close

《天平‧奈良》,朝日新聞社,1973。

岸 俊男

恭仁遷都と藤原仲麻呂の登場

本日は前回に続きまして、「奈良朝百年」の後半の部分についてお 話をさせていただきます。

この前、終わりに申し上げましたように、聖武天皇は天平十二年、藤原広嗣の乱が起こりましたその最中に平城京を出まして、関東に向かうと称して伊勢に至りました。ここで乱が鎮定されたという知らせを受けたのでありますが、そこからいったん美濃にはいりまして、反転して近江を通って大和に向かいました。しかし、結局は大和に帰らないで、平城京とは山一つを隔てました山背国相楽(さがらか)郡恭仁の地に新しく都を営み、これを大養徳恭仁宮と称したのであります。この地は乱の起こります前にも、聖武天皇が一、二回行幸をいたしておりますし、もともとこの相楽郡には、その時の政権の首班であります橘諸兄の別邸があったのでありまして、乱の直前にも天皇は行幸して、諸兄の息子の奈良麻呂に叙位しています。この行幸の時にも、諸兄だけは独り途中から先に恭仁宮にはいっておりまして、そういう関係から、恭仁京への遷都は、橘諸兄が主として計画 したものであると考えられるわけでありまして、その辺に、天平九年以後新たに政権が代わった複雑な事情が恭仁遷都という形であらわれて来ておるものと思われます。

ところで、年あけました天平十三年の三月になりますと、ご承知の国分寺を創建するという詔が 発せられます。それから恭仁京の建設はさらに急がれまして、平城京に住む役人たちにはすぐに恭 仁京に移るようにという命令が発せられますし、東西市も移され、あるいは、役人たちには宅地が班給されました。さらに平城京の大極殿(だいごくでん)やあるいは回廊をこぼちまして、これを恭仁宮に移し建てるということが行なわれました。そのためには畿内から五千五百人の人々が徴発されたと記録に出ております。

こうして恭仁京の造営は急がれたのでありますが、それから一年もたたない、翌天平十四年の三 月になりますと、今度は恭仁京の東北から、近江の甲賀(こうが)郡の紫香楽(しがらき=信楽)に通ずる道が開かれました。これは、今日信楽に行くバスの通っております道と考えられるのでありますが、その紫香楽宮に離宮が営まれ、聖武天皇はそこに行幸をいたしました。この紫香楽宮への行幸はその後たびたび繰り返されるわけでありますが、この第一回の紫香楽への行幸にしたがい ました中務(なかつかさ)卿の塩焼王──天武天皇の皇子であります新田部親王の子で、これから後たびたび問題になって出て来る人物でありますが、この塩焼王が第一回の紫香楽の行幸にしたがったのでありますが、間もなく四人の女官とともに捕えられまして、平城の獄につながれ、さらに伊豆の三嶋に流されるという事件が起こっております。塩焼王は、その後天平十七年になりまして、許されて都に帰ってまいります。事件はそれだけで、詳しい内容はわからないのですが、これから申し上げますように、すでにこのころから政界の中で皇位継承をめぐる争いがあらわになって来る中での一つの事件であったと考えられるのであります。これが天平十四年のことであります。

続いて天平十五年になりますが、その五月五日の節日に恭仁宮の内裏(だいり)で、皇太子の阿倍内親王は五節舞(ごせちのまい)を舞います。このことをことほぎまして、非常に大規模な任官叙位が行なわれるとともに、いわゆる内閣の改造が行なわれました。知太政官事にやはりそのまま鈴鹿王のいることは変わらないのでありますが、新たに諸兄が右大臣から左大臣に進みます。そし巨勢奈麻呂(こせのなでまろ)と、武智麻呂の息子であります藤原豊成が中納言になります。さらに参議の一人といたしまして、その豊成の弟であります藤原仲麻呂が内閣の一員にのぼってまいります。みなさんご承知の、有名な墾田永年私財法、つまり養老七年に決められました三世一身(さんぜいっしん)の法を改めまして、墾田の私有を大幅に認めたのがこの法でありますが、この墾田永年私財法が発布されましたのは、実はこの新しい内閣の改造が行なわれた、その直後であります。

