《天平‧奈良》,朝日新聞社,1973。
岸 俊男
紫微中台と大仏開眼前後
そういうわけで、天平二十一年、すなわち天平感宝元年に陸奥から黄金が献上され、大仏がまず間違いなく出来るであろうというころになりまして、聖武天皇はまたまた病床に臥すようになり、ついに七月になりますと、「万機しげく多くして御身へたまはず」、つまり国務が非常に忙しいのでもう私の体ではたえられない、ということを理由にいたしまして、皇太子の阿倍内親王に位を譲ります。つまり孝謙天皇の出現であります。孝謙天皇が即位をいたしますと、即日内閣の異動がありまして、藤原仲麻呂が大納言に進んでまいります。ところが、それか一個月たたないうちに、その大納言の仲麻呂が紫微令(しびれい)という官を兼任することになります。この紫微令と申しますのは、紫微中台(しびちゅうだい)の長官でありまして、紫微中台というのは、この時新たに設けられました、いわゆる令外(りょうげ)の官、つまり令に規定のな役所でありまして、光明皇后の皇后宮職を改めたものと言われています。つまり、光明皇后は聖武天皇が譲位いたしますとともに皇太后になったわけでありますが、その皇后宮職の代わりに設けたものが紫微中台であると言われております。しかし実際はそういうことだけでなくて、たとえば、大納言である仲麻呂がその長官を兼ねたということに明らかなように、太政官と並ぶ役所として設けられたものであります。これは後に太政官を乾政官(けんせいかん)と呼んだのに対しまして、紫微中台を坤宮官(こんぐうかん)と言い、二つの役所を乾坤(けんこん)、すなわち天と地の関係で対比させたことからもうかがわれますが、ともかく紫微中台は単なる皇后宮職の後身でなく、非常に重要な役割を持つ役所であったのであります。もともとこの紫微中台という名称は、唐とか、あるいは渤海(ぼっかい)の役所の名前をまねたものであるとも言われますが、ご承知のように紫微と申しますのは、今度の高松塚古墳壁画の場合にも、あの天井に描かれた星宿のうち、東西南北二十八宿の中央にある紫微垣(しびえん)と同じように、もともと天帝の座を示すものと考えられております。そういうわけで、この紫微中台という役所は、皇太后になりました光明皇后が、新たに即位いたしました孝謙天皇を補佐して、実質上の国の政治をとるための機関であったと見られるのであります。私は前回に、藤原氏は将来において光明皇后の即位を予期して安宿媛を皇后の地位につけたとお話いたしましたが、この段階の紫微中台というのは、ある意味で光明皇后の即位にも準ずべきものであったと考えることが出来るのでありまして、先ほど申しました鈴印も、やはりこの紫微中台、すなわち光明皇后のもとに置かれており、詔勅などもこの紫微中台から出されていたようであります。したがって仲麻呂がその紫微中台の長官になったということは、太政官におります左大臣の橘諸兄、それから右大臣の藤原豊成に対抗し、あるいはそれらをしのぐような政治的な地位にのぼって来たことを意味していると考えられるのであります。
さて、紫香楽から都が平城に遷りますとともに、平城の地においてふたたび始められました大仏の造営は、陸奥国から鍍金に必要な黄金が献上され、またその直後に豊前国から宇佐八幡神が上京してまいるというようなことがありまして、天平勝宝四歳の四月になりますと、盛大な開眼供養(かいげんくよう)が行なわれるまでに漕ぎ付けました。『続日本紀』は「仏法東帰してより、斎会の儀、いまだかつてかくのごとく盛んなるはあらざるなり。」と述べておりまして、非常に盛大な開眼の儀式が行なわれたのでありますが、その帰りに孝謙天皇は、仲麻呂の私邸でありました田村第(たむらのだい)これは左京の四条二坊、今日の奈良の法華寺の少し南に当たるところで ありますが、そこに立ち寄っております。大仏の造営に仲麻呂がたいへん力をつくしたことからで あったと思われます。
