《天平‧奈良》,朝日新聞社,1973。
岸 俊男
称徳朝と光仁朝
乱平定されますと、橘奈良麻呂の変以後退けられておりました仲麻呂の兄の豊成が右大臣に返り咲きます。それから、仲麻呂に擁立されました淳仁天皇は捕えられ、親王の号を奪われまして、淡路公として淡路国に送られ、そこに幽閉されます。孝謙上皇が重祚(ちょうそ)、つまりふたたび天皇の位についたことについては『続日本紀』にははっきりとは書かれてはいませんが、これは結局、淳仁天皇を廃帝として、孝謙上皇が天皇としての権限を復活したということになるのでありまして、いわゆる称徳天皇であります。淡路に流されました淳仁天皇は、道鏡の政権が発足し、称徳天皇が紀伊に行幸して和歌浦玉津嶋の望海楼に滞在しております時に、憂憤に耐えないで脱走をくわだて、捕えられて、ついに淡路で奇怪な死をとげるのでありますが、その直後に道鏡は太政大臣禅師という地位につきます。道鏡はさらに、翌年十月には隅寺(すみでら)、今の海竜王寺の毘沙門像から舎利が出現したというので、法王という地位に進みまして、月料は天皇の供御(くご)に準ずる、つまり天皇と同じ待遇を受けることになり、そのために法王宮職(ほうおうぐうしき)という役所も置かれることになります。そして左大臣には房前の子の藤原永手(ながて)、右大臣には吉備真備がなり、内豎省(ないじゅしょう)という新しい役所の長官には道鏡の弟の弓削浄人(ゆげのきよひと)がなります。
称徳天皇は重祚した時、皇太子はしばらく定めないと申しましたが、やはり独身の女帝のあとの皇嗣問題は人々の関心の的であったようであります。こうした中で、天平神護元年八月には舎人親王の孫に当たる和気(わけ)王が謀叛を計画したというので誅される事件が起こります。また聖武天皇の皇子の子と自称するものがあらわれたり、神護景雲三年には塩焼王の子の氷上志計志麻呂(ひかみのしげしまろ)を天皇に擁立しようという陰謀が発覚します。これは県犬養姉女(あねめ)という者が、塩焼王の妻となっていた不破内親王のもとで、天皇の髪を盗んで佐保川で拾った髑髏(どくろ)に入れ、天皇を呪咀したという事件であります。
こうした中で、仲麻呂の場合と同じように、道鏡一族はいずれも栄職につき、その地位を高めて行きました。そして神護景雲三年正月になりますと、大宰府主神でありました習宜阿曽麻呂(すげあそまろ)が「道鏡をして皇位につかしめば、天下太平ならん。」と告げ、和気清麻呂(わけのきよまろ)があらためて宇佐八幡の神託をうかがうという有名な道鏡の皇位覬覦(きゆ)事件が起こってまいります。この事件は一介の僧侶が天皇の地位を望むという点で従来非常に異常なことと考えられて来たのでありますが、今まで述べてまいりました奈良時代の政治の流れを見ますと、それほど異とすることもないように思われるのであります。つまり私は、このころの歴史の流れの中で道鏡と仲麻呂を比較してみることが必要だと考えるのであります。道鏡は仲麻呂を倒しますと、たとえば仲麻呂の改めました官号を、またもとにもどすとか、墾田永年私財法を否定して、寺院以外の墾田の私有をいっさい禁止するとか、また養老律令施行の理由としました官吏の考課の期間をもとどおりにするとか、いろいろ仲麻呂の行ないました政策の中で、それと反対の方向を示すものがあるのでありますが、そうしたことは、逆に道鏡が仲麻呂に対して非常に強い競争心を持っていた証拠であるとも見られるのであります。
また道鏡はみずからの地位を仲麻呂に並べようという意識がほかのことでも非常に強く出て来ているのであります。たとえば仲麻呂は太師、すなわち太政大臣になりましたが、道鏡もすぐに太政大臣禅師という地位につきました。それから、紫微中台に相当するものとして法王宮職を設けました。また平城宮の東につくられましたのが東大寺と、尼寺であります法華寺でありますが、この東大寺・法華寺に対するものとしては、今度は平城宮の西側に西大寺と西隆寺を造営しました。それから開基勝宝、太平元宝、万年通宝という銭貨の改鋳を仲麻呂が行ないましたが、これに対しても同じように、道鏡は神功開宝(じんこうかいほう)という銅銭を鋳造しております。