《天平‧奈良》,朝日新聞社,1973。
岸 俊男
天平初年の社会不安
こうして、ともかく光明皇后の立后が実現いたしまして、長屋王が退けられ ましたため、ここでまた政権の交代が行なわれます。そして天平を境にいたしまして、ふたたび藤原氏に政治の実権がもどって来ることになったのであります。それを証しますように、天平三年になりますと、参議の制度が充実されるのでありますが、この参議に藤原宇合、それから藤原麻呂が新たに加わります。それに以前から参議であった藤原房前がおり、大納言には武智麻呂がいます。したがって、不比等の四人の息子が相並んで政治の実権を握ったということになるのであります。
そして間もなく知太政官事舎人親王がなくなりますが、その後任は任ぜられません。これは先ほど申しました不比等政権の時の事情とまったく同じでありまして、大納言の多治比池守、大伴旅人などもなくなったのでありますが、やはり武智麻呂はそういうものの補充をいたしません。こうして藤原氏専制の体制が天平の初年において非常に強力に仕組まれて行ったということになるわけであります。
さて天平という時世を迎えることになりました。
青丹(あをに)よし ならの都は さく花の
にほふがごとく いまさかりなり
これは大宰少弐(だざいのしょうに)でありました小野老(おののおゆ)という者が大宰府にあ って、奈良の都を称えて歌ったものであります。この歌のつくられた時点はちょうど天平の初年ごろに当たりますが、政治的にはまさにそれは藤原氏の隆盛期でありまして、一般的にもこの歌は天平時代のはなやかさをあらわしたものと考えられているのであります。しかし天平の初年というのは、実際は必ずしもそのような安定した時期ではなくて、社会的には非常に不安定な状態にあったのであります。その当時の記録を読んでおりますと、諸国はもちろん、都の中でも盗賊が横行し、あるいは安芸(あき)周防(すおう)ではしきりに禍福を説いて民衆を集めたり、また死魂を祭ってあやしげな祈禱をするというようなことが行なわれており、また平城京に近い東の山原、すなわちちょうど今の奈良の旧市街のあたりと思われますが、その付近では妖言(ようげん)、つまりあやしげな俗信を信じて、時には数千、あるいは万余の群衆が集まるというような状況であったと書いてあります。ところでこういう俗信の中心と見なされていたのが有名な行基(ぎょうき)であります。行基はこれより前、養老のころには「小僧行基」と呼び捨てられまして、政府は行基のような民間における宗教活動を弾圧することに一生懸命になっておったのでありますが、この時点になりますと、社会の不安な情勢を鎮めるためでありますか、行基にしたがう人たちの中で、とくに法を守る人については出家入道を許すというようなことを申しまして、政府は今までの強い禁圧の方針をいくらかやわらげて来ております。また、政府は一方では畿内に惣管(そうかん)、諸道に鎮撫使(ちんぶし)というものを任命いたしまして、それぞれの長官には政府の高官がなり、武力をもって社会不安を鎮圧し、治安を確立しようという動きを示します。これが天平三年のことなのであります。しかし、そういう政府の努力にもかかわらず、天平四年になりますと、春から夏にかけて干魃(かんばつ)が起こり、加えて秋には台風に見舞われます。この影響が翌五年には大飢饉になってあらわれてまいります。続いて天平六年には四月と九月に大地震が起こる。さらに七年になりますと、『続日本紀』には「夜天の衆星交錯乱行して常のところなし。」と書かれております。つまり、夜空に輝く星が互いにあっちへ飛び、こっちへ飛びして、非常に不吉な様相を示しているというのであります。こういう状況が出て来る中で、さらに不作が続く。しかも、その年の夏から冬にかけまして大宰府管内、つまり今日の九州地方におきまして天然痘が流行し始めます。そのころの言葉で申しますと裳瘡(もがさ)、あるいは豌豆(えんどう)瘡であります。これが天平七年でありますが、続いて八年、九年はさらに凶作が続き、とうとう九年になりますと、その天然痘が平城の都の中に流行し始めまして猖獗(しょうけつ)をきわめることになります。「夏をへ、秋にわたって公卿以下天下の百姓(ひゃくせい)相ついで没死することあげてかぞふべからず、近代以来いまだこれあらざるなり。」と『続日本紀』には書かれています。こうした中で、それまで政権を握っておりました藤原不比等の四人の息子、武智麻呂、房前、宇合、麻呂がわずか四個月の間に次々と天然痘にかかってなくなるのであります。藤原氏にとりましてはまったく思いもかけないことになったわけであります。こうして、天平の初年から続きました藤原武智麻呂の政権というもの が、ここでまた一頓挫することになったのであります。
橘諸兄の政権
