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【引用】東大寺の美術-3

(俱舍曼荼羅)

東大寺のすべて,奈良國立博物館,2002。

鷲塚泰光

平安時代の東大寺

延暦八年(七八九)には造東大寺司が廃され、延喜十七年(九一七)には講堂と三面僧房、承平四年(九三四)には西塔が焼失するなど平安時代を通じて東大寺は決して安泰とはいえず、創建当初程の国による援助もなかったものの、『大鏡』には「世の中に斧の音するところは、東大寺と小野宮とこそ待るなれ」と記されるように、その都度再興がなされてきた。教学の面からすると弘仁十三年(八二二)弘法大師空海は真言院を大仏殿参道の西に開いて灌頂道場を設けた他、延喜四年(九〇四)には別当道義は大安寺の香積寺を渡し南大門東に移して東南院と号し、ここに醍醐寺の聖宝を招いて三論・真言宗の拠点とし、別当光智は天徳四年(九六〇)に尊勝院を興し華厳宗の本拠とするなど、正に八宗兼学の道場東大寺が出現した。

この時代の作例でまず述べなければならないのは良弁僧正坐像であろう。良弁は持統三年(六八九)相模国に漆部氏の子として生を受け、義淵に法相を学び東大寺に入った。金鐘山寺に智行僧として入り、初代の別当となり宝亀四年(七七三)閏十一月十六日に八十五歳で示寂した。この肖像は上院の開山堂内八角厨子に西面して安置され、現在は忌日である十二月十六日にのみ開扉される。背筋を伸し衣に袈裟を懸け右手に如意を持って端坐する姿は、僧正の相貌をとらえているものではあろうが、一種理想化された礼拝像で、棺の一木から彫成され、鋭い衣文の彫り口やその構造、彩色等から、僧正の御忌日が始行されたといわれる寛仁三年(一〇一九)頃の製作としてよかろう。手にする如意と背後に立て懸けられる杖は僧正遺愛の品と伝えられている。

絵画の遺品としては著名な倶舎曼荼羅がある。中央上方に釈迦三尊を配し、それを取り巻くように十人の比丘が円環をつくり、四隅に四天王、左右に梵天帝釈天を配した図様で、尊像以外には背景となる描写は一切省略されている。賦彩は原色に近い色を対比させ隈取りも明確に施すなど唐代絵画の影響が強く、図様も釈迦三尊はボストン美術館に流出した法華堂根本曼荼羅に倣い、十人の比丘は六宗厨子に、四天王と梵天・帝釈天は戒壇院にあった華厳経厨子扉絵を手本とするなど、東大寺ゆかりの古図に範を取っていることが注目される。平安時代後期の東大寺は右大臣顕房の子である覚樹が倶舎研究の碩学として知られ、その弟子であった珍海は絵仏師藤原基光を父とする画技に優れた僧で、彼らが活躍した保延年間(一一三五~四一)頃に復古的意図をもって製作されたのではないかと考えられる。

【引用】東大寺の美術-3

(華厳五十五所絵 其一 不動優婆夷,奈良國立博物館藏)

今一つ絵画で忘れてはならないものは『華厳五十五所絵』である。東大寺には巻子本一巻と額装本十面が伝来する。華厳五十五所絵は富豪の家に生まれた善財童子が文珠の説法に参じ、その勧めによって五十四の善知識に法を求め最後に普賢菩薩のもとで大乗行願を体得するという華厳経の入法界品に基づく絵画で、巻子本は現状三十七段を伝えている。各段が善知識を中心に菩薩や侍者がそれを取り巻き、善財童子が傍で善知識を拝す構図で、図上には色紙型が配され、各知識の位相名、所在地名、讃文が記されている。線描を主体とした淡彩の大和絵で山水や楼閣を背景に点じ、知識やその台座、傘蓋などは大陸的描写を手本とした様子がうかがえる十二世紀末の製作として心暖まる作例である。