さらに仲麻呂は藤原氏の領国である近江国に保良宮をつくって、これを北京と称しましたが、道鏡もその出身地である河内国の弓削、すなわち今の八尾市のあたりでありますが、ここに由義宮(ゆげのみや)を設けまして、今度はこれを西京と呼んでいるのであります。そのほか、自分の一族を高位高官につけたというような点も共通するのでありますが、こういうふうに何とかして仲麻呂に負けないよう にしようという考えが、道鏡には非常に強かったと思うのであります。すでに申してまいりました ように、仲麻呂はその晩年において、いろんな方法で自分の地位を皇室、天皇の地位にしだいに近 付けて来ていたのでありますが、最後に叛乱を起こしました時には、自分の子供たちに品位(ほんい)を与えたとあります。品位というのは、一品とか、二品とか申しまして、正一位とか従五位下とかいう臣下の位とは違いまして、親王に対して与える位であります。そういう点でも、極位極官についた仲麻呂はすでにみずからを天皇の地位に置く一歩手前まで進めていたと見られるのでありまして、それを一歩前進させれば、結局道鏡の望んだような状態に到達するのでないかと考えられます。そしてこれが道鏡において皇位を覬覦するという事件になって実現したのではないかと思うのであります。結局この事件は、道鏡を次の天皇にしたいと考えました称徳女帝と、「天つ日嗣は皇緒(こうちょ)を立てよ。」と強く反対しました藤原永手や藤原百川(ももかわ)らとの対立によりまして、道鏡の野望は実現するに至りませんでした。
その結果、称徳天皇がなくなりますと、今度は天智天皇の孫に当たります白壁(しらかべ)王──今までは天武天皇の系統が代々天皇の位について来たわけでありますが、初めてここで天智天皇の皇子の志貴(しき=施基)皇子の子に当たります白壁王が皇太子となりました。そして同時に道鏡は下野(しもつけ)の薬師寺の別当として追放されます。明らかに称徳天皇の崩御によりまして、皇嗣と目された道鏡が失脚し、一つの新しい線が出て来たということになるわけであります。この白壁王は二個月後に即位いたします。これが光仁天皇であります。この光仁天皇の即位につきましても、たとえば右大臣の吉備真備は、やはり天武系に属します長(なが)皇子の子供であります文室浄三(ふむやのじょうさん)──もとの智努(ちぬ)王でありますが、これを天皇にしようと画策いたします。結局これも式家の藤原百川の密告により失敗いたしまして、百川や、永手・良継らが擁していた白壁王が即位したのであります。このことは奈良時代における政治の動きの中で一つの新しい流れが出て来たことを示します。つまり、それまでの政界の争いは、藤原氏と、これに 対する天武天皇の皇親、あるいは大伴・佐伯や多治比などの旧氏族の間で行なわれ、これに道鏡などの僧侶が関係していたのでありますが、このころになりますと、藤原氏の中で、南家、北家、式家、京家、の四つの家が互いに勢力を競い合うという傾向が見られます。そして今は式家の百川らが南家に代わって政治の主導権を握るという状態があらわれて来たということになるわけであります。
さて光仁天皇の即位後にもう一つ事件が起こります。皇后の井上内親王──これは前回申しました安積親王の姉でありますが、これが光仁天皇を呪咀したというので皇后を廃せられ、同時にその子で皇太子となっていた他戸(おさべ)親王も廃太子され、ともに大和の宇智郡に幽閉され、そこで奇怪な死をとげるという事件であります。これも井上内親王が天武系の聖武天皇の皇女であり、また問題のあった安積親王と姉弟である点から、やはり皇位継承をめぐる一つの争いであったと思われます。光仁天皇はそれまでの道鏡による政治の弊害を正しまして、官制を整備したり、あるいは財政の緊縮をはかるなど、時代は一つ新しい動きを示して来るようになるのでありますが、なにぶん光仁天皇はすでに年を取っておりまして、結局、天応元年に七十三歳で皇太子の山部(やまべ)親王に位を譲ります。これが桓武天皇であります。そして同時に弟の早良(さわら)親王が皇太子となります。光仁太上天皇は間もなく崩じますが、その直後にまたしても氷上川継(ひかみのかわつぐ)という者の謀叛が発覚します。氷上川継は不破内親王と塩焼王の間の子であります。