ここで藤原仲麻呂という人物が史上にあらわれて来たわけであります。仲麻呂は藤原氏の南家の出身でありまして、武智麻呂の次男に当たります。 慶雲三年の生まれと申しますから、仲麻呂は大体、奈良朝、あるいは平城京とともに育ったというふうに考えていいわけでありますが、これ以後の奈良朝の政治史はこの仲麻呂を中心として展開してまいります。仲麻呂は『続日本紀』の伝える ところによりますと、非常に賢くて、小さい時から読書を好み、また、そのころの数学、つまり算術に非常に詳しかったということでありまして、たいへん頭脳明晰(めいせき)であったのでありますが、父の武智麻呂がなくなりますまでは、上に兄の豊成がおります関係でありますか、どちらかと申しますと学問一途であったようで、政治にそれほど関心を示したようではありません。武智麻呂がなくなりました例の天平九年、この時には三十二歳で、位は従五位下というのでありますから、それほど早い昇進でなかったわけであります。ところが、この仲麻呂に大きな転機が来ることになりました。それは結局父の武智麻呂の死、あるいは単にそれだけでなしに、藤原氏の四家の房前、あるいは宇合、麻呂というようなおも立った人たちが一時になくなって、藤原氏にしかるべき 人がいなくなったからでありまして、それを転機として彼の政治的な活躍が急に始まるのであります。そして天平十五年の時点では民部卿で従四位上というのでありますから、天平九年の従五位下からすでに五段階昇進しておるのでありまして、これから以後も急に位がどんどん進み、地位ものぼってまいります。

紫香楽宮と難波宮

ところで聖武天皇は天平十五年の七月から三個月ほど紫香楽宮にとどまるのですが、その間に、有名な盧舎那仏(るしゃなぶつ)の造立、つまり大仏建立の詔が出されました。そしてただちに紫香楽の地に寺地が定められ、大仏の造営事業が始まりました。行基は早く「小僧行基」といって政府からにらまれていた人物でありますが、その行基が弟子たちを率いて、人々とともにこの大仏の造営事業に参加するというようなことも始まりました。こうしたわけで、紫香楽宮に中心が移り、あるいはそこで大仏の造営が始められましたためでありますか、かえって恭仁京のほうの造営はこの年に中止されるというような状況になりました。

