学雜誌』二一ノ一一、二二ノ一)昭和六、七年
註25 『薬師寺年記』
一。去年戊子初九月七日。依兵乱金堂講堂中門西塔等炎上之間。当年享禄二年己丑修二造花勤行在所。可為如何哉之處仁。任転例(倒)之例。於東院之堂被修之。
註26 「旧金堂大斗墨書」(大岡実他『興福寺仮金堂建設工事報告書』〔昭和五十年 興福寺〕による)
当堂番匠始享禄四年(辛卯)八月廿三日。立柱同廿八日巳午尅。堂中柱悉相立事者天文十四年。至十四ケ年柱之分造畢。同內陳大戸置事者天文十五年(乙巳)卯月十六日ヨリ番匠始之。同廿三日ヨリ大戸上畢。卯月中二此一落之分造畢。(前後略)
「旧金堂垂木墨書」(同右)弘治三(丁巳)六月七日仁(辰巳未申)南方角木懸畢。(後略)
註27 天文八年六月十三日に大風があり、その修理については「上下公文所要録』(薬師寺蔵)につぎのよ うに記されている。
天文八年八月四日。東塔之修理可有沙汰事。就其反銭之奉行人者。来八日可被定。又塔之奉行衆者。其砌可被定之趣如此。
天文十年八月十一日。大風ニ所々之破損数多之間。此分ニテハ難被置間。修理可在之旨。疑(議)定畢。天文十二年五月十二日。八幡卅講之砌。評定云。南之御廊東之端破損之間。当奉行衆トシテ可有修理。天文十二年十二月廿二日。
一。東院堂後門之蓋修理之入目六貫文。(癸卯)七月七日。
一。参籠坊蓋。鐘楼蓋并庄厳仮屋蓋繩結。楼門之蓋繩結等之入目伍貫文。(癸卯)十一月十一日。
一。八幡南御廊蓋等修理之入目六貫四百八十五文者。来年(甲辰)五月会錢足付也。以此要途返弁之。相残并東院堂修理入目。参籠坊・鐘楼等入目。来秋以反錢可有反弁旨評定也。御廊入目斗。来秋反錢反弁之相残在之者。明後年(乙巳)五月会錢可為足付旨評定也。
註28 『西院堂方諸日記』
一。宝永(丁亥)十月四日。午未ノ刻ノ間ニ当リテ大地震。八幡宮楼門石居五、八(六カ)寸斗落入。御廊破損ス。御殿者無別条。金堂・塔九輪折。其外伽藍損ス。
當寺護摩堂・彌勒堂破損ス。依之修理之也。
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