美術史論叢27,2011

小川裕充

東アジア美術史の可能性とは、如何なる意味での可能性なのであろうか?概念構築の可能性であるか?その概念の内包が秘める豊穣さの可能性であるか?或いは、その外延をなす個々の作品が有する造形的可能性であるか?その何れの意味においてであるのか?あるいはそのすべてであるのであろうか?

「東アジア美術史の統合的構築は可能であろうか?」という今日的かつ意義深い洪教授の「企画趣旨」に即して言えば、それらすべての意味においてであろう。とはいえ、それらすべての可能性について、いま、一概に論ずることはできない。まず、第一に述べてゆくべきは、「企画趣旨」のとおり、東アジア美術史という概念の統合的構築の可能性からであろう。前提となるのは、既に、拙稿「書画のアジア 彫刻のアジア 建築のアジア 美術のアジア-アジア美術とアイデンティティー 序説」(『アジア学の将来像』東京大学出版会、二〇〇三年)において概観したとおりであり、十九世紀に頂点に到達した、欧米帝国主義列強による世界的なヨーロッパ化・植民地化・近代化の過程で、漢字文化圏の「書画の東アジア」、ヒンドゥー文化圏の「彫刻の南アジア」、イスラーム文化圏の「建築の西アジア」という伝統アジアにおける概括的な造形的地域的が崩壊するのみならず、絵画・彫刻・工芸・建築全般を含むヨーロッパ的な造型概念である「美術」が、アフリカや中南米をも含む世界全域に普遍的に行われるに至ったことである。近代アジアは、その一環として、一括して「美術のアジア」と規定されることとなり、「アジア」は、伝統アジアの時代には、造型藝術のみに限っても相異なる上記の絵画・彫刻・工藝を中心とする三地域から看た便宜的な総称に過ぎなかったのに比して、近代アジアの時代は、美術というヨーロッパ的な概念を主軸に、三地域総体をアジアとして把握し得る、ヨーロッパ中心主義的な名称へと変化したのである。このことは、改めて言うまでもなく、単に政治的・経済的な欧米帝国主義の勝利を意味するのではない。文化的な意味を含めたその総体的な勝利を意味するである。

「書画の東アジア」が「美術の東アジア」へと変容したことは、東アジア地域世界においては、南北朝時代から近代に至るまで千数百年以上に亘って、書画のみを歴史的考察の対象としてきた中国における伝統的な造型藝術の概念なしい枠組が、絵画・彫刻・建築・工藝すべてを対象とするヨーロッパにおける近代的な概念なしい枠組へと大転換を遂げたことを意味する(拙稿「書画と美術-『今、日本の美術史学をふりかえる』国際研究集会に寄せて」『美術史論叢』東京大学大学院人文・社會系研究科、文学部・美術史研究室14、一九九八年)しかも、インドの共通語とされるヒンドゥー語では、サンスクリット語以来の伝統用語であり、絵画や音楽を含むkalāa(藝術)が、美術の意でも用いられており、イスラーム圏の共通語であるアラビア語では、al-funūn(術) al-mustaẓarafa(美)と伝統的な語彙を二つ併せて新語を造っている点に窺えるように(前掲「書画のアジア 彫刻のアジア 建築のアジア 美術のアジア」)南アジアや西アジアにおいても、伝統用語の転用や新語の造語が慣用的に共通語として採用されている。それに対して、東アジアにおいては、古典漢語にはなかった「美術」という用語は、翌年のウィーン万国博覧会への参加を控える明治五年(一八七二)に、「美術博覧場」建設の説明書において、音楽などを含む中国古代以来の伝統用語である「藝術」の意味て用いれたのを初出とし、Schöne Kunstないしfine artの訳語として用いられるようになった、近代日本の造語であり(北澤憲昭『眼の神殿』美術出版社、一九八九年)、東アジア以外の世界の諸地域では、ヨーロッパにようる植民地化・近代化のみを含意するのとは異なり、東アジアにおいては、最も遅れきた帝国主義国家である日本による、侵略や植民地をも重ねて含意するものであることをわすれてはなるまい。

