【引用】薬師寺の歴史-3

天延の火災とその復興

都が京都に移っても、薬師寺は諸寺とともに重要な地位を占めていた。『延喜式』には十五大寺として、南都七大寺と新薬師寺・本元興寺・招提寺・西寺・四天王寺・崇福寺・弘福寺・東寺を挙げ、平安時代に創立した寺としては東西両寺が加わってい るにすぎない。

天長七年(八三〇)直世王の奏上によって、最勝会が開かれることとなった(『類聚三代格』)。この法会は興福寺の維摩会、宮中(大極殿)の最勝会とともに「三会」と称され、その講師をすべて勤め終った人が僧綱の資格を得るという薬師寺最大の法会となった(『延喜式』『三宝絵詞』)。

また九世紀の終りである寛平年間には東大寺や大安寺の例にならい、宇佐八幡を勧請している(『朝野群載』)。(註9)その位置は寺の南園といっているから(『石清水八幡宮記録』)(註10)、もと花苑院のあった付近で、現在の八幡神社の社地はそれを伝えるものである。

こうして、大きな事件のなかった薬師寺も天延元年(九七三)二月二十七日、金堂・両塔などを除き、ほとんど全部が焼失するという火災が起った(『縁起』。以下特記しないものは『縁起』による)。火は食殿の堂童子の宿所から発火し、北風だったから食堂・講堂・僧房・回廊・経楼・鐘楼・中門・南大門などに延焼した。この間にあって、金堂にも火が移ったが、寺僧神鎮と職掌清額礼宗が身を挺して消したので助かった。さらに、回廊が焼けたにもかかわらず、その近くにある東西両塔が無事であったのは、まったくの奇蹟であった。

翌月朝廷は再建計画にかかったが、すでに天平時代ほどの実力はなく、朝廷自身でこれを再建する力を持たなかった。このため、諸堂の造営を各国に分担させる造国制 がとられた。その分担は『縁起』によると、

大門(大和) 中門・同廊(三十間 備前) 同三十間(備後) 同二十二間(安藝) 同十四間・食堂(播磨) 經樓(周防) 鐘楼・東院房(美濃) 東南僧坊(伊豫) 西南僧坊(讚岐)

の九ヵ国となっているが、『日本紀略』は「十ヵ国」とし、備前がなく備中があり、伊賀が加わっている。(註11)これからみると、『縁起』の記載に誤りや脱漏があり、中門が伊賀で、備前は備中の誤りであるかもしれない。この表に講堂が出ていないのは別当趁禅が造立することになったからである。このとき造講堂長官を任じているところによると、寺の力だけでなく、朝廷自身もこれに当る予定であったのかもしれないが、この年は御忌方に当るとして造作は止められている。しかし、趁禅は寺家の力をもって講堂を造営し、五年後の貞元三年(九七八)仮葺の講堂で最勝会を行っている。翌年平超が別当(権別当ヵ)となり、瓦葺を終え、下閣を造り、講堂の再建を完成している(なおこの間の最勝会は罹災しなかった西院堂で行われていた)。

再建の国宛はあったが、実際に造営にかからなかったとみえ、中門は平超が寛和二年(九八六)に造立し、その戸三間と二王像は別当増祐が寛弘三年(一〇〇六)に造っている。中門から出て講堂に達する回廊は備前・備後・安芸・播磨が造立するはずであったが、周防が一三間、平超が四三間と講堂東廊一〇間、他は増祐が造っている。周防は国宛では経楼担当だったもので、天元三年(九八〇)に周防守清原元輔が「造薬師寺廊」功で従五位下に叙せられているから(『三十六人歌仙伝』)(註12)、この頃出来たのであろう。

平超は永祚元年(九八九)、増祐は長保元年(九九九)に別当になっているから(『薬師寺別当次第』)(註13)、その在任中の造立とすれば、十一世紀の初めになって、回廊がほぼ出来たのであろう。しかしこのときも「但押連子小壁脇門等未修補。但長押所々打」とあるので、完成はしていない。

食堂は別当増祐が長保元年から七ヵ年で造立し、仏像の復興を果している。南大門は同じく増祐が寛弘三年に立柱し、長和二年(一〇一三)に造り終っている。ただし金剛力士と獅子は寛弘九年の造始で、門の方は栄爵一人を支給され、金剛力士や獅子の作料として備中講師を給されているので、成功(じょうこう)によったものと思われる。

