《天平‧奈良》,朝日新聞社,1973。
岸 俊男
養老律令と藤原不比等
さて、先ほど和銅元年に藤原不比等が右大臣にのぼったと申し上げました。この時藤原不比等の上席には、左大臣の石上麻呂と知太政官事の穂積親王の二人、さらに大納言には大伴安麻呂がおりました。しかし年表をごらんになってもおわかりいただけるように、まず最初大納言の大伴安麻呂がなくなり、続いて穂積親王がなくなり、さらに石上麻呂が養老元年になくなるのでありますが、いずれもそういう人たちの後任は補充されないままになっております。つまり知太政官事の後任も、また左大臣や大納言の後任も空席のままになるわけであります。ということは、結局右大臣の藤原不比等が一人で政治を行なうという方向に進んで行ったことになるのであります。ただ養老元年に不比等の次男であります房前(ふささき)が参議に列せられます。しかし このことも、それまでの政治の慣例から申しますと異例でありました。 と申しますのは、それまで は大体国政を議する者、つまり議政官は同じ氏からは二人以上出ないことになっていたのでありま すが、ここで初めて藤原氏から不比等と房前の二人が、今日で申しますと内閣に列することになっ たのであります。 しかも、それまで高い地位にあってなくなった人たちの後任は補充しないという のでありますから、つまり藤原氏、とくに不比等とか、あるいは房前、そういう人たちが政治を独 占するという方向に次第に傾いて行っていた。これが養老の初年の政界の情勢であると考えられる のであります。
こうした空気の中で、ご承知のように、養老二年に養老律令が編纂されます。大宝律令が編纂されましてから養老の初年まで、三十年近い年月がたったわけでありますが、この養老律令の編纂という仕事は、大宝律令の場合と違いまして、今度はもっぱら藤原不比等がその中心になります。しかし、この養老律令につきましてはいろいろとふしぎなことがあります。というのは、養老律令というのは非常に有名な律令でありますが、その当時の公式の歴史書であります『続日本紀』には養老律令編纂のことは書かれておりません。また、養老律令と、それより前の大宝律令とを比較いた しますと、ただ若干字句の修正を行なっておる程度でありまして、内容はほとんど変わっていない。それから、普通はこの養老律令は養老二年に完成したように伝えておるのでありますが、いろいろなことを調べてみますと、実際は養老二年ごろから編纂の仕事が始まって、それが一応終わるのは養老六年ごろではなかろうかと考えられています。それは養老六年になって養老律令を編纂したという功によって何人かの者が田を賜わっている記事が出て来るからであります。しかも、もう一つふしぎなことは、そういうふうにしてせっかく編纂をいたしました養老律令が、ついにその時は施 行されなかったということであります。大宝律令をはじめ、それ以前の律令はすべて編纂されるとすぐ施行に移されて行ったのでありますが、この養老律令だけは、編纂が終わったように見えるに もかかわらず、すぐには施行には移されなかったのでありまして、この養老律令が施行されますのは四十年ほど経過してからであります。こういう実情を勘案いたしますと、養老律令は、結局事業としては完成しなかったんじゃなかろうかと思われて来ます。なぜ完成しなかったのだろうかと考 えてみますと、ちょうど養老律令が編纂されている最中の養老四年八月に、その中心人物でありました藤原不比等がなくなっているのであります。そうした中心人物である不比等がなくなりましたために、養老律令はついに完成もせず、また施行にも移されないというような事情になったものと思われるのであります。
ところが、藤原氏と申しますのは、不比等の父であります鎌足が近江令の編纂に参加をしている。また、不比等自身は大宝律令の編纂にも参加をした。あるいは、後に養老律令を施行に移しますのは、不比等の孫に当たります藤原仲麻呂でありますが、こういうわけで、藤原氏は律令というものと非常に深い関係があるのであります。したがって藤原氏というのは、いわゆる律令体制とたいへん密接な関係を持った官僚貴族でありまして、藤原氏が勢力を伸ばして来る基盤は新しい律令体制にあったのだろうと思います。こういう藤原氏の行き方に対しまして、皇族、皇親とか、あるいは大伴氏、佐伯氏というような古い氏族たちは反発をしていたと見ることが出来るのではないかと思いますが、そうした中で養老四年に藤原不比等がなくなったのであります。
元明太上天皇崩御の前後
ここで非常にきわ立った一つのことが起こります。それは年表をごらんになっていただきますとおわかりになりますように、藤原不比等が養老四年になくなりましたとこ ろで、穂積親王のあと、しばらく空席でありました知太政官事に舎人親王が就任いたします。舎人親王はやはり天武天皇の皇子で、そのすぐ前に『日本書紀』を完成させております。そして同時に、同じく天武天皇の皇子であります新田部(にいたべ)親王が知五衛及授刀舎人事という官につきます。授刀舎人(たちはきのとねり)というのは、先にも申しましたが、元明天皇即位の時に置かれ武装の舎人であり、五衛というのは衛門府と左右衛士府、左右兵衛府の五つの衛府であります。そして何々の事を知るというのは、現在の知事という言葉と同じことでありまして、知太政官事というのが、言わば内政面の最高責任者でありますのに対しまして、この知五衛及授刀舎人事というのは、軍事面の最高責任者ということになるわけであります。したがって、ここで舎人親王と新田部親王がそれぞれ二つの重要なポストについたということは、それまでの藤原不比等中心の体制に対して、今度は天武天皇の皇子たちを中心とする、いわゆる皇親勢力が政治の主導権を握ったということになるわけでありまして、ここで政権の交代が明らかに行なわれたと見られるのであります。それだけでなく、長屋王が右大臣の地位につきます。長屋王と申しますのは、やはり天武天皇の皇 子で太政大臣であった高市皇子の子供であります。高市皇子も皇太子でありながら早くなくなった のでありますが、今その子の長屋王が大納言から右大臣にのぼってまいったのでありまして、明らかに今度は政治の主導権が藤原氏から天武の皇親たちの手に移ったのであります。これが養老の末年からの状況であったと見られます。
