薬師寺の創建
天智天皇がなくなられる直前、天智十年(六七一)十月、大化改新以来、天皇と行を共にして来た大海人皇子(おおしあまのみこ)は突如大津宮を去り、吉野に身を隠した。近江朝の悲劇はここに始まる(以下とくに出典を挙げないものは『日本書紀』による)。
吉野にあった大海人皇子は翌年六月二十四日、身の危険を感じ、吉野を発って美濃に赴き兵を挙げた。従うものは妃の菟野皇女(ののひめみこ、のちの持統天皇)・草壁(くさかべ)・忍壁皇子(おさかべのみこ)と、舎人わずか二〇人ばかりであった。
しかし、二十五日には高市皇子(たけちのみこ)が参加し、翌日には大津皇子も近江からかけつけた。『万葉集』には高市皇子のこの戦における英雄的な姿を歌いあげている。近江方の懸命な防戦力及ばず、ついに近江と大和は吉野勢に制され、壬申の悲劇は終る。こうして大和に入った大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位された。これが天武天皇であり、天皇と行を共にした菟野皇女は皇后になった。
天武朝はここに成立したとはいうものの、内部になお多くの不安を蔵していた。しかも天皇を直接助ける重臣はなく、その立場にあったのは皇后であった。『日本書紀』(以下『書紀』という)には「皇后始めより今にいたるまでに、天皇をたすけまつりて、天下を定めたもう。つねにつかえまつるあいだに、すなわち言、政事に及びて、たすけ補う所多し」と記している。
その皇后が天武九年(六八〇)病気になられた(『書紀』史料一)。戦に臨んで生死を共にし、政治にあたって苦難を分かちあってきた皇后の病であれば、天皇の心痛はいかばかりであったろう。天武天皇はかつて額田女王(ぬかたのおおきみ)を天智天皇とともに争い、
紫草のにほへる妹を憎くあらば人嬬ゆゑに吾恋ひめやも
と歌われた情熱の人でもあった。『書紀』には「十一月癸未、皇后体不予(みやまいしたもう)、則ち皇后の為に誓願(こいちか)いて、初めて薬師寺をたつ、よって一百僧を度(いえで)せしむ」と記しており、東塔の「檫銘」も同様のことを記しているから、この年についてはなんら疑いを存しない。(註1)皇后の病気は幸いにして「これによりて、安平たもうことをえたまえり」と記しているが、天皇が発願された薬師寺の造営と薬師像の造立とは、急速に進められたであろう。(註2)
皇后の病気は平癒したけれども、かえって天皇の方の健康がすぐれなかった。皇后が病気された同じ月の二十六日には病気のことがみえ、それはすぐ癒られたようであるが、翌年閏七月には皇后が京内の諸寺に経を説かせているし、十月には行幸の予定も実現されていない。その後、しばらく天皇の病気のことは『書紀』に記されていないが、天武十四年九月にも病気になられ、翌朱鳥元年五月に再発し、ついに九月崩御されている。
建物の造営と本尊造顕の着手がいつであったかは文献には出てこないが、皇后の病気がこれによって癒ったというのであるから、単なる発願だけではなく、なんらかの実施が直ちにあったと思われる。『七大寺年表』などに天武十一年に「造薬師寺。為皇后也」とあるのは実質的な着手を伝えているのかもしれない。(註3)
薬師寺のことは、この間、『書紀』にまったく記載がなく、天皇のあとをついで即位された皇后、持統天皇の二年(六八八)正月に至って、「遮(かぎ)りなき大会を薬師寺に設く」と初めて記されている。その後、持統十一年六月には「公卿百寮、始めて天皇の病のために、所願の仏像を造る」と記し、翌月その開眼会を行っている。この史料により、 薬師寺の本尊の完成をこの時とするのが通説であるが、これには疑問がある。(註4)
天武天皇と持統天皇との間は、ただ普通の夫婦というだけのものではなかった。武器をとって戦わなかったとはいえ、事の成否はもとよりわからぬというよりは、むしろ敗れることが予想される陣中に行を共にし、戦後はその政を助け、天武天皇が壬申の乱の二の舞を演じないよう皇子たちを集めて盟を立てられたときには、皇后も天皇と同じく「異腹の皇子といえども、同腹のものと同じに慈まん」と誓われている。
こうした情勢を考えるとき、皇后の病気平癒のために発願した薬師寺造営のことを、病気が癒ったので忘れてしまったり、怠ったりするというようなことがあり得るであろうか。造営発願によって平癒されたと信じられればなおさら、その造立が急がれた であろう。
一方、『書紀』の記載をみると、天皇あるいは朝廷に関することについては、主語の記載を省いていることが多いが、他のものについては、必ず主語を記している。持統十一年の造像と開眼とが、ともに「公卿百寮」によると明記されていることは、これが天皇の祈願によるものでなく、これら臣下の発願であることを明らかに示している。少くとも、『書紀』のこの記載が誤りであることを何かの史料によって立証しないかぎり、この仏像が天武天皇発願の薬師寺本尊であるとはいえないはずである。
