《天平‧奈良》,朝日新聞社,1973。
岸 俊男
元明女帝と平城遷都
今回の「天平・奈良」という講座の第一回といたしまして、私が最初に「奈良朝百年」と題して、奈良朝における一世紀の歴史の流れを、主として政治の展開を中心にしながらお話をすることとなりました。あとで、美術あるいは文学についてのお話がございますが、そういう方々のお話の基礎という意味で、八世紀一世紀の歴史の流れをはじめにお話いたしておきたいと思います。お手もとにお渡しいたしましたレジュメの折り込みになっております年表をごらんになりながら、お聞きいただきたいと思います。
ここで奈良朝百年と申しますのは、普通奈良朝は七代七十余年と称しておりますが、この七代七十余年の奈良時代に、平安時代のはじめに平城上皇がふたたび平城京に帰ってまいりました期間を加えたものであります。すなわち、藤原京から平城京への遷都は和銅三年、西暦七一〇年でありまして、その平城京から長岡京に都が遷されますのが延暦三年、西暦七八四年であります。この間が、天皇では元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁の七代、年数はちょうど七十五年に当たります。そうして長岡京から平安京に都が遷りまして後に、嵯峨天皇と対立しまし平城(へいぜい)上皇がふたたび奈良の平城京に帰りまして、一時平安京と平城京の両朝廷が並立するような状態がしばらく続くのであります。これが大同四年、すなわち西暦八〇九年から、平城上皇が平城宮でなくなります天長元年、すなわ西暦八二四年まででありますが、この間約十五年ございます。で、先の奈良時代と合わせまして九十年、それに若干の前後の年月を加えますと、大体百年という年数がそこから出て来るわけであります。
さて奈良朝と呼んでおります歴史の時代区分は、平城京への遷都に始まるわけでありますが、有名な遷都の詔(みことのり)には「方今(ほうこん)平城の地は、四禽(しきん)図に叶(かな)ひ、三山鎮をなし、亀筮(きぜい)並び従ふ、よろしく都邑(とゆう)を建つべし。」とあります。平城の地は、いわゆる陰陽(おんみょう)の思想にかなった非常にいいところであるので、ここに都を遷そうというのでありまして、この遷都の詔が出されましたのが和銅元年の二月であります。この詔の中で、即位をして間もない元明女帝は、私は薄徳の身でもって天皇の位についた、その大任を思うと、今ここで遷都のことなど考えておる余裕はとてもない、しかしながら、王公大臣はしきりに私に都を遷すことを勧めるので、その人たちの情熱と衆議を無視することは出来ない。しかも都というのは百官の府、つまり政治の中枢であり、また四海万民の帰するところであって、私一人のものではない、だから、いたずらに遷都の労を避け、私が安逸をむさぼっているわけには行かない、いやしくも国家に利益のあることであるならば、たとえ平城の地は遠くあっても、やはり都 をすことに踏み切らなければならない。そういうような意味のことを、その詔の中で元明天皇は述べているのであります。実は、この遷都のことは、すでに文武天皇が存命中の慶雲末年に百官に対して下問されております。ところが、その議は、文武天皇がなくなりましたために一時中絶になっておったのであります。
ところで、文武天皇がなくなりました時に、文武天皇の皇子でありました首皇子(おびとのおうじ)、すなわち後の聖武天皇でありますが、この首皇子はまだ七歳の幼少でありました。したがって、なお天皇の位につくのは早いというので、文武天皇の母で、草壁(くさかべ)皇子の妃でありました阿閇(あべ)皇女がしばらく中継ぎ的な意味で、女帝として天皇の位につくことになったのでありまして、これが元明天皇であります。こうした女帝の出現は、実はこのころにおきましては一つの慣例になっておりました。日本の歴代の天皇の中で女帝と申しますと、最も早いのは推古天皇。それから、その次が皇極天皇。皇極天皇はもう一度位につきます。これが斉明天皇でありますが、その次が持統天皇。そしてこの元明天皇。以後、元正天皇、孝謙天皇。孝謙天皇ももう一度位につきます。これが称徳天皇でありますが、こういうふうに大体七世紀から八世紀の中ごろまでに女帝がしばしば出てまいります。以後は江戸時代に二人、明正天皇と後桜町天皇が出るだけでありまして、日本の皇統の中では、女帝は主としてこの時期に集中しているわけであります。ところが、このころの女帝の中でも、元明天皇以前の推古天皇、皇極(斉明)天皇、持統天皇というような女帝は、すべてこれ先帝の皇后であったのであります。すなわち、推古天皇は敏達天皇の皇后でありますし、皇極天皇は舒明天皇の皇后、それから持統天皇は天武天皇の皇后でありました。こういうふうに、先帝の皇后であった女性が、先帝がなくなりました後に、適当な皇位継承者が男子にないか、あるいはあっても複雑な事情があるような場合に、しばらく中継ぎ的な意味をもって天皇の位につく。これがこのころまでの日本の皇位継承の一つの慣例であ ったわけであります。