ところで、この開眼供養より少し前に、遣唐使として藤原清河(きよかわ)が出発いたします。藤原氏から遣唐使が出るのは、この時が初めてなのでありますが、実はこの時に、仲麻呂の六番目の息子であります刷雄──『尊卑分脈』などでは「よしお」と読んでおりますが、この刷雄というのが清河の一行に同行して唐に渡ります。そしてこの遣唐使の一行が二年後に鑑真(がんじん)を日本に伴なって帰って来るのでありますが、刷雄はその鑑真の一行と行動をともにいたしまして、何くれとなく世話をしたようであります。その詳しいお話は省略いたしますが、鑑真一行の通訳をしたり、あるいは藤原氏の家伝の一つである『武智麻呂伝』を書いたりした延慶という人物は実は雄であるという説があります。同一人物であるかどうかはともかくといたしまして、刷雄とか、あるいは延慶とか、そういう人物を通しまして、藤原仲麻呂と鑑真との間には非常に深いつながりが出来ていたことは、おそらく事実であろうと思われます。
こうして大仏開眼が行なわれましたあとは、しばらくの間、『続日本紀』などを読みましてもた いした事件もなく、何か空虚な感じがいたします。しかし世情は必ずしも平穏ではなかったようでありまして、たとえば、天平勝宝六歳には、先に大仏造営のため神託によって宇佐から上京しました宇佐八幡の主神(かんづかさ)であります大神田麻呂(おおみわのたまろ)、杜女(もりめ)の二人が、薬師寺の僧である行信(ぎょうしん)といっしょになって、だれかを呪詛したことが問題に なりまして、田麻呂と杜女はそれぞれ日向と種子島に流され、行信は下野の薬師寺に移されるという事件が起こっております。これもやはり、そのころ皇位の継承とか、政権の争奪をめぐる暗闘が、宮廷、あるいは貴族、さらにはこういう神官や僧侶の間にひそかに闘わされていて、やがてそうい うものが表面化して来る一つのきざしであったと見られるのであります。
聖武太上天皇の崩御と大炊王の立太子
さて、天平勝宝七歳の十月になりますと、聖武太上天皇は、また重い病気にかかります。そのころ橘諸兄の近くにしたがっておりました佐味宮守(さみのみやもり)という者が、諸兄がある宴会の席で無礼な言葉を吐いたが、諸兄には謀叛の志があるらしいと密告をして来たのであります。聖武太上天皇はこの密告をあまりとがめることはしなかったので ありますが、諸兄はそのことが耳にはいりますと、責任を感じましたためか、翌年二月に左大臣の職を辞任いたします。そのころ、諸兄の息子であります奈良麻呂が、ふたたび大伴氏や佐伯氏らに働きかけまして、黄文王を天皇の位につけようという計画をいたしますが、これもやはり多くの人 それにしたがわず、結局、実行には移せなかったようであります。
さて天平勝宝八歳五月、それまでたびたび重い病気にかかって生命の案じられました聖武太上天皇がついになくなります。そして遺言であるというので、新田部親王の王子であります道祖(ふなど)王が皇太子になります。聖武太上天皇がなくなった時は、やはり一つの危機であろうとだれもが予期しておったのでありますが、果たしてその直後に、出雲守であった大伴古慈斐(こじひ)と、有名な漢学者であります淡海三船(おうみのみふね)の二人が、朝廷を誹謗(ひぼう)し、人臣としての礼がないということを理由に捕えられるという事件が起こりました。古慈斐は大伴氏の一員であり、この直前に出雲守に左遷されて鬱々とした日を送っておったようであります。二人はすぐに許されはしたのですが、結局古慈斐は土佐守に左遷されます。この事件は仲麻呂の讒言(ざんげん)によるというふうに伝えておりますが、事実は、おそらく古慈斐らが大伴氏の一族として仲麻呂に反対する反政府運動をたくらんでいるのに対して、仲麻呂のほうが先手を打って弾圧に乗り出 したものと考えられるのであります。この時大伴家持は有名な「族(やから)を喩(さと)す歌」をつくりましたが、それは『万葉集』の中に収められています。
剣太刀(つるぎたち) いよよ研(と)ぐべし 古(いにしへ)ゆ
清(さや)けく負ひて 来にしその名そ(巻二十─四四六七)
しきしまの 大和(やまと)国に明(あき)らけき
