東大寺のすべて,奈良國立博物館,2002。
鷲塚泰光
盧舎那仏の造立
天平十二年(七四〇)二月、聖武天皇は河内知識寺の盧舎那仏を拝し、国家鎮護のため同像の造立をひそかに決意したのであろう。その準備段階として翌天平十三年(七四一)には国ごとに国分寺・国分尼寺を創建させている。悩み多い天皇は都を移すなど国体の護持に腐心されるが、仏法にたよることによってその解決をはかろうと天平十五年(七四三)十月十五日、当時離宮のあった信楽宮で大仏造立の詔を発せられる。間もなく大仏造立の寺地をひらき翌天平十六年(七四四)十一月十三日には紫香楽の甲賀寺で大仏造立のための骨柱を立ち上げる。しかしこの計画はうまく行かなかったようで、天平十七年(七四五)に平城京に遷都し、八月二十三日に平城京の東の端に当たる大和国添上郡金里の地に山裾の傾斜地を利用し五丈三尺五寸の大仏を造るための御座を築き固め、自らも土を運びこの工に参加される。巨大な像はまず土をもって原型を造り、その外側に割り離しが可能な外型が造られ、その完成後原型を銅に置き替える厚味分の土が削り取削り中型という鋳造の雛型が完成される。その後再び雄型の外型が堅固に組み付けられ鋳造にかかるわけであるが、鋳造の開始は『要録』によると天平十九年(七四七)九月二十九日であったとされる。この造像に携ったのは統率として国中連公麻呂、鋳師は高市大国・同真麻呂で、他に柿本男玉、大工猪部百世、益田縄手などが参画したと伝えられている。天平勝宝元年(七四九)十月二十四日には八カ度にわたるぎを終えて本躰が完成された。その後も螺髪の鋳造や鋳損じの補正加鋳が繰り返されると共に、両脇侍像の造立や大仏殿の建立が行われ、完成なった本躰大仏には天平勝宝四年(七五二)三月十四日から鍍金が始められ、顔のみ鍍金完成の状態で、四月九日開眼供養が行われた。台座も光背も整わない中で開眼供養が行われたのは、本願である聖武上皇の体調が優れないということが大きい原因であったろうが、それと共に仏教公伝二百年、釈迦滅後千七百一年という重要な年に当たっていたことが最も重要であろう。しかも四月八日の仏誕会に当然合わせる筈であったと考えられるが、当日は思いの外の悪天候で翌日に順延せざるを得なかった事情があったものと思われる。開眼導師には南インドの出身である婆羅門僧正菩提僊那が当たり、開眼筆には長丈な縷が付けられ、参列の一同はそれに手を添え結縁にあずかった。この開眼筆と縷は現在も正倉院宝物としてよく知られるところである。盧舎那仏本躰は後に述べるように二度の兵火で右腋から下腹にかけての部分と両前膊にかかる袖の大半、結跏趺坐する両脚の大部分が当初の姿で残るのみであるが、開眼供養を前にして鋳造が始められた銅の台座は天平勝宝八歳(七五六七月に鋳造を終わり加鋳等修正の後、翌年三月から河内画師次万呂や上村主牛らの指導で蓮弁に蓮華蔵世界が描かれ、鏨(たかね)によって線刻された。その約半数が現在旧状を留めていることは幸いである。図様は「網経」に説く「我れ今盧舎那、方に蓮華台に坐し、周りに千花を匝(めぐ)したる上に、後に千釈迦を現わし、一花百億国、一国一釈迦、各菩提樹下に坐して、一時に仏道を成す」という状況を示している。蓮弁上部中央に説法相の釈迦とそれを聴聞する二十二菩薩と楼閣及び円光中の仏頭・菩薩頭を表し、その下に須弥山世界を描くものである。その後も大仏殿天井の彩色や四天王像の造立が続き、光背も完成の上、大仏殿の柱の彩色も終わって延暦八年(七八九)には造東大寺司が廃止されている。