さて新たに天皇の位につきました桓武天皇は、間もなく延暦三年に都を平城京から長岡京に遷します。この長岡京遷都に関しましてもいろんな疑問があります。桓武天皇は即位をいたしますと、政治の改革、財政の緊縮をはかります。とくに「今は宮室居するに耐えたり。」と言って、造宮省を廃止するのでありますが、そう言っておきながら、すぐそのあとで長岡京に遷都をするのであります。この長岡京遷都の主導者は、やはり式家の藤原種継と言われておりまして、種継が自分の一族と関係の深い秦氏(はたうじ)と結んで、平城京を離れて山背の長岡の地に新しい都をつくろうとしたと一般には考えられております。しかし、その種継も大伴氏や佐伯・多治比らの反対勢力によりまして暗殺されます。長岡京は結局、前後十年ほどの短期間で、今度はあらためて平安京がつくられるということになるのであります。
平城上皇と平城宮さて奈良朝というのはここで一応幕を閉じまして、舞台は京都の地に移って来るのでありますが、ただ最初に申しましたように、あとでふたたび平城京が暫時ではありますが政治の舞台として復活して来ることがあります。これがすなわち平城上皇の時の平城宮であります。平城天皇は大同四年に位を弟の嵯峨天皇に譲りますと、先に暗殺されました種継の子の藤原仲成(なかなり)を平城宮に遣わしまして、平城京に帰る準備をいたします。これは嵯峨天皇を擁立しました北家の内麻呂房前の孫に当たりますが、この内麻呂に対しまして、式家の仲成が平城上皇の重祚を画策したものでありまして、結局、平安京の嵯峨天皇と、平城京の平城上皇の二つの朝廷が並び立つという状態が生まれたのでありまして、嵯峨天皇方は蔵人所(くろうどどころ)という令外(りょうげ)の官を新たに置きまして、長官に内麻呂の子の冬嗣(ふゆつぐ)を任じます。平城上皇のほうでは平城遷都を正式に宣言し、嵯峨天皇方は一時はそれにしたがうように見せますが、結局兵を起こしまして仲成を捕え、妹の菓子を追放するのであります。上皇はすでに平城宮に移っておりまして、薬子をしたがえていったんは東国へのがれようとするのでありますが、結局果たされないと見まして、平城宮にもどって出家入道し、薬子は自殺します。これが藤原薬子の変と言われておるものであります。この事件に関連して、平城上皇の皇子でありました高岳(たかおか)親王が皇太子を廃せられ、東大寺にはいって真如法親王(しんにょほっしんのう)と呼ばれます。平城上皇はそれから約十年、そのまま平城宮におりますが、その間平城宮は弘仁十四年に諸司 を停止すると命ぜられますまで、やはり機能を果たしていたことが記録に明らかであり、最近の平城宮の発掘調査によりましても、平城上皇時代の平城宮の規模がしだいに知られて来ております。平城上皇は結局天長元年に平城宮でなくなりまして、すぐ近くの楊梅陵(やまもものみささぎ)に葬られますが、生涯をこの平城の地で終わるということになったのでありまして、平城天皇という諡号もそういう事情によるのであります。
「奈良の都」と言われました平城京が、日本の国の政治の舞台になりましたのはこれが最後でありました。それから後は平城京の地は、高岳親王とか、あるいは親王にゆかりの深い不退寺とか超昇(ちょうしょう)寺などに所領として施入されますが、四十年ほどたちました貞観ごろにはもう都城や条坊の跡がなくなって、一面田畑になってしまっていたというようなことが記録に残されております。
どうも奈良朝百年を非常に駆け足で通り抜けたわけでありますが、総じて奈良朝の歴史を政治的に見てまいりますと、当初は皇親、あるいは反藤原氏の勢力と藤原氏との争い、そしてこれが後には藤原仲麻呂と反仲麻呂派の道鏡らとの争いに転じ、さらに最後には藤原氏四家内部での争いというように、しだいに政治は動いて行ったのであります。こういう政界の動きに対しまして、庶民がどのように反応し、また美術や文学などの文化はどう変わって行ったか、ということは、これから あとの講師の方々がそれぞれお話をされることになっておりますので、私はこの辺で終わらせていただくことにいたします。
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