その他、十字廊は増祐が寛弘二年に造立し、鐘楼は同じく増祐が、少し前の長保五年に建法寺の鐘を持って来て仮鐘楼に懸けている。

これらの再建の期間中に宝蔵が貞元二年(九七七)に焼けたと『日本紀略』(註14)にあるが、『縁起』に記載がないので不審であり、永祚元年には奈良地方を襲った大風で焼け残った金堂上層が吹き落されているが、別当平超が直ちに復興している。

このような再建の経過をみると、最初の国宛にもかかわらず、朝廷の力によらず、ほとんど全部が寺側の努力によって復興されたようにみえる。『今昔物語』には「その後(罹災後)三年を経て、もとのごとくに食堂ならびに四面の回廊・大門・中門・鐘楼、みな造り建てた」と書いているが、そんなに早く復興は進まず、約四〇年を要している。『縁起』は長和四年の撰述であるが、おそらくこの復興事業を記念して書か れたものであろう。

この再建事業のしばらくあと、別当輔静已講が東院に八角堂を建て、本尊丈六釈迦を定朝に大安寺本尊を摸して造らせている(『七大寺日記』『七大寺巡礼私記』史料四、五)。その年代は伝えのように輔静が已講になり、定朝が法橋のときとすれば、長元元年(一〇二八)から永承三年(一〇四八)までのこととなるが、輔静が別当在任中とすれば、その下限は『薬師寺別当次第』により、長暦三年(一〇三九)となろう。

以後、平安時代には永長元年(一〇九六)に地震で回廊が倒れたこと(『中右記』)以外に災害や造営の記録はないが、寛治年中(一〇八七─九四)に鎮守八幡の障子に神像が描かれており(永仁三年銘)、嘉保二年(一〇九五)十月には本薬師寺の塔跡から舎利が発見されている。この記事は『中右記』(註15)『七大寺日記』『七大寺巡礼私記』などにみえるもので、いずれも発見当時の記録ではないが、『中右記』の記事は翌年五月藤原師実が仏舎利を見ているというもので、僅か七ヵ月後のことであるから、まず信じてよかろう。その場所を『中右記』(嘉承元年八月二十一日条)には「塔下地」「塔地深数見」とあり、『七大寺日記』に「塔の心柱の礎の下より掘出して」とあるので、心礎の下からと福山敏男はしているが、『七大寺巡礼私記』に「心柱の礎の中」から掘ったとする記事の方を採るべきであろう。 

舎利があったとすれば、現在の心礎が別にどこからか持って来られたものとしないかぎり、舎利孔のある東塔心礎と考えざるを得ないし、あの大きな心礎を持ち上げて下から舎利を発見したとは思えないから、塔が立ち腐れ、あるいは火災にあい、心礎が埋っていたので、『中右記』のような表現が生れたのであろう。深い所から見つか ったというのも、発見者の手柄話にすぎないと思われる。

『左経記』万寿二年(一〇二五)十一月九日によると、源経頼は「本薬師寺に宿」し、翌日「晩に及び薬師寺に帰」っているから、まだその頃は寺としてある程度の建物はあったらしいが、それから七〇年後の嘉保二年には少くも東塔は廃滅に帰していたことがわかり、そのような状態であれば、金堂その他も同様な運命にあったのではないかと考えられる。(註16)

一方平城薬師寺の方は『七大寺日記』と『七大寺巡礼私記』とによって、金堂・講堂・東西両塔・食堂・唐院・東院八角堂などが厳存していたことがわかる。南大門・中門・回廊などについての記載はないが、『七大寺巡礼私記』の薬師寺の項は終りに落丁があるので、はっきりしたことはわからない。ただ、東院の項の最初に八角堂の記載があり、東院堂が記されていないため、当時失われていた可能性がある。なお西院念仏堂の名が永承二年(一〇四七)、承保二年(一〇七五)、保延二年(一一三六)の文書にみえ、子院としては喜多院が承安五年(一一七五)、治承二年(一一七八)の文書に出ている。また『兵範記』裏書によると、永万元年(一一六五)に別当行恵が堂塔の修造を志し ている(いずれも『平安遺文』による)(註17)。また当時、僧房などが存していたことが、法隆寺蔵の一切経の奥書でわかり、伝教院円堂の名が石山寺蔵『法華義疏』奥書にみえる。(註18)


註9 『朝野群載』巻十六
石清水八幡宮護国寺牒 興福寺衙
(前略)同(貞観)二年。行教和尚。奉安置三所御体於当山之後。 和尚為仏教鎮守。移奉崇大安寺。次薬師寺別当栄照大法師。同以奉勧請寺家焉。(中略)
天永四年四月十八日
『薬師寺別当次第』(『東寺文書』所収)によると、栄紹は寛平元年(八八九)別当となり、同五年平海に替っているが、昌泰元年(八九八)再任しているから、勧請の年代はこの頃と認められる。