そして約二個月の空白の後に新しい政権が出来ました。この新しい政権は、それまでの藤原氏的な政権とはまた反対の、反藤原氏的色彩を強く持ったもので、知太政官事には長屋王の弟の鈴鹿(すずか)王がなります。それから、大納言には橘諸兄。これがはじめにも申しました橘三千代と先夫美努王との間に生まれました葛城王でありまして、この少し前に臣籍に降りまして、母の橘という氏姓をもらって橘諸兄と呼ばれたわけであります。中納言には多治比広成と大伴道足(みちたり)。いずれも多治比とか大伴とかいうのは藤原氏に反対する勢力であります。したがってこういうメンバーからも、この新しい政権がそれまでの藤原氏政権とは性格の異なった政権であったということが大体推定出来るのでありますが、さらに加えて大きな発言権を持って来ますのが有名な僧玄昉(げんぼう)と吉備真備(きびのまきび)であります。二人とも早く遣唐使にした がって唐に渡っておりまして、約二十年の在唐の後に、この少し前、天平七年三月に日本に帰って来ていたのでありますが、その玄昉と真備がそれぞれ新しい政権の顧問役のような形で助言をすることになるのであります。この新しい橘諸兄政権の性格につきましては、これ以上詳しいことはお話をいたしませんが、明らかにそれまでの藤原氏政権に対抗して、今度は反対の方向を示す政策を 次々と実施して行ったのであります。
こうした風潮の中で、藤原氏の側から今度はまた巻き返しが起こって来ることは当然予想されることであります。そういう藤原氏側からの反撃の口火を切ることになったのが藤原広嗣(ひろつぐ)の乱であります。不比等の四人の息子たちがなくなりました時を、先に養老四年に不比等がなくなりました時と比較いたしますと、この時には南家では豊成が従四位下、仲麻呂が従五位下になっております。それから北家では房前の息子の永手(ながて)が従五位下、式家では広嗣が従五位下。京家ではまだ五位にのぼる人がありませんで、結局五位以上になっておったのは豊成、仲麻呂、広嗣、永手というような人たちでありまして、そういう点から申しますと、不比等がなくなりました時よりも、藤原氏にとりましては状況が悪かったということになるのであります。そうした中で、天平十年一月には阿倍内親王が皇太子の地位につきます。すなわち、阿倍内親王は光明皇后の娘で、なくなりました皇太子某王と姉弟に当たるわけでありまして、後の孝謙天皇でありますが、この阿倍内親王が女性でありながら皇太子の地位につきます。このように未婚の女性が皇太子の地位につくということは初めての例でありまして、そういう点で非常に問題を含んでおるのでありますが、しかし、事はあまり表立たず、反対がないような形で運ばれたようであります。そしてその直後、天平十二年九月になりまして広嗣が大宰府で叛旗をひるがえすのであります。藤原広嗣は大養徳守(やまとのかみ)でありましたのが、この少し前に大宰少弐に左遷されました。都にあって一族を讒乱(ざんらん)したというのがその理由でありましたが、広嗣はそれに対して上表──君主に文書を奉る──をいたしまして、「時政の得失をさし、天地の災異を陳(の)べ」、玄昉と真備を政界から追放することを要求し、それが容れられないと見るや、大宰府で叛旗をひるがえしたのであります。これが世に言う広嗣の乱なのでありますが、広嗣がそこで天地の災異を述べたというのは、先ほど申しました、天平の初年からの相つぐ天変地異を指すのでありまして、政治が悪いからそういう天変地異が起こって来るんだという当時の考え方にしたがったものであります。また時政の得失というのは、時の政治の失敗を指摘したものでありまして、これは新しい諸兄政権のとりましたいろんな施策に対して、藤原氏として反対をしたという意味であります。したがって、この叛乱は藤原氏側からする諸兄政権に対する反発であったと思うのでありますが、この広嗣の乱が勃発いたしますと、すぐ政府は一万七千の大軍を征討軍として九州に派遣いたします。ところが、その乱の途中で聖武天皇は「朕意(おも)うところあるによって、今月の末、しばらく関東に往かんとす。そのときにあらずといへども、事やむことあたはず。将軍これを知って驚(きょうかい)すべからず。」、つまり自分は考えるところがあって、今、平城の都を出てしばらく東国に向かおうと思う。今は九州で叛乱が起こっており、こういう時に都をあけるというのははなはだよくないことかもしれないけれども、止むを得ない。将軍は──つまり征討軍の大将軍であります大野東人を指しておりますが、こういう事実を知って驚くことのないように、と言って、突如平城京を出て東国に行幸してしまうわけであります。こういうわけで、ついに平城京は一時天皇不在の空白状態になり、そ の後恭仁宮(くにのみや)がつくられ、あるいは紫香楽(しがらき)や難波への行幸が引き続きまして、天平十七年に平城にふたたび都が還りますまで、しばらくの間平城京が荒廃に任されること になるのであります。
その辺の事情からは次回にお話をすることにいたしまして、きょうは、まず天平十二年の藤原広嗣の乱までの大体の政治の動きというものをお話して終わりといたします。
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