ところで、現在問題になってまいりました阿閇皇女、すなわち元明天皇は、正式には皇后であったとは申せないのであります。すなわち、元明天皇の夫でありました草壁皇子は天武天皇の皇子で、皇太子であったのでありますが、即位を待たずに、天武の死後すぐなくなりました。しかし、なくなりましてからは天皇と同じ取り扱いを受けたようでありまして、元明天皇が即位する少し前に、すでに天智天皇や天武天皇と並んでその命日が国忌(こき)とされております。国忌と申しますの は天皇のご命日のことでありますから、このことからも天皇と同じ取り扱いを受けておったことが わかります。事実、これから後でありますが、草壁皇子のお墓は檀(まゆみ)山陵と呼ばれておりますし、また、岡宮御宇天皇(おかのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)というふうに、天皇という称号を贈られております。したがって、その妃でありました阿閇皇女もやはり皇后に準ずべき人、とその時考えられていたと見ていいと思います。皇后即位の慣例にしたがって、中継ぎ的な意味において女帝として即位をしたと考えられるのであります。
女帝の不安と不比等・三千代
しかし、遷都ということは女帝にとっては非常な大事業でありまして、先ほど申しました詔の中にも遷都に対するある種の不安が表明されているように見られるので ありますが、 さらに、その当時の元明女帝の心境を歌ったものとして、『万葉集』の巻一に、和銅 元年の天皇の御製というのが一首載っております。
ますの鞆(とも)の 音すなり もののふの
大臣(おほまへつぎみ) 楯立つらしも(巻一─七六)
この歌についてはいろいろな解釈がありますが、私はやはりこの歌には和銅元年におけるある種の危機、そういうものが中に歌い込まれていると思うのであります。兵士たちが弓を射る鞆の音が 聞こえる。これは物部の大臣右大臣の石上麻呂(いそのかみのまろ)とも見られますが、その命令で楯を立てて軍事訓練をしているのだろう。歌の意味はそれだけでありますが、この歌の次に、元明女帝の姉に当たります御名部(みなべ)皇女の歌がやはり載っております。この御名部皇女というのは、後に出てまいります長屋(ながや)王の母に当たる人でありまして、阿閇皇女、すなわ元明天皇とは母を同じくする姉妹であります。
わが大君 物思ほし 皇神(すめがみ)の
継ぎて賜る 我無けなくに(巻一─七七)
わが大君、つまり元明天皇でありますが、そんなにご心配なさいますな、姉妹の仲である私があなたのおそばにおるではありませんか、という意味であります。この御名部皇女の歌の中に、かえって元明女帝の不安な心を慰めようとする気持ちが込められているのでありますが、それは、この時期がとくに遷都の問題というものを含んで、一つの不安定な時期であったからというだけでないのでありまして、大体このころまでの日本の歴史の流れを見てみますと、天皇がなくなりましたその直後には、必ずと言っていいほど皇位継承をめぐる争いが起こっております。
たとえば、早いところでは推古天皇がなくなりましたあとで、やはり皇位継承をめぐりまして、蘇我蝦夷(そがのえみし)が擁立するところの田村皇子、これが後の舒明天皇でありますが、この田村皇子と、それから境部臣摩理勢(さかいべのおみまりせ)という者の推します聖徳太子の子の山背大兄(やましろのおおえ)王、この二人の間に争いが起こりまして、山背大兄王を擁した摩理 勢が蝦夷に殺されるという事件が起こっております。それから、もっと近いところの例をとりますと、ご承知のように、天智天皇の弟の大海人(おおあま)皇子と、同じく天智の皇子でありました大友(おおとも)皇子の間には有名な壬申(じんしん)の乱が起こっておりますが、それは天智天皇のなくなりました直後であります。さらに阿閇皇女の夫でありました草壁皇子と、それから同じく天武天皇の皇子でありました大津(おおつ)皇子の間に、やはり不和による事件が起こって、大津皇子が謀叛(むほん)の罪で死を賜わるという、いわゆる大津皇子の変も天武天皇がなくなりまして一個月とたたない時期であります。したがって、天皇の崩後というのは、このころの日本の歴史の流れの中では非常に不安定な、事件の起こりやすい時期であったわけであります。
