東大寺のすべて,奈良國立博物館,2002。
鷲塚泰光
(法華堂不空羂索觀音與日光、月光菩薩)
今年大仏(盧舎那仏)開眼千二百五十年を迎えた東大寺は、総国分寺として八世紀半に聖武天皇によって創建された寺であることは多くの人々が知るところである。しかしこの大寺は治承四年(一一八〇)と永禄十年(一五六七)の二度にわたる兵火のため、伽藍の大部分を失っている。その再興には俊乗房重源と龍松院公慶の尽力があったことも広く知られている。この二度の大火で罹災した殿堂・仏像・仏画・仏具の数はおびただしいものであるが、幸いにもその難を遁れ、今日我々が目にすることができる文化財も数多いことは誠に幸せである。ここでは東大寺前史とも考えられる金鐘寺をはじめとして寺に伝来したものを中心に紹介し、『東大寺のすべて』という特別展覧会鑑賞の理解の一助となれば望外の幸せである。
金鐘寺の成立と塑像群
神亀四年(七二七)十月五日、聖武天皇と光明皇后の間には基王という皇太子が誕生した。二人にとっては将来を託すべき何よりの心強い存在であ ったろう。ところがその基王は一歳の誕生日を迎える直前の神亀五年九月十三日に夭折された。天皇・皇后の悲しみはいかばかりであったろうか。この霊を弔うため、十一月に智努王山房司長官に任じ、智行僧九人を山房に住まわせたことが『続日本紀』に見える。おそらくこれが若草山麓に構えられた「金鐘山房」(金鐘寺)の始めであろうかと考えられる。『東大寺要録』によれば天平五年(七三三)に金鐘寺が創建されたとあり、先の智行僧九人の中には東大寺創建に尽くした良弁も含まれていたのであろう。初め基王の霊を祀る山房として出発した寺は、次第に堂舎を整え、千手堂・羂索堂などが成立し、天平十二年(七四〇)に良弁は新羅僧審祥を招い金鐘寺で初めて華厳経の講説を行っている。天平十三年(七四一)には国ごとに国分寺・国分尼寺を創建させる詔が発せられ、この金鐘寺は大和国の国分寺としての地位を与えられ、金光明寺として天平十四年(七四二)に皇后宮の令旨によって安居の制が設けられ、『正倉院文書』にも「金光明寺一切経所」の名が初めてあらわれる。翌天平十五年(七四三)には大和国金光明寺で最勝会が催され、天平十六年(七四四)には華厳経講説の知識華厳別供が設けられている。この頃から天平勝宝四年(七五二)が羂索院の最も充実していった時期で、天平十八年(七四六)三月に良弁は羂索院で初めて法華会を修している。同年十月六日聖武天皇らは金鐘寺に詣で大仏に盛大な燃燈会を行ったことが『続日本紀』に見えるが、この盛儀は大仏の原型が完成したことに対するものか、おそらく千手堂安置の銀造盧舎那仏造立供養か、意見が別れている。
東大寺の前身とも言えるこの上院地区の金鐘山寺は金光明寺と名を変え、やがて東大寺に含まれて行くが、数多く存在した堂宇の中で天平の遺構を留めるのが上院の一中心であった羂索堂(三月堂)である。堂は、桁行五間梁四間寄棟造本瓦葺の正堂の前に別棟の檜皮葺礼堂があったらしいが、正治元年(一一九九)頃五間二間入母屋造の礼堂が再建され、今見るような姿となった。正堂の須弥壇上には本尊の脱活乾漆不空羂索観音立像を中心に八驅の巨大な乾漆像と四の塑像、他に数の木彫像が正に林立している。
中尊の不空羂索観音立像は正面に銀製の阿弥陀仏立像をいただき二万を超える宝石をちりばめた銀製宝冠をかぶり、三目八臂で左肩より鹿皮を懸け直立する姿で、合掌する第一手の掌には宝珠を挟んでいる。両肩から垂下する天衣は第三手の手首から大きくたわみながら蓮肉上に至り、下半身の安定に大きく効験している。三目八臂の姿は『不空羂索神変真言経』に説く「大自在天」を根拠とすると考えられている。また第一手掌中の宝珠は如意宝珠で後の如意輪観音に通じ、密教像の早い作例ではなかろうか。三メートル六〇センチを超える像容は中央に太い木芯を立てる脱活乾漆造で、鹿皮や天衣は本体とは別に造られ、これにかぶせるという入念の作で、瓔珞も銅線に乾漆を盛り上げたもので造られる。本像の発願主は良弁と思われ、天平後半期に造像され、天平十九年(七四七)の『正倉院文書』に見える光背料として鉄二十挺が申請された頃が全体の完成期と考えてよかろう。なお四重の光輪をめぐらせ唐草と光条を配した華麗な光背は、現状頭光部が像の肩の辺に位置しており、当初より明らかに低くなっているが、これは本像が乗る八角の大形仏壇が堂に持ち込まれたとき支柱が切り詰められて低くなったものと考えられている。躰が引き締り古典的な整斉を示す本像は天平乾漆像の頂点を示すと言っても過言ではないが、表情に見受けられる沈鬱さは天平宝字年間製作の唐招提寺盧舎那仏像へと通じるも のをひそめているかもしれない。
中尊の左右の間には脇侍として巨大な梵天・帝釈天立像が安置される。立襟の皮甲の上に寛衣をまとい左手に経巻を握る梵天と、両手を垂下させ 右手に持物を執る形で寛衣をまとう帝釈天像で、四メートル近い像高である。現在梵天と呼ばれる像が甲を着けるところから、本来は帝釈天として造像され、名称が入れ替ったのかもしれない。地髪には天冠台のくびれがあり、宝冠を戴いていたことがわかる。髪筋は細かく丁寧にそろう。瞳を上に寄せて遥か遠方を凝視し顎を引く表情には威厳があり、梵天像の衣襞をやや繁く、帝釈天像のそれは省略して要所にのみ襞を畳む対称的な形を示すが、画像とも茫洋とした力強さが感じられ、中尊よりやや遅れての造像かと考えられる。
