《天平‧奈良》,朝日新聞社,1973。
岸 俊男
平城京の造営と元正天皇の即位
遷都の詔の発せられました平城京は造平城京司を任じて建設に着手され、早くも和銅三年三月には遷都となりました。平城京そのものについては次の回に坪井さんが詳しくお話をされると思いますので、私はここでは簡単に触れておくことといたします。付図の「古代大和の交通路」という図をごらんになっていただきますと、大体のことはおわかりいただけると思いますが、平城京というのは、要するに、藤原京、これが図の下のほうに斜線を引いて示してあります部分でありますが、これをそのまま中つ道と下つ道に沿わせて北に延ばしまして、下つ道を軸に西に二倍に拡大をしたものであります。東西は二倍になったのでありますが、南北は条数を十二条から九条に減らしました関係で一倍半にとどまりまして、結局、面積は、平城京は外京と北辺の部分を除きますと、藤原京の三倍になるのであります。
こうした平城京の造営が、だれによって導かれたかということでありますが、すでに大宝律令を完成し、日本の古代律令制国家の仕組みがだんだん整って来ているような状況の中では、もはや藤原京では狭まい。だからそれを拡大してもっと大きいものをつくらなければいけないという考えがしだいに強くなって来ていたことは事実でありまして、それが文武天皇の末年に遷都を議するということになってあらわれて来たわけであります。それは浄御原(きよみがはら)令を編纂する過程で、天武天皇が藤原京の建設を決めたと同じだと思います。そういう事情でありますから、おそらくだれがこのことをおもに発議したかというようなことはあまり問題でないと思いますが、やはり藤原不比等などがこの平城遷都を言い出す中心になったであろうということは、ほぼ想定していいのではないかと思うのでありまして、藤原京から平城京に都を遷します時に、肝心の左大臣の石上 麻呂は藤原京に留守役としてとどまりまして、不比等らだけが平城京にまず移っているというよう なことにも、その一端がうかがわれるのではないかと思います。
こうして、都が奈良に遷りました和銅年間は、やはり平城京の造営ということに政治の中心が置かれておったようであります。ただその間にありましても、たとえば和同開珎をつくって銭の流通をはかる一つの方法として有名な蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)を出したとか、あるいは『風土記』の撰進をはかったとか、『古事記』が出来上がるとか、そういうようなことが主要な史実としてあげられてまいります。平城京の造営そのものは完成までにかなり年月を要したようでありまして、和銅四年、あるいは和銅五年ごろになりましても、まだ平城京の造営が続けられておったらしいことがいろんな史料からもうかがわれるのであります。
ところで、和銅七年六月になりますと、後の聖武天皇に当たります首皇子が皇太子の地位につき ます。時に十四歳でありましたが、その翌年の九月、今度は元明天皇が元正天皇に位を譲ります。元正天皇というのは文武天皇とは姉妹に当たりまして、氷高(ひたか)内親王と呼ばれていました。したがって、元明天皇から元正天皇に位が譲られるということは、結局は母から娘に位が譲られた ということになるのでありますが、その時の譲位の詔の中に「よってこの神器をもって皇太子に譲 らんと欲すれども、年歯幼稚にしていまだ深宮を離れず。」とあります。つまり、今この段階で私皇太子である首皇子に天皇の位を譲ろうと思うけれども、まだ年が若く、ちょっと早過ぎる。この時首皇子は十五歳であったのです。だから私は、今、娘の氷高内親王に皇位を譲りたい、というのであります。どうしてこの時に元明天皇が元正天皇に位を譲ろうとしたか、この間の事情については、はっきりしたことはわかりません。しかし、元正天皇はそれまでの女帝とは違いまして、未婚の女性でありました。そういう未婚の女性が天皇の位につくというのは、日本の正史の伝える ところでは初めてであります。そういう点で、元正天皇の即位というのは新しい例を開いたという ことになるのでありますが、この時に元正天皇が即位をしたということの背後には、首皇子が皇太子の地位にのぼったということも関係があるでありましょうし、もう一つは、その年に、それまで知太政官事(ちだじょうかんじ)でありました穂積(ほづみ)親王がなくなったことも見のがせな いと思います。知太政官事というのはどういう役職かと申しますと、簡単に言えば、太政大臣と同 じものと見ていいわけでありますが、実は大宝令の規定で、太政大臣というものは、それまでの太政大臣と違って、非常に理想化されまして、天皇の師範となるべき人であるとか、あるいは万民の手本にすべき人だとかいうようなたいへんむずかしい地位として規定されてしまいました。そこでだれもが簡単に太政大臣になるということがちょっと困難な状況が出てまいりました。また太政大臣には「臣」という字が付けられていますが、そうすると本来臣下の者がならなければならない。しかし、それまで太政大臣には天智天皇の皇子の大友皇子と、天武天皇の皇子の高市皇子がなっております。また知太政官事という地位には、最初に刑部(おさかべ)親王、続いて穂積親王、それから舎人(とねり)親王、鈴鹿(すずか)王というふうに、いずれも天武天皇の皇子、あるいはそ 孫に当たる人たちが実際なるのでありまして、いずれも皇族であります。このために太政大臣という、「臣」という言葉を含む官名は不適当であるので、代わって知太政官事と呼び換えたのだとも言われております。しかし、この知太政官事は、その当時において、実際、国の政治を取り扱う最高責任者としての役目を負わされていたものと思うのでありまして、非常に重要なポストであったと考えられるのです。