ところで不比等がなくなりました時に、それでは藤原氏の勢力は一体どういうふうになっておったのでしょうか。藤原不比等には四人の男子がおります。長男が武智麻呂(むちまろ)、次男が房前、三男が宇合(うまかい)、四男が麻呂(まろ)。この四人がそれぞれ藤原氏の四家、すなわち南家(なんけ)、北家(ほっけ)、式家(しっけ)、京家(きょうけ)を立てることになるのでありますが、不比等がなくなりました段階で、武智麻呂は四十一歳で正四位下、それから房前が四十歳で従四位上、次に宇合が二十七歳で正五位上、麻呂が二十六歳で従五位下でありました。いずれも四 位か五位の位におったのでありますが、それが養老五年の正月になりますと、急に三位、あるいは四位にのぼってまいりますから、藤原氏もそういう状況の中で、必ずしも低迷を続けておったわけではないようであります。
さて不比等のなくなりました非常に微妙な状態の中で、同じく五年の十二月にそれまで太上天皇の地位にありました元明太上天皇がなくなります。元明太上天皇はなくなります前に、自分が死んだ時のことをいろいろと事こまかに遺言をいたしておりまして、自分がなくなっても、天皇は平日のように国務を見、貴族官人は本務を怠ってはいけない、また、衛府や近習たちは、警戒を厳にして不慮のことの起こるのに備えよと言っておりますし、とくに藤原房前を内臣(うちつおみ)に任じまして、内廷のことをよく取り締まるようにと命じております。しかもなくなりますと同時に、愛発(あらち)・不破(ふは)鈴鹿(すずか)の三関(さんげん)に使を遣わして、関所を閉鎖しておりますし、また万一のことが起こった場合に備えまして、将軍の号令の伝達のために鉦や鼓を授刀寮と五衛府にそれぞれ置くということも行なわれております。これは元明太上天皇の崩御ということが、やはりこのころの政治の動きの中で非常に重要な意味を持っていた、つまり、この場合にも先の文武天皇崩御の場合と同じように、一つの政治的な危機であったからであるというふうに見ることが出来るわけであります。
先ほど、日本の古代史では、天皇がなくなったあとには必ず皇位の継承をめぐる争いが起こる、そういう意味で天皇の崩御の後のある期間が非常に政治的に不安定な時期であったということを申し上げました。しかしこの場合はすでに元明天皇は位を元正天皇に譲っていて、太上天皇、つまり後の上皇ですから、ちょっと事情が違うのではないかという疑問が起こるのではないかと思いますが、実はこのころの上皇は位を天皇に譲ったからといって、決して実権を完全に手放したわけではなく、むしろ天皇の背後にあって政治の実権をなお持っていたと見ることが出来ると思うのであります。それは、これ以後の太上天皇、つまり元正天皇、聖武天皇、あるいは孝謙天皇の太上天皇になってからの期間が、それぞれ政治的にそういう意味を持っていると見られるからであります。こういうように太上天皇がなお政治の実権を握っていたということは、何も日本で始められたことではないようで、中国でもそういう例はあるのであります。天皇が位を次の天皇に譲って上皇になるという例は、日本では皇極天皇の時に始まり、平安時代になりますと、むしろそれが一般化して行って、後にはご承知のように、いわゆる院政という政治形態が生まれて来るわけでありますが、実は、すでに奈良時代において、言わば後の院政的な政治形態がすでに存在していたと見ることが出 来るのでありまして、そういう意味で、上皇であった元明天皇の崩御はやはりその時点において一つの政治的な危機を導きやすい、非常に重要な事件であったと言えると思うのであります。
しかもその政治的危機というのも、不比等がなくなって、政権の交代が行なわれたことから来るような性格のものではどうもなかったようであります。と申しますのは、元明天皇がなくなりました直後の養老六年正月に、多治比三宅麻呂(たじひのみやけまろ)・穂積老(ほづみのおゆ)の事件というのが起こっております。これはどういう事件かと申しますと、多治比三宅麻呂という者が 謀叛を誣告(ぶこく)した。つまりだれかが謀叛をたくらんでいるということを密告したが、それは誣告というからには、事実ではなかったのであります。それからもう一つは穂積老という者が天皇の乗輿(じょうよ)を指斥(しせき)したというのです。天皇の乗り物を指さすというのはつまり天皇そのものを批判したことで、ともに死罪に処せられるところを、皇太子首皇子の助命嘆願によって死を免れ、それぞれ伊豆と佐渡に流されたというのでありまして、『続日本紀』に見えますが、事件の内容についてはそれ以上詳しいことはわかりません。ただ多治比氏という一族はこれから後にもたびたびこういう政争の中にあらわれてまいりまして、終始藤原氏に反対的な行動をとります。真人(まひと)という姓(かばね)を持っていますが、これは天武朝に定められたいわゆ八色(やくさ)の姓の最上に当たり、比較的新しく皇族から分かれて出来た氏であります。ですから、本質的には皇親と違わないと見られますし、穂積氏も旧族物部氏の一族です。ですからこの二つの事件の背後にはやはり藤原氏に反対をする人たちの行動があったと見ていいと思うのであります。事件はそれ以上進展しませんでしたが、そういうことが元明太上天皇崩御の直後に起こっているところからすると、やはり、その時期に何らかの政治的な危機があったと感ぜられるのであります。
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