名に負(お)ふ伴(とも)の緒(を) 心つとめよ(巻二十─四四六六)
家持は、伝統ある大伴氏の「明らけき」、「清き」家名を絶やすな、と申しまして、一族に対してこの時点で正面から仲麻呂に反対することを極力おさえ、一族の自重を切に望んだようであります。先ほどからも申しておりますように、橘氏とか、あるいは大伴、佐伯、多治比などの一族の人たちが反仲麻呂という点で結ばれまして、何とかして仲麻呂を倒そうと暗に計画を練っていたらしいのです。そうした状況の中で、家持が大伴氏の首長として、好むと好まざるとにかかわらず関係せざるを得なかったという事情は、『万葉集』のこのころの歌を読んでまいりますと非常によくわかります。しかし、家持自身は、結局やはりどうも、仲麻呂打倒という線にはっきり踏み切ることが出来ないで、そういう一族の人たちの過激な動きから遠ざかろうという考えが、どうも強かったように万葉の歌からは読み取れるのであります。
さて、あけて天平勝宝九歳。この年は改元されて天平宝字元年になるのですが、まず一月に先に職を辞しました橘諸兄がなくなります。そしてその直後に、仲麻呂は石津王というあまり名の知れない者に藤原朝臣という氏姓を与えまして自分の養子にします。仲麻呂にはたくさん子供がいますが、その上にこういう王族を養子に迎えるということは一体どういう事情によるのかよくわからないとも言えるのでありますが、同じころ勅によって、今まで藤原部と書いていたのは久須波良部(くずはらべ)、君子部(きみこべ)と書いていたのは吉美侯部とそれぞれに書き換えるように命ぜられます。結局、「君」とか「藤原」という字を使うのはさしさわりがあるので避けるようにというのですが、ここで注目されることは、君──天皇、皇室をあらわす──と並んで藤原という字の使用をも同時に禁止していることでありまして、これはある意味では、藤原氏、あるいは仲麻呂 と、皇室とを並べて同じレベルで考えようとする意識が出て来ていると見られるのであります。そういう仲麻呂の考え方は、その次にあらわれてまいります道祖王を皇太子の地位から引きずり降ろ すということの中に、さらにはっきりあらわれてまいります。先ほども申しましたように、道祖王は聖武太上天皇の遺詔であるとして皇太子の地位についたのでありますが、服喪中にそば付きの童子に通じたり、あるいは機密のことを民間に漏らしたり、婦人の言葉は聞くが天皇の勅にはしたがわないというふうに、どうも素行がおさまらない。まことに淫縦(いんじゅう)であるというので、とうとう廃太子、すなわち皇太子の地位から廃されるのであります。いったん聖武太上天皇がなくなりますと、もはやそういう遺詔というものは何の権威も持たなかったようであります。こうして道祖王を廃太子したあとで、それでは代わってだれを皇太子にしようかということを孝謙天皇は群臣に下問します。ある者は塩焼王がいいと言い、ある者は舎人親王の子であります池田王とか、船王とか、そういう人たちの名前をあげました。しかし結局これは、あらかじめ仲麻呂が計画しておりましたとおり、舎人親王の第七子に当たります大炊(おおい)王が皇太子とされます。大炊王は舎人親王と当麻山背(たいまのやましろ)という者の間に生まれた王族で、時に二十五歳でありました。人々はこの仲麻呂の案に対して、心ならずも正面切って反対することは出来なかったのであります。仲麻呂はこれより前に、すでに大炊王を自分の邸であります田村第に迎えまして、しかも早くなくなりました長男の真従(まより)の嫁でありました粟田諸姉(あわたのもろあね)を大炊王の妻に娶らせておったのであります。このように大炊王を皇太子の地位につけることは、将来大炊王が皇太子から天皇の位につくことによって、仲麻呂自身が天皇の身内になることを示しておりますし、さらに言いますれば、先ほども申しましたように、仲麻呂一族と皇室との区別というもの が、仲麻呂の意識の中では非常に縮まって来ているのでありまして、すでにそういう状況がこの時点で生まれて来ていたというふうに見ていいと思うのであります。
留言列表