それのみではない。博覧会の場合は、『美術叢書』刊行の影響は、より一層、顕著である。すなわち、その初版本の初期刊行直前の清朝最末期、宣統二年(一九一〇)開催の南洋勧業会では、「美術館」が設けられているものの、「工藝門、鋳塑門、手工門、彫塑門」(「南洋勧業会遊記・巻一・美術館」『中国早期博覧会資料匯編(二)』北京:全国図書館文献微縮複製中心、二〇〇三年)の四部門のみしかなく、美術概念の範疇を明確に認識し得ておらず、「美術館」の体をなしてはいない。それに対して、南洋勧業会に次ぐ、中国で二番目の博覧会であり、『美術叢書』再版三集本刊行(一九二八年)直後の民国十八年(一九二九)開催の西湖博覧会に設けられた「藝術館」では、「陳列目的」として、「我国の藝術は、世界の藝術史上、久しく相当なる地位を有したり。書画には固より代に名家有れば、即ち雕刻・塑像・刺繍等、亦た往々にして特別なる絶技有り。近代に至りては、欧風東漸し、而して宗風未だ泯びす。作者は毎に多く東方の意味を以てす。新藝術の産生、或いは此に於いて之を卜するなり」と高らかに宣言し、中国的な書画概念を保持しつつ、ヨーロッパの影響を蒙ったとしても、多くは「東方の意味」参じて、「新藝術」の産生がなされようと主張する。また、「徴品内容」としては「計分るに、西洋画・中国が・書法・(郵票)・(金石)・工藝藝術・雕刻・建築・(写真)・(音楽用具)・(小工藝品)等と為す」とし、絵画・彫刻・工藝・建築からなる、ヨーロッパ本来の美術概念をより正確に把握しつつ、写真や楽器、中国の鼻煙壺や日本の根付といった小工藝品などをも収集対象とする現代の美術館の収集方針にも沿う先進性を見せる一方で、ヨーロッパ本来の美術概念には存在しない書法が採り上げられており(「西湖博覧会指南」「四 各館所詳細地点及内容」「(三)藝術館 地点 陳列目的 徴品内容」、前掲『中国早期博覧会資料匯編(四)』)、ヨーロッパ本来の美術の枠組を受け容れ、北宋末期、蘇軾により文人書画観が確立されて以来、八百年以上に亘って継承されてきた中国の伝統的な書画の枠組は放棄しながらも、書法自体は固守する。「西湖博覧会総報告書」(前掲『資料匯編(六)』)のうち、「藝術館」本来の陳列品を扱う「藝術品研究報告一(甲部)」では、しかしながら、「一 国画」「二 西画」「三 書法」「四 彫塑」「五 建築」「六 工藝美術」の六報告の「一 国画」「四 彫塑」「五 建築」「六 工藝美術」については、適切な報告が行われてはいるものの、「二 西画」については、担当の高剣父の研究が遅延して報告が行われず、詳細は知り得ない。「三 書法」についても、「数量本より已に極めて少なし」とするなど、捗々しい報告は行われないままであり、美術概念の普及により、それに含まれない書法は、中国においてすら、徴品に苦しむ状況にあったことが知られる。その一方で、注目されるのは、「藝術館」本来の陳列品ではない。会期中に多数の収蔵家が陳列に参加したいと願って持ちこんだ所蔵品を列挙する「藝術陳列品研究報告二(乙部)」であり、「六 攝影〔撮影〕」を除くと、所謂書画骨董に属する「一 金石」「二 書画」「三 匋瓷(陶磁)」「四 古玉」「五 工藝」のすべに亘って、数多く作品が寄せられているにもかかわらず、最新の「六 攝影」のみは僅か二点に止まるのは、美術の枠組の普及の一方で、書画のそれがなお維持されていた状況を端的に物語るものと言える。

南洋勧業会と西湖博覧会の相異が、時間差によるものであったのに対して、戦前の上海と台北の場合は、地域差による。ほぼ、同じ時期、一九二九年に上海で行われた第一回全国美術展覧会(国展)と、それにやや先んじて一九二七年に台北で行われた台湾美術展覧会(台展)両展の相異は、今日想像すより遙かに大きなものであり、前者では、中国的な書画からヨーロッパ的な美術への造型藝術の枠組の交代が行われてはいるものの、美術の分野としての書画は、当然のこととして美術の筆頭に挙げられているの対して、後者では一九〇七年に始まる文部省美術展覧会(文展)に倣って、第一部東洋画、第二部西洋画のみの構成となり、書は全く取り上げられてはいない(顏娟英「官方美術文化空間的比較─1927年台灣美術展覽會與1929年上海全國美術展覽會」『中央研究院歴史語言研究所集刊』台北:中央研究院歴史語言研究所、第七十三本、第四分、二〇〇二年)。国展と台展のこの差異も、前者が『美術叢書』が刊行された地元上海で、後者は日本治下の台北で開催されたためであると考えられる。

日本や台湾・韓国のように、国家や総督府の権力によるものではなく、民間の一出版社の一叢書が、美術という新造語の普及に最も大きな力があったのは、清朝の滅亡と中華民国の成立、すなわち、秦漢古代帝国以来、南北朝時代や五代・両宋時代を除いて、一貫して東アジアの世界帝国であり続けた伝統中国の終焉とヨーロッパ・アメリカ的な中華民国という民主共和国の成立という中国史上かってない大転換期にあって、国家権力が脆弱を極めたということのみに帰すことはできない。何故なら、その時期には伝統中国の文人社会は、弱体化しつつも、なお存続しており、本来は、文人書画観を確立した蘇軾のように、士大夫となって国家に仕えるものを中心に形成されるとしても、文人としての詩文や書画に寄せる活動は、既に士大夫として国家に対する責務を果たしているものを中心とする以上、国家のため行う公的なものではなく、あくまで私的なものである。ヨーロッパ的な美術概念が書を排除するとあいても、書画の枠組はあくまで私的なものであり、国家権力に訴えて書を評価させたり、排除したりすることはない。いや、むしろ、国展の主催者自身が、伝統中国の文人社会の書画観をなお継承しており、何らの疑義も出なかったと解するのが穏当であろう。
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