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《天平‧奈良》,朝日新聞社,1973。

岸 俊男

安積親王の誕生

かくして老という年号の時代は終わりまして、養老八年は神亀と改元されます。先ほど申しましたように、白亀が献ぜられて、皇位は元正天皇から聖武天皇に譲られ、いよいよ首皇子が皇太子から天皇の位についたわけであります。時に聖武天皇は二十四歳でありました。聖武天皇の即位とともに、長屋王は左大臣にのぼり、知太政官事には以前のとおり舎人親王がおります。さらに大納言には、同じ多治比真人(たじひのまひと)の一族であります多治比池守(いけもり)という者が任ぜられました。内閣は藤原氏に反対の皇親勢力によって占められることになっ たわけであります。

こうした風潮の中で、神亀四年の閏(うるう)九月、聖武天皇と、その妃の安宿媛との間に初め て皇子が誕生いたします。この皇子の名前は、今日正確には伝えられておりません。ときどき皇子 のことを基王(もといおう)と書いてあるものがありますが、これは、そのことを書きましたものの一つに、名前がわからないので何某(なにがし)の王と書いた、その「某」という字が「基」という字に誤り写し伝えられて行った、と見るのがどうもいいようでありまして、私もここでは、この皇子の名前はわからないということにいたしておきます。それはともかく、安宿媛に皇子が誕生したわけであります。安宿媛は藤原不比等の娘、つまり藤原氏から入れた妃であり、しかも当然この皇子は聖武天皇の次に天皇の位につくべき人であります。そうなりますと、藤原氏はふたたび外戚の地位にとどまることが出来るわけでありまして、この皇子の誕生は、藤原氏一族にとりましては非常な喜びであったと思われるのです。それだけに、藤原氏もかなり事を急いだらしく、生後わずか一個月でこの皇子を皇太子の位につけました。父の首皇子の場合とかなり状況が違っておりま す。ところが、そういうふうに期待をされた皇太子は、生まれて一年たつかたたない翌神亀五年九月になくなったのであります。どういう事情でなくなったのかわかりませんし、憶測をいたしますといろんなことが考えられますけれども、ともかく、生後一年ほどでなくなってしまいました。この皇太子は那富(なほ)山の墓に葬られました。平城京の北、ちょうど今奈良のドリームランドの入り口のところにありますのが、この皇太子のお墓であると伝えておるもので、有名な隼人石(はやといし)があります。ともかく、この皇太子の急死についての藤原氏一族の嘆きというものは非常なものがあったと思われます。

ところが、もう一つ同じ神亀五年に、藤原氏にとってショッキングなことが起こりました。それはどういうことであったかと申しますと、実は聖武天皇には安宿媛とは別に、もう一人、やはり県犬養氏の一員で、県犬養広刀自(ひろとじ)という女性がその夫人におりました。三千代と同じ県犬養氏の出身でありますが、父は県犬養唐(もろこし)と申しまして、従五位下讃岐守であったと伝えますから、安宿媛の父の不比等のようにそれほど地位が高かったというのではないようであります。しかし、広刀自はかなり早く、安宿媛と前後して首皇子の妃になっていたようでありますが、その広刀自に、皮肉にもちょうど安宿媛の皇子がなくなるのと前後して皇子が誕生したのであります。それが安積(あさか)親王であります。広刀自にはこの安積親王のほかに井上(いがみ)内親王と不破(ふは)内親王という二人の女子も生まれます。井上内親王は、後に光仁天皇の皇后になりますし、不破内親王は新田部親王の王子であります塩焼(しおやき)王の妃になります。ところで安積親王は、聖武天皇の皇子であり、しかも藤原氏の安宿媛が生んだ皇子はなくなったのでありますから、このままで行きますと、次には、この県犬養広刀自の生ん安積親王が立太子して、やがて聖武天皇のあとに天皇の位につく可能性が強くなって来たわけで ありまして、これは藤原氏にとってやはり非常な危機であったと見られます。そこで藤原氏は何とかしてこの危機を乗り切りたいと考えたものと思われるのでありますが、その時に考え出されて来たことが、実は安宿媛を皇后の地位につけるという策略であったのであります。安宿媛はこの時まで聖武天皇の妃の地位にありまして、皇后にはまだなっておりませんでした。それは、そのころの律令の定めによりますと、皇后の地位には普通の臣下の者はなれなかったからでありまして、いく藤原氏の娘といっても皇后の地位にはつけなかったのであります。これは文武天皇の夫人、つまり聖武天皇の母に当たります藤原宮子がやはり生涯夫人のままにとどまっておりましたのもそういう事情によるわけでありまして、皇族、すなわち内親王でないと皇后の地位につけないというのがそのころの決まりでありました。しかし、それをあえて破って、藤原氏はここで安宿媛を皇后の地位につけようと考えたのであります。

