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東大寺のすべて,奈良國立博物館,2002。

栄原永遠男

三つの時期

大仏・大仏殿の被災 

平城京の東に接して、いまも幾多の堂舎を連ねて厳然と存在する東大寺の歴史は、やはり本尊である大仏(盧舎那仏)とそれが鎮座する大仏殿(金堂)の興廃によって時期区分するのが適当であろう。もちろん、境内の多くの堂塔諸屋も、それぞれ焼失や倒壊と再建をくり返してきた。しかし、東大寺が、大仏・大仏殿の倒壊と再建を軸として歴史をきざんできたことに、誰しも異論をさしはさむものはいまい。

周知のように、東大寺の大仏・大仏殿は、これまで二度にわたって決定的なダメージを受けた。はじめは、治承四年(一一八〇)の平氏の南都焼き討ちによる痛ましい被災であり、二度目は、永禄十年(一五六七)の三好三人衆と松永久秀の戦いによる大きな損害である。われわれをして安堵せしめるのは、二度とも、その直後から復興の動きがわき起こり、大仏と堂塔伽藍がよみがえってきたことである。この二度の大難を境にして、東大寺の歴史には、三つの時期を設定することができる。

時期区分

第一期は、大仏造を頂点とする東大寺の草創期から、治承四年の最初の被災に至るまでの約四五〇年間である。この時期には、奈良時代と平安時代がふくまれる。つぎの第二期は、重による東大寺の再建から、永禄十年における二度目の被災までの約三九〇年間である。この間、鎌倉・南北朝・室町・戦国と時代が移りかわった。そして第三期にあたるのが、それ以後、現在までの約四四〇年間で、安土・桃山時代、江戸時代と近現代である。

【引用】東大寺の歴史-1

(創建当時の東大寺金堂の模型。天沼俊一設計。東大寺金堂内に展示。)

第一期の東大寺─奈良・平安時代

大仏造顕の発願

紫香楽宮にいた聖武天皇は、天平十五年(七四三)十月に盧舎那仏の金銅像を造ることを宣言する詔を出した。その中で天皇は、「天下の富」と「天下の勢」を有するが、「国銅を尽し」「大山を削りて」大仏と大仏殿を造るが、広く知識(結縁のために仏事に私財・労力を提供すること、またそれをする人々)に期待したいので、たとえ「一枝の草、一把の土」であっても協力しようとするものはこれを許す、と述べている。この聖武天皇の発願は、天平十二年(七四〇)に河内国の知識寺で盧舎那仏を拝したことを機縁としている。天皇は、民衆の知識によって華厳経による盧舎那仏の造顕がなされたことに救いを求めようとしたのであろう。

この詔が出された直後に甲賀寺の寺地が開かれた。行基が知識をつのる活動を始めたのはこの時であった。これ以後、紫香楽の地で大仏造営が開始され、翌天平十六年(七四四)十一月には、大仏の体骨柱(鋳型の中型の芯柱)を建てるところまで進んだ。

しかし、天平十七年(七四五)に都が平城京にもどるとともに、紫香楽での工事は停止され、場所を現在の大仏鎮座地に移して、あらたに工事が開 始された。大仏本体は、天平十九年(七四七)から天平勝宝元年(七四九)までに、八回に分けて鋳造された。東大寺の名が初めて史料に現れるのは、この天平十九年のことである。つづいて螺髪が造られ、鍍金(金メッキ)がまだ部分的な状態で、天平勝宝四年(七五二)四月に開眼の大会がおこなわれた。これより先、如意輪観音と虚空蔵菩薩の両脇侍(塑像)はすでに完成していた。

