平城京における造營
文武二年(六九八)薬師寺がその造営をほぼ終ってからわずか一二年で都は平城に移ることになった(『続紀』)。すでに造立されていた諸大寺のうち、法隆寺と弘福寺は現地に残ったのに対し、元興寺・大安寺・薬師寺は平城に移ることとなった。『続紀』には薬師寺の移転の年次を記していないが、『縁起』にはこれを養老二年(七一八)としている。しかし境内から出土した木簡には霊亀二年(七一六)のものがあり、養老以前に工事が始まったことを示している。』によると、養老三年三月には「始めて薬師寺司に史生二人を置く」とあり、このとき平城において薬師寺の造営が行われていたことは疑う余地がない。さらに同六年七月には薬師寺をもってのとしており、醍醐寺本『縁起の西大寺縁起の頃には薬師寺の『記資財帳』(以下『流記』という)を引いて同年十二月に金銀その他多くのものを天皇が旅入されたと記しているので(史料三)、このときまでに、造営はかなり進んでいたものであろう。なお養老六年十二月には天皇が天武天皇のために弥勒像を、持統天皇のために釈迦像を造り、その本願縁起を仏殿に安置されている(『続紀』)。この仏殿はどこのものか明らかでないが、天武・持統天皇のために造顕したのであるから、薬師寺である可能性があり、もしそうであったとすると、仏殿はこのとき出来ていたことになる。
これより先、養老四年には藤原不比等の病気平癒を祈って「都下四十八寺」に『薬師経』を読ませている。すでに平城京に四十八寺も造立されていたのなら、薬師寺もこのうちに入っていたであろう。これ以後、都下諸寺の名は『続紀』にしばしばみえるが、薬師寺と明記したのは神亀三年(七二六)八月に元正太上天皇のために釈迦像を 造り法華経を写し、薬師寺において斎(いつき)を設けたとあるのが初めで、このとき金堂とその本尊がまだなかったとしたら、それより先に太上天皇のための造像供養を行うとい うのは適当でないから、このとき少くも金堂は出来ており、本尊薬師三尊も安置されていたものとみなければならない。
平城薬師寺の個々の堂塔の造営で文献に記されているのは「天平二年三月十九日。始建薬師寺東塔」とある『扶桑略記』や『七大寺年表』の記載だけである。この二書の元になった史料は、おそらく同一のものと思われるので、これだけで東塔天平二年(七三〇)建立説が確かめられたということはできないが、他に反証もなく、寺の造営の順序や時期からみても、この頃建ったとしてよいであろう。とすると、舎利は西塔の心礎に安置されていたのであるから、西塔の方はすでに出来ていたのであろう。
その翌々年、天平四年十月には造薬師寺大夫の任命があり、位からみると、寮の長官より上位にあるので、大宝元年(七〇一)に寮に準じた造薬師寺司は、平城京ではさらに重要視されていたことがわかる。
造営が終了したのはいつのことかわからないが、養老以前に造営が開始されたとすると、天平の初年でほぼ二〇年近くになるから、その頃終ったとみてよいであろう。天平七年には大安・薬師・元興・興福の四寺で大般若経を転読させており、同八年、十六年、十七年にはいずれも「四大寺」という言葉が使われており、これらの四寺が 平城京で最も重んじられていたことがわかる。
天平感宝元年(七四九)になると、新しく建立されつつあった東大寺がこの四大寺のほかに加わって第一級の寺となり、第二級を法隆寺、第三級を弘福寺・四天王寺、第四級を崇福・新薬師・建興・法華の諸寺とし、それぞれの寺格に応じて施入物があった。また同年諸寺の所有する墾田の限度が定められたときは、東大寺四千町、元興寺二千町、大安・薬師・興福・大和法華・諸国国分僧寺は千町で、弘福・法隆寺などは五百町となっており、当時における薬師寺の地位がうかがわれる。
天平宝元年と天平勝宝二年(七五〇)とには天皇が薬師寺宮に移ったと記されている。その位置はまったく明らかにされていないが、名称からみて隣接の地であったろう。
天平時代に造立された諸院としては吉備内親王が元明天皇のために養老年中に造立したという東禅院(『縁起』所引『流記』)、舎人親王(天平七年没)が造立したという西院があり、宝亀元年(七七〇)称徳天皇が発願され、十大寺に分置された百万塔は、この西院に置かれたという(『縁起』)。