美術という新造漢語に基づく、ヨーロッパ的・近代的な造型藝術の新たな概念は、しかしながら、一八八四年のフランスによる植民地化以後、日本語の漢字仮名交じり文に対応する、伝統的な漢字チュノム(Chũ Nôm)交じり文に代わって、近代的なローマ字表記が普及したベトナムについては確認できてはいないものの、漢字文化圈の中国・韓国・台湾においては急速に普及する(拙稿「『美術叢書』の刊行について―ヨーロッパの概念“Fine Arts”と日本の訳語「美術」の導入」『美術史論叢(東京大学)20、二〇〇四年』)。中国・韓国・台湾と日本は、伝統的な書画の概念ないし枠組を共有しつつ、中国は清朝晩期から民国期の半植民地化、韓国・台湾は当の日本による植民地化、日本自体は、欧米列強による植民地化を免れつつ、近代化に成功した、欧米列強以外で唯一の帝国主義国家という、それぞれが置かれた相異なる政治的・文化的状況に即して、近代的な美術の概念なしい枠組を受容せざるを得ない、時代それ自体の転換期にあったからである。

とあいえ、北宋後期の蘇軾(一〇三六-一一〇一)による文人書画観の確立以来、完成されたものとしては、八百年以上亘って続いてきた書画の概念なしい枠組は、有産階級の文化享受者である読書人、読書人から出る文化創造者である文人、同じく読書人から出る科挙及第者である進士を中心とする官僚政治家である士大夫という、重なり合う三階層による文化的・政治的な支配が貫徹してきた、伝統中国において最も強固であり、その様式展開も宮廷画家のそれを除くと、文人画家のそれが中心をなしていたことは論を俟たない。このような事情は、貴族階級の文化享受者である両班が中国における読書人と同様の立場をなす、朝鮮王朝以前の韓国においても、同断であったと解される。ただ、清朝に至って始めて中国に編入された台湾の場合は、やや事情を異にすると推察される。また、中世以降は、中国や韓国のように、単一の階層が文人や士大夫を輩出し文化的・政治的な支配を貫徹することはなく、文化的支配である公家や政治的支配者である武家、さらにはそのどちらでもない町人に至るまで、複数の階層が文化創造に携わってきた日本においては、最も脆弱であったと考えられる。

実際、明治時代には、美術は、先に触れた美術概念の受容の数年後、一八七七年に開催された第一回内国勧業博覧会では、「美術部門」として、既に造型藝術の枠組とされる一方、書画は、写真や彫刻などとともに、単なる分野として扱われるのを始めとして、一八九〇年の第三回博覧会では、絵画が「美術部門」の第一類に挙げられるにもかかわらず、書は「第五類 版、写真及び書」とされる。さらに、一九〇三年の第五回博覧會では、書は「美術部門」から排除され、一九〇七年は、書を排除し「美術部門」のみらなる文部省美術展覧会(文展)が開催される至る(五十嵐公一「朝鮮美術展創設と書画」『美術史論叢(東京大学)』19、二〇〇三年)。また、台湾では、一九二六年に台湾師範学校教師の石川欽一郎を中心とする、台北駐滞在の日本の新聞人や画家が台湾総督府に台湾美術展覧会(台展)創設を建議し、翌一九二七年始まった第一回台展の当初から、台湾総督府美術展覧会(府展)に移行した後も、一貫して「東洋画部」と「西洋画部」のに部門を採っている(中村義一「台展、鮮展と帝展」『京都教育大學紀要 A(人文・社会)』75、一九八九年、五十嵐、前掲「朝鮮美術展創設と書画」)この点については、康熙二十二年(一六八三)に清朝治下となって僅か二百年ほどの台湾においては、科挙に及第し士大夫となって文人社会の中心となり得るものは、乾隆二十二年丁丑科第三甲第四十三名で及第した、当時の福建省諸羅県(現在台湾省諸羅県)出身の王克捷を始めとして、二百年で僅かに三十一名のみと寥々たるものであり(『明清進士題名碑録索引』上海古籍出版社、一九八〇年)、中国や韓国のように、文人社会が文化的・政治的な支配階層となるほど十二分に形成されてはおらず、書画のみを造型藝術とする伝統的な文人書画観を強固に主張することのできる台湾人の書家や画家を欠いていたことが、主たる要因として挙げられよう。それに対して、韓国の場合は、一九二二年の第一回朝鮮美術展覧会では、書を排除しようとする朝鮮総督府の当初案が、書画協会や書画研究会に属する韓国側の委員会等の反対のよって変更され、書が「第一部 東洋画 第二部 西洋画及び彫刻」とともに「第三部 書」として加えられる。その後、書を含む点について議論が重ねられ、最終的には、一九三一年の第十一回展において、書は中止、第三部には工藝が入って、日本での枠組変更に続く結果になる(五十嵐、前掲「朝鮮美術展創設と書画」)ものの、状況が台湾・朝鮮両地域で大きく異なっていたことは、既に指摘したとおりである。