大仏開眼会は「仏法に帰りてより、斎会の儀、嘗て此の如く盛なるは有らず」(『続日本紀』)といわれた盛大なもので、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇や文武百官、僧一万人が参列するなか、菩提僧正によって開眼された。つづいて華厳経の講説がおこなわれたあと、国際色豊かなさまざまな楽舞が催された。開眼筆その他の用具類、多くの楽具・楽衣装など正倉院宝物として現存している。また、正倉院文書のうち蝋燭文書と呼ばれてきた内容不明の巻物が、この時参列した僧たちの名簿であり、一万という数が誇張ではないらしいことが最近判明して話題を呼んだ。

台座蓮弁は、天平勝宝四年(七五二)から八歳(七五六)にかけて鋳造され たらしく、当時のものが現存している部分が多い。光背の製作に着手したのは天平宝字七年(七六三)であり、宝亀二年(七七一)の完成までに八年を要している。

大仏殿の造営

大仏殿は、大仏本体の鋳造が終わった天平勝宝元年(七四九)以後に工事が開始され、講堂の造営工事が始まる以前の天平勝宝四年(七五三)ごろには完成していたと推定されている。その規模は、桁行十一間(約八六メートル)、梁行七間(約五〇メートル)、高さ約四七メートルもあり、現在の桁七間(約五七メートル)の約一・五倍の巨大さであった(梁行、高さはほぼ同じ)。

室内には、前述した筋二体のほか、四天王(塑像)が安置されていた。柱と天井には彩色が施されていたが、その作業は、天平宝字三年(七五九)にもまだつづいていた。また、高さ五丈(約一五メートル)、幅三丈(約九メートル)に達する巨大な織物の曼荼羅が二枚懸けられ、さらに、南都六宗の各宗が典拠とする経典を収めた六宗厨子が置かれていた。聖武太上天皇の 没後、その遺品が大仏に献じられた。これが正倉院宝物の中心であるが、正倉院宝庫に納められるまで、それらは堂内の仏前に供えられていた。

その他の堂塔については、造営時期のみ簡単に整理するにとどめよう。まず回廊は、聖武太上天皇の一周忌の天平勝宝九歳(七五七)五月までには完成していたらしい。講堂は、天平勝宝五年(七五三)には用材を切り出し ており、同七歳(七五五)には本尊を作り始めているが、いつ完成したか確証がない。西塔は天平勝宝四年(七五二)完成とみられ、東塔はこれよりおくれて天平宝字八年(七六四)ごろにできたという。僧坊の完成はさらに遅れて、延暦元年(七八二)ごろまで下るらしい。

以上の東大寺大仏や堂塔伽藍の造営には、律令国家が膨大な国費をつぎ込んだが、それに加えて、『続日本紀』や『東大寺要録」によると、多くの 地方豪族が莫大な知識物を寄進したことが記されている。こうした記録に みえる以外にも、多くの民衆が知識を行ったことは容易に想像できる。ここに大仏造顕や東大寺造営の特色があり、その精神は後代まで影響を及ぼし続けた。

東大寺の前身

ところで、紫香楽から移された大仏の鋳造場所が現在地とされたのには、それ相当の理由があった。まず、神亀五年(七二八)に生後一歳未満で没した皇太子某王の菩提を弔うために、同年末に山房が造られた。これは金鍾山房とも呼ばれた。その場所は、近年発見された丸山西遺跡である可能性が高い。これとは別に、福寿寺と呼ばれるある程度の規模をもつ寺院も存在した。この寺院の荘厳は、天平十年(七三八)ごろに立案もしくは進行していた。これは、現在の東大寺境内の上院地区にあったと考えられる。ここには法華堂(羂索堂)が存在し、僧審詳(審祥)を中心として華厳経の研究が進められていた。天平十四年(七四二)ごろ、国分寺造営の構想にもと づいて、この山房と福寿寺は、一体として大和国の金光明寺(国分寺)とされた。これは、金鐘寺とも称された。

このように、紫香楽から大仏の鋳造場所が他に移されようとしていたころ、上院地区から丸山西遺跡にかけての地域では、大和国の国分寺が存在して おり、盧舎那仏にかかわる華厳経の研究が進められていたのである。このことが契機となって、そのすぐ西側の山脚部を新たに大仏の鎮座地とし、それにともなう大規模な伽藍を造営することが計画されたとみられる。そして、大仏の鋳造開始のころ、金光明寺と新たな伽藍地を含む全体を東大寺と呼ぶようになったのである。