ところで、先の国分寺の造営、あるいは盧舎那大仏の建立、こういうことに関しましては、聖武 天皇とともに光明皇后の存在を忘れることが出来ないのであります。『続日本紀』がしるしております光明皇后の伝記の中には、「東大寺及び天下の国分寺を創建するはもと太后の勧むるところなり。」とあり、つまり、東大寺や国分寺の造営ということは光明皇后が聖武天皇に勧めて行なった ことであるとしております。光明皇后は、皇后になりますとすぐに皇后宮職(こうごうぐうしき)というものを設けます。従来は藤原宮子のために中宮職(ちゅうぐうしき)があったのでありますが、今度は別に皇后宮職という役所を設けまして、これを中心にいろいろな仕事を始めます。たとえば施薬院(せやくいん)や悲田院を設けるとか、あるいは藤原氏の氏寺であります興福寺に西金堂を建立したり、五重塔を建てたのもこのころであると言われております。現在、正倉院にたくさん残っております、いわゆる五月一日経という大規模な写経も始まり、仏教に対してとくに深い関心を示したのであります。このように光明皇后が仏教に対して非常に信仰が厚かったことに関しましては、やはり母の橘三千代の影響が強かったと考えられるのであります。前回ちょっと申し添えておきましたように、三千代は河内の古市郡付近の出身と見られるのでありますが、この古市郡の一帯は早くから非常に仏教の盛んなところでありまして、今日も西琳寺(さいりんじ)をはじめ、飛鳥時代から奈良時代にかけての寺院跡がたくさん残っておりますが、三千代がそういう環境の中に 生まれましたことが仏教に対する深い信仰心を育てたものと考えられます。有名な法隆寺の橘夫人厨子(たちばなふじんのずし)は、三千代の念持仏(ねんじぶつ)を納めたものであると伝えられており、三千代は夫の不比等がなくなりましたあと、元明天皇が大病にかかりますと、その平癒を祈りまして出家入道をいたしております。そして娘の光明皇后も安宿媛と呼ばれたように、やはり幼い時からこの南河内の地に非常に関係が深く、その土地柄と、 それから母の三千代の影響のもとで、仏教に対して強い関心を示すようになったものと考えられるのであります。東大寺の大仏の創建を発願いたしますにつきましても、これは天平十二年二月、つまり広嗣の乱が始まります直前ですが、聖武天皇が難波宮に行幸される途中で、河内の大県(おおあがた)郡の知識(ちしき)寺、今日の柏原市の太平寺付近にあったお寺であろうと言われておりますが、この知識寺に立ち寄りまして、そこにありました盧舎那仏を拝んだのが大仏をつくる動機になったというふうに伝えられております。光明皇后もおそらくこの行幸にしたがっていたと思われるのですが、この知識寺は古市 郡の地に近く、事実この時点に古市郡の西琳寺にも盧舎那仏がありまして、この地方にはその当時 仏教の中でも最も新しい学派でありました華厳(けごん)の教学が流布しておったようであります。そういう関係で、光明皇后はその母、あるいはまた自身の生い立ち、そしてこのころの古市郡付近の仏教信仰、そういうものの影響を受けて、結局聖武天皇をこの河内の知識寺に導き、さらには大仏の造営というような大事業を発願しめるに至ったものであろうと考えられます。

さて、話を少しもとにもどします。恭仁宮に続きまして紫香楽宮を造営することに力が注がれて おったのが天平十五年の段階でありますが、年あけました天平十六年正月になりますと、聖武天皇は突如として難波宮への行幸を言い出します。そして恭仁京と難波宮とどちらを都とすべきかということを役人たちに問いますが、一八一対一五三という結果で、人々は恭仁京を動くことを望みませんでした。また、このころの都では市(いち)というものが非常に大きな役割を果たしておりま すが、その市人(いちびと)についてもたずねましたところ、やはり市人も恭仁京を動くことを願いませんでした。そもそも難波宮と聖武天皇との関係は非常に深いのでありまして、聖武天皇が即 位をして間もない神亀二年に、例の藤原宇合をこの難波宮を新たに改作する長官に命じますが、難 波宮の造営事業は、その後天平年間にかけてもずっと続けられ、天平六年には難波京にも役人たち の宅地を班給しております。こういう事情がありましたためか、人々が難波宮へ移ることを好まな かったにもかかわらず、聖武天皇の難波宮への行幸は強行されました。

ところが、この難波宮への行幸に関して一つのふしぎなことが起こります。それは、行幸にしたがいました安積親王、前回申しました聖武天皇ともう一人の妃でありました県犬養広刀自との間に生まれました皇子でありますが、この安積親王が恭仁から難波へ向かいます途中、桜井頓宮(かりみや)──今日の大阪府三島郡島本町の桜井付近だと考えられておりますが、ここで脚病にかかったと称しまして、途中から恭仁宮に引っ返し、その翌々日に十七歳という若さで急になくなるのであります。阿倍内親王が皇太子になっているとはいえ、女性として皇太子の地位にあるのはきわめて不自然でもあるわけでありまして、その点安積親王はやはり男子でありますから、なお、やはり有力な次の皇位継承者と見られていたと考えられるのであります。この時恭仁宮には藤原仲麻呂らが留守司(るすのつかさ)としてとどまっておりました。そういう関係からも、あるいはだれかの陰謀によって安積親王は暗殺されたのではなかろうかというような推測も生まれて来るわけであります。安積親王は生前、大伴家持(やかもち)と非常に親しかったようでありまして、実はなくなります年の正月にも自分の邸宅に家持を呼んで、宴を開いておりますが、その時家持は、