しかしながらこれに先んじる延暦五年(七八六)には既に大仏に裂砕が生じ始め、同二十年(八〇一)には実忠が伊賀の袖から伐り出した材を用いて像を固めている。更に背後に沈み始めた大仏を支えるために、天長四年(八二七)には背後に山を築いてそ れをくいとめようとした。しかし斉衡二年(八五五)五月に発生した地震のために大仏の頭部は落下し、この時は藤原家宗が造東大寺大仏長官に任ぜられて、修復を行い貞観三年(八六一)完成の上、開眼法要をすませている。治承元年(一一七七)再び地震で螺髪等が脱落するが、何といっても最大の悲劇は治承四年(一一八〇)十二月二十八日に起きた。
平氏に抵抗する南都に対し、平重衡は奈良坂より入り、東大寺・興福寺.元興寺に火を放った。各寺の伽藍はほぼ壊滅状態で、大仏の首は落ちて背後にあり、手は折れて横前に散乱し、灰燼は山の如く余煙は黒雲の有様と伝えられる。翌養和元年(一一八一)三月藤原行隆は被害状況を検分し、九月には造寺官に任じられ、八月には宣旨によって重源が東大寺再建勧進職となり再興に着手された。惨状を実見した鋳物師達は再興不可能との判断を下すが、たまたま商用のために博多に来日していた宋人陳和卿を重源が呼び寄せ、計画相談の結果、和卿・陳仏寿ら宋人七名と草部是助以下十四人の鋳物師の合力によって寿永二年(一一八三)右手の鋳造から始め、頭部、左手と鋳造が終わり元暦元年(一一八四)には鍍金を始め、九条兼実や源頼朝の後援を得て文治元年(一一八五)八月二十八日には開眼供養が行われている。完成した大仏は一部の公家達には評判が香ばしくなかったものの、兼実はまずまずの出来と評している。大仏は完成したものの大仏殿の再建には巨材の入手にまず困難を伴うが、これも陳和卿らの協力を得て周防国で良材にめぐり合い、一時期重源は大仏殿造営が困難なため進職辞退を申し出るものの天竺様という新しい建築工法によって完成し、建久六年(一一九五)三月十二日に落慶供養を行っている。続いて脇侍・四天王像他の造立が行われ、建仁三年(一二〇三)中枢伽藍の完成を見て総供養が行われた。
その後一時安泰であったが、永禄十年(一五六七)再び松永久秀によって大仏殿は焼かれ、大仏が湯になるという甚大な被害を蒙った。翌年には大仏再興の綸旨が下され、山田道安の発意で銅板をもって仏面を補うなどのことがなされたが、永禄十二年(一五六九)、元亀元年(一五七〇)、天正八年(一五八〇)など仏躰や台座の補鋳が行われた。慶長十五年(一六一〇)、永禄に建てられた大仏殿の仮屋が大風で倒れ頭部も傾き、しばらく大仏は露坐の状態となった。しかし貞享元年(一六八四)大仏殿再興のための諸国勧進の許可を得た公慶によって同三年(一六八六)から本躰の鋳造が始められ、併せて大仏殿の手斧始めが行われ、元禄五年(一六九二)、今日我々が目にする大仏が鋳物師統領南都住広浜行左衛門国重らにより完成され、開 眼供養が行われた。大仏殿は桁行十一間を七間に縮小し、徳川幕府の助力によって宝永五年(一七〇五)完成、翌年落慶供養が行われ、その後数度の修理を経て現在に及んでいる。
以上縷々述べたように東大寺は兵火により多くのものを失ったが、そこはさすがの大寺で、大仏開眼に係わる遺物やその他奈良時代の遺品も伝えている。