平安時代の東大寺 

鋳造後約五十年を経た延暦二十二年(八〇三)にいたって大仏の背部その 他が傷んだので修理し、その四半世紀後の天長四年(八二七)には、傾斜してきた大仏の倒壊を防ぐために背後に山を築いて支えとした。さらに斉衡二年(八五五)の地震によって、仏頭が転落するという大事故が起きている。 平城天皇の皇太子であった真如(高丘親王)が修理東大寺大仏司検校として、貞観三年(八六一)に完成させている。彼が、先の聖武天皇の詔を引用して、広く人々に寄進を呼びかけたことは注目してよい。

しかしその後、重要な建物がいくつか失われた。まず、延喜十七年(九一七)には講堂と三面僧坊が焼失した。その再建には承平五年(九三五)までか かっている。ところが、その前年の承平四年には西塔が焼失している。再建には取りかかったが、結局完成しなかったらしい。つづいて、応和二年(九六二)には、南大門・大鐘楼などが倒壊した。南大門は、はっきりしないが平安末期には再建されたのであろう。

平安時代の東大寺の特色に、学僧たちが居住する子院が設けられたこと があげられる。まず、空海が弘仁十三年(八二二)に建てた灌頂道場を中心として真言院が形成され、つづいて貞観十七年(八七五)には聖宝が東南院のもととなる薬師堂を建て、天暦九年(九五五)には、光智によって尊勝院が創建されている。東南院では三論宗・真言宗が学ばれ、尊勝院は華厳宗・真言宗を中心とした。これらはそれぞれ独自の財源を持って興亡したが、後に見る平氏の焼き討ちによっていずれも焼失し、その後再興されている。

寺院組織と財源 

創建期以来、東大寺の経営は三網(上座・寺主・都維那の三役)が拠点と する三綱所(政所)によって、また造営修理は造東大寺司によりおこなわれてきた。このうち、後者は延暦八年(七八九)に廃止され、その業務は、三綱管下の東大寺造寺所(東大寺所)に引き継がれ、さらに十一世紀前半には東大寺修理所となっていった。

創建期の東大寺の主な財源は、律令国家によって施入された五千戸の膨大封戸や、四千町を限度として、越前・越中などの北陸道諸国を中心に 施入された土地を開墾した寺田からの収入であった。このうち、後者の開墾状況を描いたものが、天保四~七年(一八三二~三六)の正倉院宝庫の修理時に発見されたいわゆる東大寺開田図である。

しかし、律令国家の衰退とともに、その権力を支えとしていたこれらの財源は、平安前期にはいずれも不振におちいった。そこで、これに代わる収入源の確保が、さまざまな方法によって、平安時代を通じて模索されつづけた。封戸物の便補(国衙領内の特定地を封戸物の納入地に指定すること)、観世音寺その他の末寺領の吸収、施入・買得などである。寺領庄園を没収しようとする国司(受領)との対抗も、訴訟などを通じて絶え間なくおこなわれた。これらの事態に対応して、新たに設けられた東大寺別当(寺家別当)が、政所(もとの三綱所)と造寺所を配下において寺家経営をおこなう体制がとられるようになった。

摂関期以降、寺外に住む僧が寺家別当に任じられることが多くなり、そのもとに置かれた別当坊政所と寺内の公文所(政所)の連携によって東大寺は経営されるようになった。さらに、院政期には別当坊政所が常置されるようになり、これが三綱を吸収して寺家経営の中心となっていった。寺僧たちは、五師を代表者とする集会のもとにまとまっていたが、内部は学侶(僧房や院家に住んで教学を受けつぐ学僧)と堂衆(諸堂の住僧)という階層にわかれていた。

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