たまきはる 命はしらず 松が枝を

結ぶ心は 長くとぞ思ふ(巻六─一〇四三)

という歌をつくっておりまして、何か安積親王の悲運をこの時すでに予期しておったようにも思われるのであります。こうして難波宮へは高御座(たかみくら)や武器が運ばれ、またその当時天皇の権力を示すシンボルとされた鈴印(れいいん)、つまり駅鈴(えきれい)と内印(ないいん)──駅鈴というのは火急の場合、たとえば兵を徴発するのに使われるものであり、内印は天皇の御璽(ぎょじ)で詔勅の下達に必要ですが、そういうものを難波宮に運ばせます。そうして、その二月には難波宮をこれから皇都にすると宣言いたしました。ところがふしぎなことに、そういうふうに難波を都とすると言っております間に、聖武天皇はまたも紫香楽宮に行幸をいたします。その時紫香楽の地では、大仏の建立が、すでにその骨柱を建てるまでに進捗しております。

ところが、あけて天平十七年になりますと、夏ごろからその紫香楽宮の周辺で奇怪な火事がたびたび起こるようになります。これは遷都に対する何らかの反対勢力の動きと見られるわけでありまして、不穏な空気が紫香楽の地にみなぎって来たわけであります。そういう状況を察知いたしまし聖武天皇らは、ふたたび役人や僧侶たちに都をどこに決めたらいいかと下問をいたしますが、今度はみんなが平城京へ帰りたいと申し出ましたので、聖武天皇はただちに紫香楽を発ちまして、恭仁宮をへて平城京に帰ってまいります。聖武天皇が泉の大橋、つまり今日の木津川にかかっており ます大橋でありますが、そこに至った時には、庶民は「万歳」の声をもって一行を迎えたと『続日本紀』は伝えております。こうして五年間の空白の後にふたたび平城京都としてよみがえって来ることになったのであります。天平十七年五月のことであります。

平城遷都と政局の転換ところが、聖武天皇はよほど難波宮が気に入ったのでありますか、八月になりますとまた難波宮へ行幸いたします。それから間もなく、知太政官事でありました鈴鹿王がなくなります。知太政官事というのは、それまでは天武天皇の皇子、あるいは鈴鹿王はその孫でありますが、いわゆる天武天皇の皇親たちが代々任ぜられてまいりました。言わばそういう意味では皇親政治を象徴するようなものであったわけでありますが、鈴鹿王がなくなりますと、これ以後、知太政官事にはもはやだれも任ぜられることがありません。そういう意味で、これは長く続いた天武系の皇親たちによる政治の一つの終焉を意味するというふうにも考えられるわけでありまして、事実、平城へ都が還ってまいりましたころを起点といたしまして、新しい時代の到来を思わせるようないろんな状況が出てまいります。

さて、聖武天皇は難波宮に滞在する間に重い病にかかります。そうして、天皇の権限を発動するに必要な鈴印が平城京から難波宮に取り寄せられます。これは前回にも申しましたように、当時は天皇、あるいは太上天皇がなくなりますと、そのあとでいろいろ政治的な事件が起こるので、そういう不測の事態に備える意味を持っていたものと思われるのでありまして、事実、その後になって明らかになって来たことでありますが、その時橘諸兄の子の橘奈良麻呂が多治比氏や、あるいは大伴・佐伯一族の人たちを集めまして、長屋王の遺児であります黄文王(きぶみのおう)を立てて天皇にしようという計画を立てていたのであります。この時橘奈良麻呂らは「陛下枕席(ちんせき)安からず、ほとんど大漸(たいぜん)に至らんとす。しかれどもなほ皇嗣を立つることなし。」と 言っております。つまり、今、聖武天皇はなくなろうとしているけれども、まだあと継ぎが決まっ ておらない、だから皇位継承者として黄文王を立てよう、とひそかに人々に説いていたのであり ます。すでに阿倍内親王が皇太子としているのに、皇嗣が決まってないというのはふしぎなように思われるのでありますが、やはり女性で中継ぎ的な阿倍内親王の即位を彼らのように認めない一派があって、もし聖武天皇がなくなりますと、そういう人たちが新たな動きを示すという、きわめて 不穏な状態にあったと考えられるのであります。そのころまた、河内の古市郡から白い亀が献上されております。ちょうど光明皇后の立后の時と同じであります。あるいはこのような状況の中で、阿倍内親王の即位を進めようという動きが一部にあって、そのための白亀の献上であったかもわからないのでありますが、しかし、この場合はすぐにはそういう状況は出てまいっておりません。