中国の場合は、では、どのように看ることが妥当なのであるうか?一八九七年に横浜の華僑で画家でもある馮鏡如(F. Kingsell)(?-一八七八-一八九五-?)(味岡義人・曾部川寛編『橋本氏収蔵中国書画録(東方学研究資料叢刊第13冊)』京都大学人文科学研究所附属漢字情報研究センター、二〇〇五年)が刊行した、A Dictionary od the English and Chinese Language初版がfine artに「美術」の訳語を当てており、その初出をなす(拙稿、前掲「『美術叢書』の刊行について―ヨーロッパの概念“Fine Arts”と日本の訳語「美術」の導入」)。また、日本の新造語「美術」の漢字文化圏での普及に最も力があったのは、上海神州国光社の創業者・鄧実(一八七七-一九五一)が、一九一一年から一八年までの間に出版三集本を刊行した『美術叢書』である。この叢書は、一九四七年の増訂四版全四集再版本まで再版を重ね、一九六四・七五年には、台北の藝文印書館より、増訂四版全四集本に五集・六集を加え作者索引を附す完備した増補版が刊行されるのみならず、一九九七年には、江蘇古籍出版社より、増訂四版全四集本が影印刊行されるなど、叢書としての評価は現代においてもなお極めて高いことが知られるからである。その主たる要因は、「是の書〔美術叢書〕は美術を提倡せんがため、古今の大美術家の著述を叢集して、一書に勒成す」(「略例」)と高らかに宣言しつつ、伝統的な四部分類の四庫全書子部藝術類「書画・琴譜・篆刻・雜技」に基づいて、「書画類」「琱刻摹印類」「磁銅玉石類」「文藝類」「雜記類」五類に属する書物を収載し、あおかつ、伝統を鼓舞することは必ずしも整合しない、「美術」という世界的な近代化・ヨーロッパ化に最も深く関わる新造語を採用することにある。約言すれば、『美術叢書』が、欠名『藝術叢書』(一九一六年保粋堂刊本)のように、同じく四部分類の子部藝術類に基づいて、「書学」「画学」「物譜」「雑品」に分け、そのまま中国古来の術語である「藝術」の名を冠する類書を凌いで、版を重ねつつ広く流布した最も根本的な理由は、書画中心の伝統的・東アジア的な書物を絵画・彫刻・工藝・建築を含む近代的・ヨーロッパ的な「美術」概念で包摂し再把握するその叢書名にあるいうことがわかる。また、実際、中国の南北での美術創造・教育・研究の二大中心をなす上海図画美術院(一九一三年創立・現南京藝術學院)と国立北京美術学校(一九一八年創立。現中央美術学院)が、『美術叢書』初版全三集本のうちの初集刊行(一九一一年)後に創立されていることのみを挙げても、その影響力の大きさを示すと言って過言ではあるまい(拙稿、前掲「『美術叢書』の刊行について―ヨーロッパの概念“Fine Arts”と日本の訳語「美術」の導入」)。

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