元明天皇が即位をいたしました時も、『続日本紀(しょくにほんぎ)』を見ますと、大内陵(おおうちのみささぎ)、すなわち天武天皇・持統天皇を合わせ葬りました例の檜隈(ひのくま)大内陵でありますが、この大内陵に異変があったことが記録されておりますし、また天皇の身辺をとくに警戒する必要があったためか、今まで五衛府の兵衛(ひょうえ)衛士(えじ)たちだけであったのに加えて、授刀舎人(たちはきのとねり)寮というものをとくに置いて、天皇の身辺の警護を厳重にすることが行なわれております。したがって、元明天皇が即位をいたしました和銅元年という時点は、そういう点で非常に注目すべき時期であったと思われるのであります。
もう一つ、この和銅元年について注意すべきことは、先ほどの遷都の詔が発せられましたすぐそ のあとの三月の人事異動で、それまで右大臣でありました石上麻呂が左大臣にのぼり、同時に、大納言でありました藤原不比等(ふひと)が右大臣に進んで来たことであります。また同じく十一月には元明天皇即位に関しての大甞会(だいじょうえ)が行なわれましたが、その大甞会の宴席で、不比等の妻でありました後の橘三千代(たちばなのみちよ)、すなわち県犬養(あがたいぬかい)三千代が天武朝から文武朝に至る間、ずっと命婦(みょうぶ)、つまり女官として宮廷に仕えて来ました忠誠を嘉(よみ)せられまして、盃に橘の花を浮かべて賜わり、「橘という果実は最もすぐ れていて人の好むところである。しかも枝は霜雪をしのいで繁茂し、葉は寒暑をへてしぼまない。 また珠玉とも光を競い、金銀に交わってもいよいよ美しい。そういうすぐれた橘のように。」というので、三千代は橘宿禰(たちばなのすくね)という氏姓を与えられます。
ご承知のように、藤原不比等は有名な鎌足(かまたり)の第二子であります。すでに持統天皇のころに中納言にのぼりまして、文武天皇が即位をいたしますと、その娘でありました宮子を文武天皇の夫人に入れました。先ほどから申しております首皇子、すなわち後の聖武天皇がこの宮子と文武天皇の間に生まれるのでありますが、これが大宝律令の出来上がりました大宝元年、すなわち西暦七〇一年のことであります。聖武天皇はそういうわけで西暦七〇一年に誕生しておりまして、年齢は西暦と一致いたしまして非常に勘定しやすいのであります。不比等はその時、すなわち大宝元年に大納言に進み、大宝律令の撰定にも参加しておりますし、文武天皇がなくなります直前には、封戸(ふこ)として五千戸を与えられます。もっとも五千戸というような莫大な封戸は、それまでには太政大臣になりました高市皇子(たけちのみこ)がもらっただけでありますので、さすがの不比等も気が引けたのでありますか、これは辞退して、二千戸だけもらっております。 こういうふうに不比等が栄進してまいります陰にあって、内助の功があったと言われるのが、今申しました県犬養三千代であります。
県犬養氏というのは早くから宮廷に隠然たる勢力を持っていた氏族のようでありますが、三千代自身は早いころ敏達天皇の曾孫に当たります美努(みぬ)王と結婚いたします。そして二人の間には葛城(かづらき)王と佐為(さい)王、それから牟漏(むろ)女王という三人の子供が生まれたのであります。葛城王は後の橘諸兄(たちばなのもろえ)でありますが、どういうわけか、持統天皇の末年か文武天皇のはじめのころに、三千代は美努王と別かれ、そうして藤原不比等と結ばれたのであります。この間の事情についてはいっさい明らかでありませんが、美努王とは別に死別をしたわけではないようであります。こうして不比等の妻になりました三千代は、それまで宮廷で命婦として仕えて来た関係を存分に利用して、夫の不比等を助けたと考えられています。こうして和銅元年には不比等は右大臣になり、三千代は橘の氏姓を賜わるというように、藤原氏の勢力がだんだ んと伸びて来るのであります。
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