まず最初に述べるべきものは金堂(大仏殿)鎮壇具である。飛鳥・奈良朝の寺院では金堂など主要堂宇の建立に先立ち、土壇内に金・銀・玉などの財宝や当時貴重であった最上級の工芸品を埋納し、土地に住む神々(地主神)の霊を慰め、堂宇の恒久的な存在を祈った。東大寺金堂もそれにもれず多くの財宝が埋納された筈である。被害を受けたとは言え本尊は奈良朝以来歴然として鎮坐しており、須弥壇中心部の様子は不明ながら明治三十六年(一九〇三)に大仏殿修理工事の上屋足代の設営のため大仏蓮華座をめぐって直径二・五メートルの壺穴を掘ったところ、地下四五センチの位置から、明治四十(一九〇七)年九月二日に大仏殿須弥壇正面で金鋼荘太刀二口の他銀製鍍金蝉型鑲子と漆皮箱の残片が、同年九月四日には大仏壇上の西南位置で金銀荘太刀二口、刀子残片、瑞花六花鏡、真珠、琥珀、水晶などの珠玉を二口の水晶製合子に納めた銀製鍍金狩猟文合子が、次は明治四十一年(一九〇八)一月十四日に大仏壇上後方から金鋼荘太刀と銀荘太刀の各一口、水晶玉、自然のままの水晶柱が発見された。これは明治七年(一八七四)発見の興福寺金堂鎮壇具に続くもので、寺院創建時の丁重なる祭祀の様子を伝えている。特に銀製鍍金狩猟文壺は高さ四四センチと小振りのものながら、騎馬上から鹿のような動物を弓射する状況の他、山岳・樹木・草花が表され、これら文様には鍍金が施され、地文には魚々子が刻まれる正倉院宝物等に通じる作例である。
大仏殿前庭に立つ高さ四六二・一センチの八角籠は、一部に小補修を伴うものの治承・文禄の兵火をまぬがれた貴重な存在である。燈籠としては竿がやや短いように感じられるが、大仏にふさわしい威風堂々とした形と言えよう。頂上には四方に火焔を配した宝珠(康和三年(一一〇一の後補)を乗せ、笠は八方に延びる降棟で先端を蕨手形として上に雲珠、下に風鐸が付けられていた模様である。火袋は東南西北の各面が扉で、菱格子に各扉上下に雲中を迅駆する獅子を配し、各扉の間には音声菩薩四軀を浮彫で表す。西南の横笛、西北の尺八を奏する像は当初のままであるが、東北の銅鈸子をかなでる像は近年盗難にあって別保存され(現状は複製品が入る)、東南の笙を吹く像は後補である。中台の周縁にも浮彫が施され、竿には『施燈功徳経』や『菩薩本行経」の要文が上下二段に刻まれている。『正倉院文書』の「雑物借用并返納帳」に天平勝宝三年(七五一)造燈爐料として紙四十張借用のことが記されており、この頃が本燈籠製作の時かと考えられる。音声菩薩の表現は誠に瑞々しくしかもふくよかで、衣文や天衣が風になびく様を巧みに表し、両肩に懸る垂髪をこれほど豊かに造形した例は他に見られない。
同じく大仏開眼頃の作と考えられるものに銅造誕生釈迦仏立像とそれに伴う灌仏盤がある。誕生仏は像高四七・五センチと一般の作例に比して格段に大きく、大仏にふさわしいものと言えよう。大仏開眼は天候等の理 由で四月九日となったが、本像は開眼に伴う仏誕会の本尊として造像されたと考えられる。当然のことながら童顔で、その表情は大仏殿前の八角燈籠に示された音声菩薩像中横笛を吹く像の様式に極めて近い。三道をはじめ肉身のくびれは極めて明確で、柔肌の肉付けを見事に表現している。現在天上を指す右手の前半から先が後補に替わり、台座は木製の補作である。悉達太子(釈迦)が誕生した時、諸天は十二種の香湯と諸々の花をもっ太子を浴みさせたとされ、それに倣って香水で浴させることが仏誕会には行われたが、この香水を受ける器が灌仏盤である。直径八九センチ程の大盤で、周縁には鳥獣・草花に蝶・山岳・群樹・楼閣・霊芝雲が線刻されるが、正倉院宝物のように山岳等を点景的にあしらう手法と異なり、各文様が等単位で表現されていることが特色と言えよう。文様の中には幅を持って鳥に乗る神仙や獅子に乗る胡人、虎に追われる唐子などが混り、中国古来の伝統と西方からの影響が見られ、国際的に展開した唐代美術の有様が強く感じられるが、正倉院宝物と比較すると和風化の傾向が強いと言えよう。