治承の兵火からの復興

平重衡焼き打ち以降の盧舎那仏の再興は先に述べ通りであるが、他の諸尊の造立もこれに続いて始められた。建久五年(一一九四)には当時の造仏界で中心的な存在であり、京都の貴族社会と深く結びついていた院尊によって大仏の光背が造り始められた。院派仏師が主導権を握ったであろうことは想像に難くないが、各尊ともいずれも数丈という巨像であり、仕事を分担せざるを得ない状況にあったことも間違いない。康慶を頭領とする慶派が東大寺復興事業に最初に関与したのが建久五年(一一九四)の二丈三尺に及ぶ中門二天像で、多聞天を快慶、持国天を定覚が担当した。翌年には中門の上棟も行われ、三月には大仏殿の供養がなされた。建久七年(一一九六)に入ると六月十八日から八月二十七日までの六十九日間で、三丈に及ぶ大仏両脇侍如意輪観音像が法橋定覚と丹波講師快慶、虚空蔵菩薩像が法眼康慶と法眼運慶の父子によって造像され、続いて四丈三尺の四天王像が上記四人の仏師によって八月二十七日から十二月十日までの百二日間で完成させられた。正治元年(一一九九)には寺院中枢部の正面を占める南大門の上棟が行われ、ここに安置される金剛力士像は建仁三年(一二〇三)七月二十四日から、これまた六十九日間で造像された。『東大寺別当次第』には担当の仏師を運慶、備中法眼(定覚)、安阿弥陀仏、越後法橋(湛慶)と記しており、従来は東に吽形西に阿形を配する法華堂と同様の吽形像を運慶、阿形像を快慶の作とする説が一般であった。しかし昭和六十三年から平成五年にかけて行われた大修理によって、その謎は解き明かされることとなった。吽形像に納入されていた「宝篋印陀羅尼経」の奥書には大仏師とし定覚、湛慶の名と小仏師十二名が明記されており、阿形像が持つ金剛杵 の中央矧木裏面には「建仁三年(癸亥)七月廿四日始之大仏師法眼運慶アン(梵字)阿弥陀仏少仏師十三人」の墨書が発見されその担当が明らかとなったが、運慶は総帥として画像の完成を指揮したのであろう。この二丈八尺(阿形像八三六・三センチ、吽形像八四二・四センチ)に及ぶ巨像が解体修理によって各々八本の根幹材を中心に構成されていることも判明し、南大門の前面に向かい合った位置で安置されているのも礎石の状況や後壁への架木の位置から当初の状態であることが明らかとなった。納入品の一部は本展 に出品されるが、本躰の詳細については『修理報告書』や修理委員会編の『仁王像大修理』(朝日新聞社刊)を参考としていただきたい。いずれにせよ鎌倉彫刻を代表する最高傑作であり、古典復興を目指した運慶一派の 代表作として、見る者を圧倒する。

重源は天平勝宝元年(七四九)に宇佐より勧請し盧舎那仏完成に大きな力となった八幡宮の再興を早くより計画しており、文治四年(一一八八)には八幡宮の造営が終わり、御神体造立のことを奏問している。しかしそのことは旧例や宇佐八幡宮での神体の扱いなど種々の支障があってしばらくは棚上げの状態にあった。その後寺僧の夢に赤衣の人が現れ、南大門の辺に立って今の八幡宮の居所は汚穢の疑いがあって住めないと託宣し、建久八年(一一九七)に改めて八幡殿を上棟造立した。間もなく東大寺僧以下は 神護寺旧蔵でこの時鳥羽勝光明院の宝蔵に安置されていた八幡大菩薩の画像を奏請したが、画像は文覚の強い要望で神護寺に戻されることとなった。重源以下寺僧の落胆はいかばかりであったろうか。その結果アン(梵字)阿弥陀仏快慶が造立施主となって像を造り、建仁元年(一二〇一)天皇・上皇の結縁を得て完成したことが、朱彩された像内内刳部の長文にわたる墨書で知られる。数多くの人名が記されているにも拘らず、主導者であった 重源の名は見出せず、その背景には深い葛藤があったものかと想像される。頭躰の幹部は正中で寄せる左右二材矧で躰側・両足部を寄せる簡潔な構造で、端整な表情を示し、左手に錫杖を執り、袈裟を懸けて蓮華座上に結跏する姿は写実的でありながら、その内に犯すべからざる神威をたたえた相貌は快慶の真骨頂を示すものと言えよう。御神体として祀られてきたため、保存状態も極めて良好である。なお本像は嘉禎三年(一二三七)に別当行勇の当社再興に伴い、八幡岡から手向山の地に移され、明治の神仏分離までそこに祀られたが、その後勧進所八幡殿に移された。東大寺にはこの他にも快慶の造像例は数件残されているが、割愛せざるを得ない。