註10 『石清水八幡宮記録』三「縁事抄諸縁起」末(『大日本史料』による)
寛平年中。薬師寺別当栄昭(紹)。奉勧請寺家南園。為鎮守耳。

註11 『日本紀略』
天延元年二月廿七日王子。玄刻。薬師寺焼亡。所遺金塔一基。
同年五月三日丙辰。 被定可造薬師寺之国々。大和。伊賀。美濃。播磨。備中。備後。安芸。周防。讚岐。伊予十ヶ国也。
『親信鄉記』(『大日本史科』による)
天延元年五月三日。左大臣已下定可申造薬師寺事。定申云。以諸国十ヶ国可造進云々。依請。

註12 『三十六人歌仙伝』
從五位上行肥後守清原真人元輔。(中略)天延二年正月任周防守。八月兼鋳銭長官。天元三年三月十九日。叙從五位下。(造薬師寺廊。)(下略)

註13 『薬師寺別当次第』(『東寺文書』所収)
大法師 往生人 趂禅天延二任 治八
權律師 平超永祚元 治
大法師 增祐長保元 治

註14 『日本紀略』貞元二年二月八日夜。薬師寺宝藏有火。

註15 『中右記』永長元年五月二十三日条。
今日大殿從宇治令帰給。一昨日入宇治給。昨日曉詣薬師寺。令奉見仏舎利。又供養御経。(中略)件仏舍利者。本是從本薬師寺之地。去年依有夢想告所奉掘出也。仍為結緣天下人々多参入。納石辛櫃金銅筥。昔人埋彼地。今奉掘出。誠雖末代不可思議也。(三粒云々)
承德二年十月十二日条
早旦参詣薬師寺。奉見仏舎利。供燈明。寺僧申上給布施。(絹十疋)。件舍利。去嘉保二年。寺僧依夢告。從本薬師寺塔跡奉掘出也。(乍入銅壺掘出也。三粒。)。其後京都人々多以結緣。今日初奉見。随喜之思不可云尽欤。
嘉承元年八月二十一日条
未剋許。参詣薬師寺。別当隆信法橋聊有御儲。舍利奉取出。於中門奉納小塔婆仏供御明等。聊相調有經供養。(中略)。件舍利元是在本薬師寺塔下地底。数百年間人全不知。已經年月後。先年依有夢告。薬師寺別当隆信試掘塔底地深数見(尺ヵ)。已得金壺。驚開之。尋求得舍利三粒。奉納新薬師寺金堂。從□以来十余年。天下男女随喜。緣因之今日相具人々所参詣也。誠雖末代。仏法靈驗不可思議也。

註16 足立康は「本薬師寺塔婆に関する疑問に就いて」(『考古学雑誌』二〇ノ一一 昭和五年)その他において、京都法成寺が天喜六年(一〇五八)焼失後、承暦三年(一〇七九)に釈迦堂などとともに供養され東西両塔は、『中右記』天承二年二月二十八日条の「薬師寺の塔を移して二基となす」とあるのに基づき、本薬師寺塔の法成寺移建説を唱えたが、家永三郎が『平知信記』に「今日法成寺御塔供養也。件御塔元者各三重。東西両塔。摸薬師寺塔八相成造也」とあるの紹介したので、「移す」は「写す」の意と考えられ、移建説は認められなくなった。ただ承暦三年の供養願文(『本朝文枠』所収)に「すなわち八相の旧造をもって、おのおの両塔の新壇に安んず」とある「八相の旧造」の文句は若干の疑問を残す。

註17 念仏堂は『平安遺文』一〇ノ三八二四頁、三ノ一一二五頁、五ノ一九八六頁に、喜多院は同書七ノ二八五〇頁、八二九六三頁に、行恵の修造は同書七ノ二六六二頁に出ている。

註18 法隆寺一切経『大毗婆娑論』卷一四五奧書
永久四秊(丙申)二月六日。薬師寺西北室第九□房。書写之。法相宗学者沙門重賀矣。
『同』卷一五一奥書
永久四年(丙申)二月十七日。於薬師寺東唐院書写了。法相末葉沙門湛証之召誓云々。
『同』卷四四奧書
元永元年(戊戌)壬九月廿八日西尅許書写畢。/為過去尊師往生極樂書之。薬師寺東北院僧実。
『法華義疏』奥書
長保四年八月廿二日。於伝教院円堂。為專寺西院五師講師点。聽衆廿余口也。伝聞僧注算。

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