長屋王の変と光明立后

それではなぜ皇后の地位につけることが、藤原氏にとっての危機を回避することになったか。それは先ほどご説明いたしましたように、このころまでの皇后は、いずれも先帝がなくなったあとで女帝として即位をする可能性を持っておりました。つまり単に天皇の正妻であるというだけでなしに、ある意味では皇位継承者であり、また実際に国の政治を行なう権限を保有し得る、そういう非常に重要な地位であったからであります。藤原氏は安積親王の立太子をおさえるには、先まわりをして、安宿媛を皇后の地位につける、それよりほかに方法がないと考えたものと思われるのでありますが、しかし、それを行なうについては障害がある。それは皇后というものには皇族の者しかなれないという、非常にきびしい決まりが、その当時の律令の規定にあって、こういう話を持ち出して来ると、必ず皇族の側からは反対が起こるであろう、その反対の中心になると思われる人物、それはその時左大臣の地位にのぼっておりました長屋王であると藤原氏は見たわけであります。長屋王は高市皇子の王子でありまして、れっきとした、いわゆる皇親の中心人物。そこで藤原氏は安宿媛を皇后に立てることを実現するためには、まずこの長屋王を排除する必要があると考えたわけであります。しかもそれには非常手段によって長屋王を退ける以外に方法はない。そこで神亀六年二月の一夜、兵を発して長屋王の佐保の私邸を囲み、王を捕えました。理由は、左京に住む漆部造君足(ぬりべのみやつこきみたり)、中臣宮処連東人(なかとみのみやこ のむらじあずまんど)という二人の下級官人が、長屋王はひそかに左道(さどう)、つまりその当時不正なこととして禁ぜられていたことを学んで国家をくつがえそうとしていると密告したからというのであります。翌朝政府の高官が長屋王を詰問いたしました結果、ただちに長屋王には自尽が命ぜられました。そして長屋王はその妃とともにみずから首をくくって果ててしまうということになるのであります。これが有名な長屋王の変と称せられているものでありますが、この事件は、すでに明らかなように、いわゆる誣告であります。ことさらに左道を学んで国家をくつがえそうとしているというような理由を設けまして、長屋王を政界から葬り去るためにこういう陰謀がたくらまれたわけでありまして、このことが陰謀であったということは、それから十年ほどたちまして、謀叛を密告いたしました中臣宮処連東人が、ある時囲碁の席でうっかりそのことを誣告であると口外したために、東人自身が殺されたと、はっきり歴史の上に書かれております。

こうして長屋王が退けられますと、あとは藤原氏の計画どおりに事が運んで行きました。すなわち翌三月には藤原武智麻呂が大納言に進みます。そうして八月になりますと、やはり不比等の息子でありました京家の麻呂が河内の古市郡の賀茂子虫(かものこむし)という者が捕えたという瑞亀またしても献上してまいります。ここで先ほど申しました亀のことをふたたび思い出していただきたいと思うのでありますが、その河内の古市郡で捕えられた亀の背中には「天王貴平知百年」、つまり天皇は貴く平らかにして百年をしろしめす、という意味の字が書かれていたというのであります。そこでその瑞亀にもとづきまして、書かれた文字のうちから「天」と「平」という二字を取って、「天平」という年号が生み出され、神亀は天平と改元されたのであります。いわゆる天平という年号は、こういう事情のもとに生まれて来たわけであります。先ほど申しましたように、このころの亀による改元は、そのあとで必ず天皇の即位を導くというほどに、非常に重要な意味を持たされておりました。この時は、年号そのものには亀という字は付けられませんでしたけれども、やはり亀にちなむ改元は、この後に来たるべき事件というものが、天皇の即位と同じように重要な意味を持っていることを、人々に知らせんがためのものであったと見ていいと思うのであります。しかも、この亀が捕えられた河内の古市郡、つまり今の羽曳野(はびきの)市古市(ふるいち)町のあたりでありますが、あの付近は不比等の妻でありました県犬養三千代の出身地であったと考えられるのであります。詳しい考証は省略いたしますが、三千代の娘の安宿媛という名前も、いわゆる河内飛鳥の安宿郡にちなんで付けられた名前であるというふうにも見られます。また賀茂子虫という亀を見つけた者につきましても、鴨里(かものさと)という地名がやはり古市郡内にあったわけでありますし、さらに想像をめぐらしますと、不比等のもう一人の妻で、藤原宮子を生みました賀比売(ひめ)とも関係があるのかもわかりません。そういうわけで、この河内の古市郡の一帯は三千代や不比等、あるいはその一族の人たちとは非常に因縁の深いところでありまして、それらのことを考えますと、明らかにこの瑞亀の献上は藤原氏一族が安宿媛を皇后に立てるために仕組んだ一つの演出であったということがわかるのであります。こうして、そういう瑞亀による改元のあとに来たものが、すなわち安宿媛の立后、光明皇后の実現であります。したがって、安宿媛が皇后の地位についたということは、繰り返し申しますように、天皇の即位に準ずべき意味を持っていたということになるのであります。そしてそれは皇后は場合によっては女帝として即位する可能性を秘めているという意味を含んでのことでありまして、その光明皇后が後に実際どういうような働きをするかということは、次の回にお話をすることになるだろうと思いますが、以上のことをよく記憶しておいていただきたいと思うのであります。

こうして光明皇后の立后が実現するのでありますが、藤原氏はその時の詔の中で二つのことを述べまして弁解をしております。一つは、こういう時点になって──ということは、つまり聖武天皇が天皇の位についてからすでに六年もたっているからですが、ようやく今、安宿媛を皇后にしたのは、皇后の地位が非常に重要なので、適当な候補者を今まで慎重にさがしていて遅れたのだということ。それから、もう一つは、皇后という地位には臣下の者はなれない、しかし歴史を綴(ひもと)いてみると、古く仁徳天皇の皇后に葛城曽豆比古(かづらきのそつひこ=襲津彦)の娘の伊波乃比売命(いわのひめのみこと)という者がなっている。だから、今、藤原氏の安宿媛を臣下から皇后につけたというのは、決して異例ではなく、先例があるんだということ。この二つの言い訳を、その詔の中でしておるのでありますが、なぜそういった言い訳が必要であったかは今までお話をいたしましたことでおわかりいただけると思います。

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