須弥壇の四隅を守護する四天王像は増長天像のみ吹返付の兜をかぶり、他の三軀は頭頂に五角形の前立飾を付けて髪を結い、いずれも皮甲をまとい手は獅噛からのぞかせ、邪鬼上に直立に近く立つ姿で、表情にも激越な怒りは見られず、動態を写実的に捉えながらそれを理想化しようとする傾向が見られ、仏界守護の巨人という印象を与える。
中尊の前方に立つ金剛力士像二重は右方(西)が怒髪開口の阿形像で、左方(東)に閉口の吽形像を配する。両像とも皮甲をまとい、阿形像は武器(亡失)を高くかざし、吽形像は胸前に構えて洲浜上に立ち体勢を中央側に開く。金剛力士像が須弥壇上に安置される例は多くはないが、保存状況よりして当初の姿と思われる。上半身が裸形でなく着甲する例は古代にはまま見られる形で、阿形像を右方(西)に配するのも長谷寺銅板法華説相図などに例があるが、東大寺の特異な形と考えられよう。表情は森厳で、動態の一瞬を捉える肢体は写実的造形の完成期を示し、中尊像に最も近い造形と言えよう。
これら八軀の天部像はその作行きに若干の相異はあるものの不空羂索観音像と一具の作と考えてよく、乾漆の内部構造が不明な像もあるが、多くは肩・腰・裾(膝上)の三カ所に空洞部に沿った棚板を嵌め、この三枚を頭頂から垂直に延びる芯木と足枘を含めた両足から立ち上る芯木が貫通して像を支えているようである。中尊像が漆箔であるのに対し、天部像は金箔を伴う彩色で、特に四天王と金剛力士像の彩色は誠に鮮かである。
不空羂索観音像の背後に北面して鎌倉時代の厨子が設けられ、中に厳重秘仏として執金剛神立像が安置されている。日頃は十二月十六日の良弁僧正の忌日にだけ開扉されるが、今回は寺側の特段の英慮によって前後三 十九日間開扉されることとなった。元結(もとゆい)紐をなびかせ目を瞋(いか)らせ開口激怒する表情で、皮甲に身を包み体を左に開いて、大振りの金剛杵を右手に高く掲げ、左手は拳を作って下方に垂し、体のまわりには風をはらんだ天衣が大きい空間を構成する。秘仏であったせいか各所に残る色彩は目を見はるばかりで、特に背面に施された雲形花文と孔雀の羽の文様は細を極めたものである。文様はいずれもやや小振りで、色の取り合わせは古様を示し、非常に丁寧に描かれている。先に見た正堂の諸尊がいずれも脱活乾漆造であったのに対し、本像は頭頂から腰に至る上体の芯を両足から延びる芯本が受け、肩には横桟をかけてこれに両手の芯木が取り付けられ、各々の芯木には荒庭や縄を巻き付け、細部には銅線を芯として山土に籾殻を混ぜた下塗り土をかけ、その上に紙苆(かみすさ)と雲母の入った青みがかった仕上げ土を二層にかけて造形している。なお瞳には暗緑色の石が嵌められている。本像の特色は怒勢の生な表現をきめ細かい写実的技法で表現したところで、そこには初発性が感じられ、東大寺に伝来する塑像中でも最も早い時期の造像と思われ、天平年中も半頃ではないかと想像される。本像にまつわる数々の説話は『日本霊異記』等に説かれるが、金鐘行者はともかくとしても、良弁と縁の深い造像と考えられ、『不空羂索神変真言経』に基づき、不空羂索観音と表裏一体をなすものとする説も立てられている。
不空羂索観音像が乗る二重の八角仏壇の左右には像高二メートル余の日光・月光菩薩と呼ばれる塑像が立つ。共に髪を結い地髪部に正面と左右に花飾のある頭飾を付け、大袖の衣をまとって合掌する姿であるが、日光菩薩像は袈裟を懸け、月光菩薩像は襟から菊花形の飾りを垂し、その先に皮かと思われる帯を垂している。本像にも当初華やかな彩色があったと思われるが、その多くは剥落し襞の間にわずかに残るのみとなるが、文様には截金も混えている。構造は太い芯木に上下の横桟を渡し、これから前膊の芯を出し、袖や下半身の脇にも芯木を入れて、執金剛神像とほぼ同様な塑土で象形を行っている模様である。表情は深い静観の相を示し、各部の肉取りはまことにきめ細やかで控え目に施されており、その微細な造形感覚は天平塑像の完成された姿を示すものといえよう。尊名については確証はなく、梵天・帝釈とするものや縁覚とする説もある。いずれにしても堂当初からの像ではなく、羂索堂に客仏として迎えられたものである。
今一つ東大寺の塑像として名高いものに戒壇堂に安置される四天王像がある。四の像は前方の持国・増長天像ならびに対角線状に配される持国・広目天像、増長・多聞天像とその表情、体勢共に巧みな対比を示し、奈良朝四天王像の頂点に立つものと考えられる。怒りの表情も激越に走らず深く静かなもので、頭躰の調和や均整のとれた動態表現は瞬間の動きを理想的に永遠化しようとする様が見られる。製作の時期は羂索堂日光・月光菩薩像に近いと考えられる。天平勝宝七年(七五五)に創建されたの当初の四天王像は銅造のもので、本像は享保十八年(一七三三現戒壇堂の建立に当たり中門堂から移されたとするが、当初の安置堂宇は不明である。
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