以上が天平時代における薬師寺造営の経緯であるが、ここで最も重要な問題は、移建が文字通り藤原京から平城京へ建物や仏像を移したものか、あるいは平城京におい新建・新鋳したのかという点であろう。またそのうちでも現存する薬師三尊と東塔とが、美術史からいって、持統・文武朝のものか、天平時代のものかというところであろう。
藤原京からすべて(あるいは大部分)を移したとする説は、薬師三尊や東塔の様式、伽藍配置形式とその寸法の類似、同形の瓦が出土することなどが主な理由である。また一方非移建説の方は平城移建後も本薬師寺が存続したこと、薬師三尊の様式を天平時代とするためなどが主な主張点である。
これらはいずれも薬師三尊と東塔のところで詳しく論じられるから、ここでは簡略に述べるが、東塔の実物に関するかぎり、積極的にこれを移建とする証拠は見出せず、また『流記』にあったという「宝塔四基。二口在本寺」の記載を何かの誤りとしなければ、塔を二基とも移して、またもとの所に二基建てたという二重の手間を要するという不合理がある(建物を解体移築する場合には、特別なものを除き、ほとんど新築と同じくらいの費用がいる)。
寺地については『流記』に「寺院地十六坊四分之一。四坊塔金堂井僧坊等院。二坊大衆院(以上本寺)」とあり、また平安時代の瓦も出土していて、藤原京に寺が残っていたことは明らかであるし、『続紀』天平十七年五月に「栗栖王を平城薬師寺に遣して、四大寺の僧を請い集め、問うに何処をもって京となさん」といっている。当時天皇は甲賀宮におられたので、とくに平城薬師寺といったのかもしれないが、藤原京にも堂塔が厳存していたため、とくに平城とことわったとみることもできよう。
一方、瓦についていえば、藤原京薬師寺の造営と平城京薬師寺の造営とはほとんど引続いて行われているから、前の瓦を使用して瓦を新造することも考えられ、移建の積極的根拠とはし難い。しかし、移建された建物がまったくなかったといえないことはもちろんで、一部に移されたものがあったかもしれず、藤原京薬師寺出土と同形の瓦は、これら一部移建の建物のものであったのかもしれない。
仏像等に関しては、移座の実例はほとんどないが、由緒を重んじて平城に移し、本薬師寺の方は他の像で替える可能性もあり得るし、現に講堂の繡仏は平城京に持って来ているから、本尊の移座がまったくあり得ないとは断じられない。
平城薬師寺の本尊について記す最も古い文献は『縁起』で、『流記』から抄出したとして、「持統天皇奉造請坐者」といっており、その後もこの説が多く引かれている。持統朝鋳造説の中心となった喜田説は薬師寺本尊持統十一年説を採り、『縁起』その他が移座を認めているのだから、新しい文献にしか出ていない養老新鋳説は認められ ないといっている。
たしかに薬師三尊を養老の新鋳とする記録はみな江戸時代のものであり、文献的には持統鋳造説の方に強みがある。しかし、『流記』の文を直接引いたのなら、『縁起』の他の部分にもあるように「何々宮御宇天皇」という表示のしかたがされたはずであり、持統天皇という漢風諡号(しごう)で書かれていることは、本当に『流記』の文であったかどうか疑わしいとする関野説(註8)も無視できない。ただし、『縁起』の書かれた長和四年(一〇一五)に本尊移座の所伝があったことは明らかで、それがかなりの古伝であることは認めざるを得まい。ただ、古伝とはいえ鋳造後三百年経ったのちのものであるから、これだけをもって、持続朝鋳造説が確かめられたとすることはできまい。
そこで生ずるのが、関野貞をはじめとする様式上の観点を主とする養老新鋳説で、その後新しく天武十四年(六八六)鋳造の旧山田寺仏頭の発見もあり、現薬師寺本尊の年代は、様式上の面から、十分論ずべきものであろう。
註8 平城への本尊と建物の移座・移建については、主としてつぎの四通りの説が考えられる(なおこのほか建物一部移建があるが略す)。
1 本尊移座・建物移建─注二の福山・久野説2 本尊新鋳・建物移建─関野貞「薬師寺金堂及講堂の薬師三尊の製作年代を論ず」(『史学雑誌』一二ノ四)明治三十四年
3 本尊移座・建物新建─注四の喜田・田村説
4 本尊新鋳・建物新建─注四の足立・町田説
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