それが代々天武天皇の皇子によって受け継がれて行ったということは、やはりたいへん重要な意味を持っていると思われるのでありまして、これから申し上げます奈良時代 の政治の動きは、一つは藤原氏の勢力、もう一つがそういう皇族、皇親の勢力、それには大伴氏とか、あるいは佐伯氏とかいうような古い豪族が加わりますが、そういう二つの党派の抗争によって展開します。つまり藤原氏と反藤原氏、この二つの流れが互いに勢力を競いながら争って行くというのが、奈良時代の政治史の底流であるわけであります。したがって知太政官事の穂積親王がなくなった直後に元正天皇が即位をしたということは、やはり両者の間に何らかの関係があったというふうにも考えられるわけでありまして、このことは最初の知太政官事である刑部親王がその地位についたのが、持統太上天皇がなくなった直後であったということともかかわって来るのでないかと思います。
霊亀改元
ところで、元正天皇が即位をいたしますとともに、年号はそれまでの和銅から霊亀に改められました。これは即位の少し前に左京に住んでおりました高田首久比麻呂(たかだのおびとくひまろ)という者が一匹の非常に珍しい亀を献上したことによります。その亀は長さが七寸で幅が六寸、左の目が白く、右の目は赤い。首には三公(さんこう)をあらわし、背に七つの星を負う、などという不思議なものであるので、それにちなんで年号を霊亀と改めたというわけであります。大体このころ、年号を改める、すなわち改元と申しますが、それには何か瑞祥が必ず先にあらわれました。つまり何か珍しいおめでたいことがありますと、それにちなんで改元をするのであります。たとえば日本で公式の年号の最初は大宝でありますが、「大きな宝」と書くのは対馬で銀が見つか ったという瑞祥にちなんだものでありますし、その次の慶雲という年号は藤原宮の西楼に非常にきれいな雲がかかったので、「慶びの雲」と改めたのであります。またその次の和銅という年号は、ご承知のように、武蔵国から和銅(にぎあかがね)が献上されたので、これはめでたいことであると改元したのでありまして、大体奈良時代ごろの年号というのは、すべてこういう瑞祥にちなんで改められたものであります。ところが、奈良時代の年号の中で、今申しました霊亀のように「亀」という字の付きました年号が三回出てまいります。一回がこの霊亀、それからもう一回は、その次に出てまいります神亀、もう一回は奈良時代の終わりに近いころに出てまいります宝亀であります。
霊亀への改元の事情は今お話したとおりでありますが、神亀の場合は養老という年号が改められるのでありまして、この時も左京に住む紀朝臣家という者が白亀を献上したのであります。それから、最後の宝亀でありますが、これは肥後国の葦北郡の日奉部広主(ひまつりべのひろぬしめ)と、同じく益城(しき)郡の山稲主(やまのいなぬし)という二人の肥後の住人が、やはりこの場合も白い亀を見つけて献上したので、宝亀というふうに改元されたのであります。ところがここでお もしろいことは、今申しましたように、霊亀という改元のあとで元正天皇が即位をします。ところ が、次の神亀という改元の時も、そのあとで聖武天皇が即位をいたします。それから、最後の宝亀という年号の時にもやはり光仁天皇が即位をいたします。こういうわけで、奈良時代には亀にちなんだ年号に改元されますと、必ずそのあとで新しい天皇が即位をするということになっておるのでありまして、しかも、珍しい亀を献上いたしました人たちは、それぞれあとで位を授けられたり、あるいは、いろいろな物を賜わっておるのでありますが、その賜わり物の数量を見ましても、すべてこの三つの場合は同じであります。すなわち、絁(あしぎぬ)が二十疋、綿が四十屯、布が八十端、稲が二千束。いちばん最後の宝亀の場合は二人が亀を献上したわけでありますが、仲よく二人でその賜わり物を二つに分けております。非常に画一的にこういうことが行なわれていることは注意を要する点でありまして、実際は珍しい亀が見つかってめでたいというので改元が行なわれ、そして新しい天皇が出現するというように事が運んだように記録には書かれておるのでありますが、おそらく実情は、新しい天皇の即位を演出するために、ことさらにその前に瑞亀を出現させて、そうしてそのおめでたいという風潮の中で新しい天皇を迎えるというふうに仕組まれておったものと思われるのであります。そういうわけで、亀にちなむところの改元は、奈良時代には、必ずそのあとに新しい天皇の出現が予定されていたということになるのであります。この事実は、あとでお話をいたしますことの上で少し意味を持っておりますので、ご記憶いただきたいと思うのです。
こうして元正天皇が即位をいたしまして、年号は霊亀と改められました。そしてその霊亀二年に三千代の娘であります安宿媛(あすかべひめ)、これが後の光明皇后になるわけでありますが、この安宿媛が首皇子、すなわち後の聖武天皇の妃として入内(じゅだい)いたします。安宿媛は三千代が藤原不比等に嫁して生んだ子供でありまして、聖武天皇と同じく大宝元年の生まれでありますので、ちょうど聖武天皇とは同い年に当たるわけであります。ところで霊亀という年はわずか二年ほどでありまして、霊亀三年は養老という年号に改められます。これは有名な「養老の滝」の養老でありまして、天皇が美濃国に行幸中に美泉を見つけたことによります。すなわちその水を飲み、また浴すると、白髪は黒髪に変わり、頭のはげた人はもとのように毛が生え、盲目は目が見えるようになる。そういう霊泉を見つけたので、大瑞であるとして養老と年号が改められたのであります。こうして時代は養老年間に移ってまいります。
留言列表