このとき持統天皇が病気であったという記載は『書紀』にはない。しかし、天皇の病気が必ず記されているとは限らないから、そうしたことがあったとしてもよかろう。その後すぐ天皇は位を孫の軽皇子(文武天皇)に譲られている。天武天皇の皇子ではあるが、異腹で、皇位継承者として有力だった高市皇子が持続十年に没し、直系の孫、軽皇子が十五歳になったことが譲位の最大の理由ではあったろうが、先帝の遺業をついでの一〇年余にわたる政治によって、心身ともに疲れたと感じられての退位であったかもしれない。
持統十一年の仏像開眼が薬師寺の本尊でなかったとすると、本尊の完成はいつであったろうか。それに一つの手がかりを与えるものは持統二年正月の薬師寺における無遮大会である。この前、朱鳥元年(六八六)十二月に天皇は先帝天武天皇の百カ日に当り、先帝のために、大官・飛鳥・川原・豊浦・坂田の五寺で無遮大会を行われている。薬師寺発願の経緯からみて、当時薬師寺がかなり出来ていたのなら、当然薬師寺もその一つに入るはずである。それが一年余遅れて行われているのは、本尊がまだ出来ていなかったので、その完成を待って行ったのであろう。発願から八年後であるから、どのような像であったかはわからないにしても、完成されてよい頃である。
『薬師寺縁起』(以下『縁起』という。史料三)(註5)によれば講堂にあった大繡仏は、持統六年に天皇が天武天皇のために造って寄進されたものと記している。『七大寺年表』などには道昭が文武二年(六九八)に薬師寺繡仏の開眼の賞として大僧都に任ぜられたとしている。薬師寺の繡仏といえば、講堂のそれを指すものであろうが、この間六年の開きがある。あるいは何かの都合で開眼が遅れたということがあるかもしれないが、薬師寺の造営がほぼ終った文武二年に、これを期して任命されたのかもしれない。また大僧都のような定員のあるものであるから、それまでの功績によって任ぜられたものとみれば、大僧都に任ぜられた年に開眼が行われたとみる必要はなく、それ以前であれば矛盾はない。
繡仏であるから、金堂本尊と別個に造られても差支えはないが、やはり、天武天皇が皇后のために造られた金堂本尊が完成したので、今度は持統天皇が夫帝のためにこの繡仏の造顕を発願されたとするのが妥当であろう。これは講堂の本尊であるから、講堂はこれ以前に出来ていたと思われる。
薬師寺の造営はまだこのあとも続いている。『続日本紀』(以下『続紀』という。史料二。以下出典を記してないものは『続紀』による)には文武二年十月に、薬師寺の構作がほぼ終ったので、衆僧を住わせたとあり、大宝元年(七〇一)には造薬師寺司の官人の任命がある。もちろん薬師寺は勅願寺であるから、このとき初めて造薬師寺司が置かれたのではなく、たまたまある一時期の任命の記録だけが載せられたのであろう。また同じ年の七月には造大安・薬師の官を寮に準ずるとしている。これは令で定められた官 制以外の役所であるので、その格付けを定めたにすぎないのであろうが、造営がなお行われていたから、こうした処置があったものと考えられる。しかし、「構作ほぼ了る」とすでに記されているところからみて、この頃が薬師寺造営の終りであろう。
これが今日橿原市木殿(きどの)に礎石を存する本薬師寺であることは、いままでの伝承からいっても、またその規模が平城薬師寺と同様である点からみても疑う余地はない。(註6)本殿の本薬師寺跡には金堂・東塔・西塔の土壇と礎石を残している。(註7)金堂跡には小堂が建っているので、その下に旧礎が若干あるようにみえるが、確認はできない。現在壇上にみえる礎石は一六個で、西南の部分が比較的よく残っており、四角形の造出(つくりだ)しがあるので、柱間は比較的正確に測れる。これによると、天平尺(現尺の〇.九七五)として、桁行七七・五尺(中三間一二・五尺、両脇各二間一〇尺)、梁行は四〇尺(四間等間)となる。裳階(もこし)の礎石は残っていないので、その存在の有無は不明であるが、平城薬師寺金堂と寸法が一致し、かつ内陣回りの母屋(もや)柱礎石に地覆座(じふくざ)を造っていることも同様で、ここに扉や壁があったと推定される。
東塔跡には心礎のほか一五個の礎石が残り、多少動いているものもあるが、一辺の長さは天平尺で二四尺と計算され、中央の間が若干狭い。これはおそらく側柱の頂が内方に転んでいて、柱頂で等間隔となるため、柱の根元では両側の間の方が広くなっていたのであろう。ここでも裳階の礎石はすべて失われているが、平城薬師寺と同法を示しているところからみて、裳階があったとみるべきであろう。この点は基壇の東方はあまり削られていないので、発掘すれば明らかになると思われる。