大仏開眼会に際しては伎楽が演じられた。伎楽は推古二十年(六一二)に百済人味摩之が中国の呉からもたらしたと言われ、飛鳥時代から寺院の法会には欠くべからざるものであった。その実体は現在明確ではないが、横笛、腰鼓、銅鈸子等の鳴物に合わせた寸劇風の所作と考えられ、それに使われる面は大振りで頭部をスッポリと覆う形で、彫刻的な立体感に富んだものである。飛鳥時代の作例は樟材製のものが多いが、奈良朝に入ると重量の軽減化も考慮して桐材製や乾漆製のものが主流を占めるようになる。その作者としては基永師、延均師、捨目師、相李魚成の名が知られ、天平勝宝四年(七五二)四月九日の年紀と共に面裏に墨書されている。
寺院にとってその名を示す額はいわば表札のような存在で、東大寺には元西大門に掲げられていた「金光明四天王護国之寺」と記された額があ る。「東大寺要録」によれば、大仏の鋳造が終わった翌年の天平勝宝二年(七五〇)二月二十一日に、聖武上皇、皇太后、孝謙天皇の三人は東大寺に臨幸し、前記のように寺名を定めたとされる。聖武天皇の勅書と伝えられるが確証はなく、勅賜の額と考えるべきであろう。緊直な書体で二行に書かれ額縁の上縁には跪坐する梵天、帝釈天、その下左右に四天王、最下部に金剛力士像の八軀を配している、金剛力士像はその作風から奈良時代の作と思われるが、他の六軀は鎌倉時代の補作であろう。通常寺の正門は南大門であるが、東大寺の場合平城京の外京に位置し、平城京の前を通る二条大路の東端に開かれた国分門(西大門)が宮廷への敬意を表し正門的扱いを受けていた模様である。西大門は天正十一年(一五九三)三月の大風で転倒し、以後再興はなかったようで、額は倉に保存されていた。
「大仏の大鐘」で親しまれる梵鐘は、『諸寺縁起集』によれば天平勝宝ニ年(七五〇)五月に鋳造を始めたが失敗に終わり、同四年正月八日に原型を造り閏三月七日に鋳成し、大仏開眼の前日に孝謙天皇の御幸を得て鐘楼に架けたと言われる。天皇の行幸はともかくとして、製作の時期は『正倉院文書』からも信じてよかろう。総高三八五.五センチに対して口径が二七〇.八センチもあり、形状としては胴部が太すぎる感はいなめないが、そ れだけに大仏の鐘として威な姿を示している。大きさの面からの配慮か、乳の間の下をめぐる五線の条帯が縦帯をこえて胴を一周しているところが本梵鐘の大きな特色である。二六・三トンという重量であるが、銅の含有率は九〇パーセントで奈良時代の銅製品としてふさわしいものである。現鐘楼は承元年中(一二〇七~一二一〇)頃、第二代の勧進職である栄西によって建てられたもので、延応元年(一二三九)六月六日に鐘が落下したが、十月七.八日に再び釣り上げられたと言われる。
創草期の東大寺の美術品としては、天平勝宝四年(七五二)に実忠によって創始された「お水取り」の呼称で名高い十一面悔過本尊の「大観音」光背(寛文七年〈一六六七〉焼失破損)や葡萄唐草文染韋、花鳥彩絵油色箱、賢愚経、二月堂焼経、正倉院宝物など触れなければいけない宝物は数々あるが、紙数の都合で割愛させていただく。
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