東大寺のすべて,奈良國立博物館,2002。
栄原永遠男
(鎌倉時代再建の奈良東大寺大仏殿模型。 奈良少年刑務所製作。)
第二期の東大寺─鎌倉~戦国時代
治承の兵火と重源の活躍
治承四年(一一八〇)、平重衡の率いる平氏の軍勢による焼き討ちによって、東大寺の主要伽藍は灰燼に帰した。これにより、大仏殿と回廊・食堂 (史料によっては東塔も)など、創建以来の由緒をもつ堂塔が焼失し、講堂・三面僧房・戒壇院・真言院・東南院・尊勝院なども失われた。大仏は、頭部がうしろに転げ落ち、手も落ちるという惨状であった。炎上した諸堂院に安置されていた古代以来の諸仏や古式の品々が、平氏の兵に妨げられて、ほとんど持ち出せなかったのは、残念というほかない。
未曾有の大災害をこうむった東大寺の再建は、源平争乱のさなかにもかかわらずただちに始められた。大勧進に抜擢された俊乗房重源(一一二一 ~一二〇六)は、当時六十一歳の高齢であったが、入宋三度の経験を持ち、建築に明るく、経営の才能にめぐまれていた。彼は、ただちにその同朋たちとともに諸国をめぐって費用を集め、おりしも来日中の宋の陳和卿らに依頼して大仏を修復させた。文治元年(一一八五)の開眼供養では、後白河法皇がみずから開眼の筆をとった。
つづいて、大仏殿の再建では、用材の確保に大いに苦しんだが、造東大寺料国にあてられた周防国の深山でようやく良材を発見した。地頭らの妨害にもかかわらず、重源の差配のもと、切り出すことに成功し、奈良まで運漕された。
大仏殿は、重源が採用した大仏様(天竺様)の建築様式で工事が進められ、建久元年(一一九〇)に上棟式を行い、同六年には後鳥羽天皇、源頼朝、北条政子、公卿たちが列して落慶供がいとなまれた。頼朝は、鎌倉から
数万の軍勢を率いて参列し、威を示した。このように、源頼朝が与えた援助には多大なものがあった。彼自身の仏教信仰や重源に対する信頼に加えて、平氏の手で焼き払われた東大寺を再建することによって源氏の権威を高めることを意図していたとみられる。
つぎに取り組まれたのは、大仏の脇侍や四天王像の造像であった。これは、運慶・快慶らの慶派の仏師によって成しとげられた。さらに戒壇院金堂がたてられ、快慶によって僧形八幡神像が造られている。また、正治元 年(一一九九)には大仏様建築の南大門の棟上げが行われ、仁王像が短期間で制作された。
これらは、重源のたぐいまれな行動力と強力な指導力によって成しとげられたものであった。彼は、建仁三年(一二〇三)に東大寺総供養をおこな い、一生を振り返って『南無阿弥陀仏作善集』を記して、建永元年(一二〇六)八十六歳で没している。
重源没後の状況
重源亡き後、大勧進職は栄西・行勇に引き継がれたが、再建のペースは大いに落ちた。東塔が再建されたのはようやく嘉禄三年(一二二七)のことであり、講堂の上棟式は嘉禎三年(一二三七)まで遅れた。
しかし、その東塔は、康安二年(一三六二)に真言院とともに焼失してしまった。ただちに室町将軍足利義満義持が援助に乗り出している。さらに、文安三年(一四四六)には戒壇院、永正五年(一五〇八)には講堂と三面僧房が全焼した。このように、室町・戦国時代には、重要堂塔の罹災が相次いだが、東大寺には、戒壇院金堂をのぞいて、これらを再建する力は残されていなかった。
寺院組織と財源
重源以後の歴代の大勧進たちが造営・修理の拠点としたのは、東大寺 進所であった。これは、鎌倉後期には、仏前の灯明のための灯油勧進の組織である油倉に吸収され、勧進所油倉として造営・修理を担当するようになった。一方、寺院経営の面では、学侶たちのかかわる比重が増し、年預五師(五師の筆頭)が、しだいに寺家別当にかわって寺家経営をリードするようになっていった。
中世東大寺の主要な財源は、従来の寺領荘園と、周防・播磨・備前・安芸・肥前などの造営料国であった。造営科国では、大勧進が国司となって国衙領を経営し、租税を徴収した。また、兵庫関の開銭も重要な財源であった。これらの庄園や諸国では、在地の地頭や悪党との争いが、訴訟や僧兵の出動による武装闘争として、たえまなく続けられた。
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