平城薬師寺の塔と違うところは、側柱(がわばしら)の礎石に多く地覆座を造っていることで、これからみると、ここに扉や壁がつくから、裳階があったとすると、裳階は吹放しとみなければなるまい。また心礎は舎利孔を備えた立派なもので、わずかの寸法の相違や水抜き孔のないことなどを除いて、平城薬師寺西塔心礎とほとんど同じである。
東塔に対して、西塔の方はかなりの広さの土壇は残すが、心礎一個を残すだけで、他の礎石はすべて失われている。心礎は円形の柄を造り出した天平時代によくみられるもので、こちらには舎利は安置されていなかったものとみられる。
なお東塔西塔間は天平尺の二四二尺、両塔の中心線と金堂中心との距離は一〇〇尺で、これらも平城薬師寺と一致する。
その他の回廊門などについては、まだ一切調査されていない。
註1 『書紀』には九年といい、「檫銘」は即位八年と記し、一年の違いがあるようにみえるが、前者は称制の年から数え、後者は即位の年からいっているので、ともに干支は庚辰であって矛盾はない。
註2 福山敏男は久野健との共著『薬師寺』(昭和三十三年 東大出版会)において、「檫銘」の「鋪金未遂」寺地が定まらなかったと解し、皇后の病気平癒は造寺の単なる発願だけと、一百人の僧およびその日に行われた恩赦によるものとしている。
註3 『元亨釈書』に「初有司不委寺規」とあり、のちのものではあるが、『薬師寺絵縁起』などに「其月薬師寺草創の勅ありといえども、有司梵字の造式を知らず」とあるのと、薬師寺堂塔の各重裳階付という特殊な形式から、足立康は『薬師寺伽藍の研究』(『日本古文化研究所報告』第五 昭和十二年)に、「御発願と起工との間に多少の距りがあった事を暗示しているのは、けだし事実に近いと思われる」とし、『僧綱補任』や『七大寺年表』の「同年(天武十一年)造薬師寺。為皇后也」を着手の年としている。しかし、本文に記したような事情からみて、発願後直ちに着工したと思われるので、この記事はむしろなんらかの工事の進捗、たとえば金堂の立柱・上棟などのことを伝えたのかもしれない。
大岡実は注七の論文でこれと同意見を述べており、福山敏男は注二の著書で「天武天皇の時には工事に着手されたらしくはない」として、『七大寺年表』の記事は「十一月に皇后の病により薬師寺を造る」とある『扶桑略記』の記事を誤って十一年としたもので、工事着手を意味するものではなく、願の年の単純な誤りとしている。
註4 持統十一年の仏像造顕を天武天皇発願の本尊とする説の支持者は多いので、その主なものをあげる。黒川真頼「薬師寺金堂及講堂諸仏像考証」(『黒川真頼全集』第三所収)明治四十三年 国書刊行会
喜田貞吉「記録上より薬師寺金堂三尊の年代を論ず」(『史学雑誌』一六ノ五)明治三十八年
福山敏男・久野健『薬師寺』昭和三十三年 東大出版会
足立康は「薬師寺金堂本尊の造顕年代」(『日本彫刻史の研究』所収 昭和十九年 竜吟社)で、持統十一年の「始めて天皇の病のために所願の仏像を造る」の「始めて」を「漸く」あるいは「遂に」の意とし、天武朝鋳造、持統十一年鍍金としている。
これに対して、 持統二年説にはつぎのものがある。
田村吉永「薬師寺堂塔本尊造立新考」(『仏教芸術』一五号)昭和二十七年
小林剛「金堂薬師三尊像造立の沿革」(薬師寺修理委員会『薬師寺国宝薬師三尊等修理工事報告書』所収)昭和三十三年
町田甲一『薬師寺』昭和三十五年 実業之日本社
註5 薬師寺の『流記資財帳』は失われているが、長和四年(一〇一五)の『薬師寺縁起』中に断片的に引用されている。なお『薬師寺縁起』は醍醐寺本『諸寺縁起集』(建永元年(一二〇六)書写)、護国寺本『諸寺縁起集』(康永元年(一三四二)書写)、薬師寺本『薬師寺縁起』(元弘三年(一三三三)書写)などがある。醍醐寺本『諸寺縁起集』の中には、西大寺の項にも薬師寺の『資財帳』を引いており、史料三にはこれらを集めて掲載しておいた。
註6 田村吉永は注四の論文で、薬師寺再転説(飛鳥岡本─木殿─平城)を出しているが、飛鳥の岡本にあ ったという説は近世の文献に出ているだけで、根拠薄弱であろう。ただ、今後藤原京の研究が進み、その条坊制度と道路の位置が確定した場合、木殿の本薬師寺跡が、この条坊制の前に定められたか、のちに定められたかの解釈によって、薬師寺起工の年代についての検討が必要になろう。なお、田中重久は『西ノ京』(昭和十六年 近畿観光会)で、飛鳥岡本から平城に移ったとしている。
註7 大岡実「南都七大寺建築論 二 薬師寺」(『建築雑誌』五一九号)昭和四年(南都七大寺の研究』所収 昭和四十一年 中央公論美術出版)および注三の足立康の著書参照。插図12389は足立のものによる。
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