俊乗堂に安置される東大寺大勧進職重源上人坐像は鎌倉時代を代表する肖像彫刻として見逃すことはできない。養和元年(一一八一)六十一歳で勧進職となり、後半世を東大寺再興のために捧げ、建永元年(一二〇六)六月五日八十六歳の生涯を閉じた姿である。眼窩を窪ませ、首を突き出して猫背で念珠をまさぐる姿は上人に接するかの感を抱かせる。像は頭部を前後二材矧として後方材に一材を補って強く前に突き出す頭部を造り、左右二材から彫成する躰部材に首枘差しとしている。肉身は肉色で、墨染の袈裟と衣を着して端坐する。口を「へ」の字に結ぶいかにも意志堅固な個性と老軀ながら骨太な体軀の表現は、東大寺再興をはたした巨人の姿と言ってよかろう。像内は黒漆に塗られ銘文等の記載はないが、最晩年か、寂後間もなくの上人の謦咳に接した慶派仏師の手になるものであろう。

南都では鎌倉時代は祖師等の画像が盛んに製作された。東大寺に伝わる四聖御影もその一例と考えることができる。高欄と階を前面に描く建物の内に二段の座を設けて前面向かって右方に行基菩薩、左に如意を執る良弁僧正、奥の右には縛手する婆羅門僧正、左に漆沙冠を戴き笏を執る俗体の聖武天皇像を配した構図で、東大寺創草に関与した四聖を表したものである。聖武天皇は願主であり観音に擬せられ、良弁僧正は初祖で弥勒に、婆羅門僧正は大仏開眼の導師として普賢菩薩に、行基菩薩は指導者として文殊菩薩に当てられており、俗・僧の実在像ながら、東大寺にとっては曼荼羅の意味を持っていたものであろう。本図の背には東大寺真言院を中興した中道上人聖守記の写しがあり、建長八年(一二五六)八月に描いたことが知られる。控え目な筆使いは南都絵画の特色をよく示している。建長本は剥落等がかなりきついが、永和三年(一三七七)に写された模本は原本の体をよく伝えている。本図は正嘉元年(一二五七)の聖武天皇五百回遠忌を期に東大寺北室で修された四聖の本尊と考えられ、以後四聖の忌日ごとに論議法要が行われたようである。

江戸時代の作例

永禄兵火後の盧舎那仏再興は先に述べた。この事業を完成に導いたのが公慶上人である。貞享元年(一六八四)大仏再興の諸国の許可を幕府より得た公慶はこれに邁進し、徳川綱吉や桂昌院の援助を得て、大仏殿上棟にこぎつけるが、その完成を見ずして宝永二年(一七〇五)七月十二日、江戸の地で五十八歳の生涯を閉じた。公慶上人像は遺弟の公盛が大仏師性慶と弟子即念に依頼し、宝永三年(一七〇六)に造立し公慶堂に安置したものである。鉢の張った頭で眼窩の窪んだ上人の姿は実直な性格をよくとらえている。

この後、享保三年(一七一八)には仏師順慶によって中門の持国・増長天像が造立され、享保十八年(一七三〇)に大仏脇侍如意輪観音像、宝暦二年(一七五三)に脇侍虚空蔵菩薩像が了慶・尹慶によって造立され、現在我々が眼にする姿となった。

千二百五十年を超える東大寺の美術を限られた紙面で述べ尽くすことは、筆者にとっては不可能で、欠落など誠に多いことで慙愧に耐えないが、詳細は各個解説に譲ることでお許しを願いたい。

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