先ほども申しましたように、このころは政治の上でもいろいろな点で転換のきざしが認められます。たとえば、十七年正月には行基が例の玄昉を超えて大僧正に進みます。そして玄昉は、その年の十一月に筑紫観世音寺の造営のために遣わされますが、明らかにこれは左遷でありまして、翌年に大宰府の地でなくなるのであります。世の人々は、藤原広嗣の亡霊によって殺されたのだというふうに伝えております。広嗣が排除を要求いたしましたもう一人の吉備真備のほうは、皇太子の訓育につとめまして、それまでは下道真備(しもつみちのまきび)と言っておったのでありますが、このころになりまして吉備朝臣という氏姓を賜わります。しかし、この真備ももう少しおくれて、天平勝宝二年になりますと、やはり筑前守になって九州の地に退けられるということになります。

また、政策の上でも諸兄によって実施されたいろいろなものが、ふたたびこのころになるともとにもどされるということが出てまいります。諸兄の政策につきましては、前回は時間がございませ んでしたので、詳しいお話はいたしませんでしたが、たとえばその一つとして諸兄は兵士の徴発を 停止しました。しかしこのころになりますと、また兵士が復活されています。そしてこのころの政局の転換を最も端的にあらわしておりますのは、「やまと」という国名の用字法の変化であります。諸兄が政権を握りました天平九年の十月に、それまで「大倭」と書いていたのを「大養徳」と改めました。ところがこのころ、つまり天平十九年三月になりますと、ふたたび「大倭」という用字にもどります。なお、あとで申します藤原仲麻呂が政権を握った天平宝字元年になりますと、この「大倭」という用字は、さらに現在使っております「大和」に変わるのでありまして、このような「やまと」という国名の用字の変化は、ある点で政局転換を象徴しているとも言えるのであります。こうして政局の徐々に変わって行くのが天平の末年であります。

そうした中で、天平二十年になりますと元正太上天皇がなくなりますが、この時は、元明太上天皇がなくなりました時ほど危機感はなかったようで、固関(こげん)も行なわれませんでした。と癌申しますのは、やはり人々は、病弱ではありましたけれども、聖武天皇を中心に考え、実権はやはり聖武天皇のもとにあると認めておったのが、こういう事情になってあらわれたものと思われるの であります。

さて翌天平二十一年二月には、陸奥国から黄金が献上されまして、それまで難航しておりました東大寺の盧舎那大仏の造営がようやく軌道に乗り、完成の見通しが立ってまいります。そして年号はそれを瑞祥として天平感宝と改められます。ちょっと横道にそれますが、奈良時代ではこれ以後、天平勝宝、天平宝字、天平神護、神護景雲というふうに、しばらく四字の年号が続きます。日本で四字年号というのはこの時だけでありますが、こういう四字年号の使用、また天平勝宝七年からは「年」という字の代わりに「歳(さい)」という字を使って天平勝宝七歳などというようになります が、こういうことは、これより前、中国で女帝として活躍した則天武后(そくてんぶこう)のまね をしたものであると言われております。

 

arrow
arrow
    創作者介紹

    秋風起 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()