東大寺のすべて,奈良國立博物館,2002。
栄原永遠男
(東大寺今貌)
第三期の東大寺─安土・桃山時代~現代
大仏の再現と二月堂の焼失
東大寺境内を戦場として行われた永禄十年(一五六七)の三好・松永の戦 いにより、大仏殿は炎上、大仏は頭部が焼け落ち、「湯とならせ給う」(『多開院日記』)といわれたほどの大損傷を受けてしまった。重源によって再現された堂舎・仏像も、南大門を残して、あらかた焼失した。
戦国時代のさなかにもかかわらず、大仏の再鋳と大仏殿の再建の動きが 始まった。大仏の方は、すぐさま鋳掛け修理が始まり、断続的に続けられたが、外護者織田信長の死などで中断に追い込まれた。その後、江戸幕府 第五代将軍徳川綱吉の代にいたってようやく再開され、台座蓮弁の修理、仏頭の鋳造がおこなわれた。結局約百二十年という長年月を費やして、元禄四年(一六九一)ようやく完成。翌年、盛大に開眼供養が行われた。これが現在の大仏である。
この間、寛文七年(一六六七)には、治承・永禄の二度の兵火をまぬがれ、古代以来の命脈を保ってきた二月堂が修二会のさなかに焼失した。当時、永禄の災難の痛手は深く、大仏・大仏殿を始め、諸堂舎はまだ再建のめどすら立たない有様であったため、この火災は東大寺にとってたいへんな衝撃であった。東大寺はただちに幕府に再建を願い出て、同九年に再建され、現在に至っている。
大仏殿の再建
これと並行して、大仏の仮堂が造られたが、慶長十五年(一六一〇)に大風で倒壊して以来、大仏は露座の状態となり、仏頭を欠き、各所を損した ままの痛ましい姿をさらすこととなった。これをみた公慶(一六四八~一七〇五)は、貞享元年(一六八四)に江戸幕府から大仏殿再興の勧進をおこなう許可を受け、諸国をめぐる活動を開始した。大仏の胎内に安置されていた 「公慶上人大仏殿修復勧進帳」によると、多くの庶民が少額の銭を喜捨した様子がうかがえる。一方、将軍綱吉は、護持僧である護持院隆光や母の 昌院の影響でいだいていた仏教信仰から、また将軍の権威と実力を誇示示する必要からも、手あつい援助をおこなった。
大仏殿再建工事のカギをにぎる長大な虹梁用の巨材は、長年の探索の結 果、ついに霧島山系の白鳥神社付近で発見、採取された。現場で輸送用に 加工され、陸路鹿児島湾に運び出され、そこからは千石船で兵庫に運漕された。さらに淀川水系をさかのぼって木津まで運ばれ、ふたたび陸路で工事現場に運びこまれた。この間「寄進引き」と称して、多くの人々がボランティアで労力を提供した。
この虹梁は宝永二年(一七〇五)に無事に棟に引き上げられ、上棟式がとりおこなわれた。その三カ月後、公慶は五十八歳で没したが、工事は着々と進められ、同六年(一七〇九)にいたってついに完成した。現在の大仏殿 である。その規模は、創建時や鎌倉再建時のものに比べて桁行十一間を七間に縮めたものの、梁行と高さは同じという巨大な建築物であった。将軍綱吉の死の直後であったが、盛大な落慶供養が催された。
諸堂・諸仏の復興
大仏の再現と大仏殿の再建は、永禄の兵火の痛手をのりこえて、東大寺が ふたたび立ちあがった何よりのあかしである。しかし、大仏殿院の回廊や 中門その他の再建、大仏の光背や両脇侍、四天王像、中門の二天などの造作など、さまざまな課題がまだ山積していた。これらは、公慶のあとをついで歴代の大勧進職となった公盛・公俊・庸訓・公祥らにゆだねられた。
彼らは、正徳・享保期の財政緊縮により、幕府の援助が十分には期待で きない中、民間の勧進に頼らざるをえず、苦闘を続けたが、すこしずつ成 果を上げた。中門は、正徳三年(一七一三)に棟上げをし、享保元年(一七一六)には完成したらしい。その二天の開眼供養は享保四年におこなわれた。大仏光背の再興は難航し、元文四年(一七三九)にようやく完成した。また、脇侍の観音菩薩坐像は元文三年ごろにできあがったが、もう一方の虚空蔵菩薩像の完成は、実に宝暦二年(一七五二)まで遅れることとなった。
明治と昭和の大修理
明治維新は、南都の諸寺に大きな影響をおよぼした。東大寺も例外ではなく、財源の枯渇、子院の取り壊しなどで境内は荒廃した。明治三年(一八七〇)には大勧進職が廃止され、同五年には、印蔵に伝えられてきた文書群が皇室に献納され、東南院文書として正倉院に移された。また、同二十七年には尊勝院経庫も収蔵の経巻とともに皇室に献上され、聖語蔵として正倉院内に移築されている。
江戸後期から、大仏殿や諸堂の傷みが進んだので、明治三十六年になっ大仏殿の明治大修理が始められた。これが軌道に乗ったのは日露戦争後 で、大正四年(一九一五)に落慶供養がおこなわれた。太平洋戦争中は、昭和十九年(一九四四)から終戦まで、空襲による被災をさけるため、三月堂の諸仏の疎開が計画され、一部実施される波乱があった。戦後になると、昭和四十九年から同五十五年にかけて昭和大修理がおこなわれている。この間、大仏殿以外の建築物や仏像などにも修理の手が加えられた。たとえば平成元年(一九八九)からの南大門の仁王像の解体修理などである。
今日の東大寺
このように、東大寺の歴史は、一面において焼亡と再建のくり返しであった。一山覆滅の危機のたびに、重源や公慶のような傑出した人物が現れ、再建に身を挺した。その時々の権力は、その力を誇示するために、援助をおこなってきた。しかし、多くの民衆が勧進の呼びかけに応えて、私財を投じてきた面を見逃してはならない。創建以来の知識の伝統は、脈々と受 け継がれてきた。今日、奈良の東北に威容を誇る東大寺は、民衆によって支えられてきた側面を持っているのである。